体の傷と心の傷 その9
心の傷の奥深くに、心の棘が刺さっているのがわかったとしても、他人にそれを抜くことはできません。
抜くのは、抜くことに同意した、本人にだけできることです。
そこに棘が刺さっているのがわかっていて、それを不快に感じていても、それを抜けないのは、どうしてでしょうか。
それはその棘を放った人物を、今でも信頼しているからです。
その人の言葉は正しいのだと、信じているからです。
どうしてそう思うのか。
それは、その人に対する、自分なりのイメージを持っていて、そのイメージに相手を当てはめて見ているからです。
つまり、親であれば、自分の親なんだからと見てしまうのです。
子供にとっての親は、絶大なる存在です。
先生も親に準じた存在です。
本来、親も先生も子供を導くべき存在であり、愛情をもって子供たちに接するはずなのですが、実際はそうでない人もいます。
でも、子供にとっては、相手は親であり先生なのです。
また、普段は愛情を注いでいるはずの、親や先生であっても、人間ですから、ふとした拍子に、言ってはならないことを、口にすることはあるでしょう。
すぐにその言葉を撤回したとしても、子供の心にはその言葉が突き刺さっています。
子供がその棘を抜くためには、相手は神さまみたいな存在ではなく、自分と同じように過ちを犯すことが、あるのだと理解することが必要です。
相手を上だと見ているので、棘は抜けないのです。
相手は許しを請う立場であり、相手を許すかどうかの権限が、自分にあると思っていれば、棘はすぐにでも抜けます。
大人になっても、心の棘が抜けないのは、相手を自分よりも上に見ているからです。
自分と同じ人間だと、見ることができればいいのですが、自分が崇拝すべき相手を、自分と同じレベルに見ることは、なかなかできないのでしょう。
また、そう思えない背景には、どんなにひどい言葉を投げかけられても、その相手のことを大切に思う気持ちがあるのです。
相手を自分のレベルに引き下げることは、相手を大切に思わなくなるのと、同じ意味にとらえてしまうのでしょう。
しかし、人間は何度も死んでは生まれ変わり、互いに関わり合いながら、いくつもの人生を送って成長していく存在だと、理解をするならば、この見方を変えることは可能です。
現在の人間社会にある価値観と、相手を本当に大切に思う気持ちを絡めなければ、相手を自分と同じレベルで見ることを、相手に失礼だとは考えなくなると思います。
逆に言えば、自分が相手の本当の姿を見てあげるのではなく、自分勝手な色眼鏡で見て来たということに、気がつくわけです。
そして、そのことが大切な相手を、苦しめることもあるのだとわかれば、親や先生であっても、自分と同じ人間なのだと、見ることができるのです。
また、相手を自分と同じレベルに見られないのは、自分のレベルが低いと信じているからでもあります。
つまり、自分に自信がないわけです。
そんな自分と、親や先生を同じに見られるものか、ということですね。
でも、そうではなく、今の人生を離れた目で、自分や相手を眺めてみれば、どちらが上とか下ということが、ないのがわかるはずです。
今回の人生を、互いの役割を務めながら、一緒に経験していると考えれば、見かけの立場の違いや上下関係も、気にならなくなるでしょう。
本来の自分たちは、この人生とは別の所に存在していると見るのです。
それができれば、今の人生において、誰かにひどい言葉を投げかけられたとしても、それでいつまでも傷つくことはありません。
相手の役柄を理解して、相手を許してあげることができるのです。
それは自分が自信を持つことを、自分自身に許してあげるということでもあるのです。