遠慮と思いやり その1
親しい人に不幸があった時、日本人は喪に服します。
たとえば、身内の誰かが亡くなると、次の正月には年賀状を出しません。
不幸があったと知らされた方も、その人に年賀状を出さないのです。
これは悲しみに暮れている人に対して、おめでとうというような言葉を、使わないという配慮でしょう。
つまり、思いやりの気持ちから、祝いの言葉を遠慮するのです。
しかし、本当にその人が悲しんでいるかに関係なく、ただの風習として年賀状を出さないということの方が、多いような気がします。
年末近くに家族が亡くなれば、正月を祝う気分になれないのは、当然のことでしょう。
また、周囲の人も悲しむ人の気持ちを酌んで、騒いだりしないと思います。
しかし、前の正月明け頃に、100歳まで生きた祖父母が、天寿を全うする形で亡くなったとしたら、どうでしょうか。
天寿を全うしたのですから、ある意味、よかったねと言えるようなことでしょう。
それに、その人が亡くなるという覚悟は、身内の人たちにもできていれば、突然に思いがけない死を迎えた時とは、心境が違います。
そんな人たちが、ほぼ一年後の正月を、喪に服するということで、年賀状を控えるというのは、少しピントがずれているように思います。
それは悲しいからそうするのではなく、単なる風習でしているだけでしょう。
風習に逆らって、年賀状を出したりすれば、あそこの家はどうなっているのかと、変な目で見られるかもしれないと、恐れてしまうわけです。
また、周囲の人も本当は気にすることでなくても、やはり風習として、その人たちに対して、祝いの言葉をかけることを遠慮します。
それは思いやりによる遠慮ではありません。
別に好きですることでしたら、どちらでも構わないのですが、本当はこうしたいのに、喪に服しているからできないというのは、正しいことではないと思います。
喪に服するのは、あくまでも本人の気持ちであって、喪が明けていると自分で感じるならば、無理に喪に服する必要はないのです。