体の傷と心の傷 その6
冷静さがあると、自分に取り込む価値観や考え方を、選別することができます。
冷静さがない人は、世の中で流行しているものや、周囲の人が持っている考え方を、何も考えずに受け入れてしまいます。
そんなのは嫌だと、冷静になったつもりで、あれもこれも拒絶してしまうと、これもまた問題です。
善意や思いやりでさえも、かたくなに拒んでしまうのであれば、それは冷静であるとは言えません。
冷静でいるつもりでも、実際は不安だけで動いているに過ぎないのです。
体の傷を癒やす時には、組織の細胞が増殖するための養分が必要です。
それと同じように、心の傷を癒やすためにも、滋養となる心の栄養が必要です。
冷静な心は、そんな心の滋養となるものは、積極的に取り込もうとします。
しかし、どんなものが滋養になるのかを、理解していなければ、滋養だと思って毒を取り込んでしまう可能性があります。
たとえば、人生のどん底にいる時に、誰かに優しい声をかけられると、その人がどんな人なのかも、よく考えずに信じ切ってしまうことがあります。
変な宗教や、悪事への加担、使い捨てにされる仕事などに、誰かを誘い込もうと企む者たちは、こんな時を狙って声をかけて来ます。
それが本当に思いやりから来たものなのか、自分を利用しようとしているものなのかを、区別できるだけの冷静さが求められます。
では、自分が取り込むべき心の滋養とは、どのようなものでしょうか。
傷を癒やすということは、元の自然なエネルギー状態に、戻してやるということです。
ということは、本来の自分である自然なエネルギーと、同質のエネルギーであるものが、心の滋養となるものです。
私たちは人間ですから、本来の自然な状態というのは、人間らしくいられる時の状態と言えます。
この人間らしいということが、どういうことなのか、ということを、専門家と言われる人たちの言葉に求めてはいけません。
それは自分自身で感じることです。
これこれこういうことが、人間というものである、と誰かが言ったとしても、それはその人の考え方に過ぎません。
絶対的な真理ではないのです。
ただ、肩書きに弱い人は、専門家がこう言ったとなると、そういうものなのかと信じてしまいます。
でも、それではいけません。
自分の人間としての部分で、自分で感じて、自分なりに理解するのです。
そして、それは必ずその人を、ほっこりとした居心地のいい気分に、させてくれます。
そんな時には、誰かのことを批判もしないし、競争心もありません。
誰かと自分を比べることもありませんし、他の人のことを、温かく見守る気持ちになれます。
可愛い子供を眺めている時や、動物と触れあっている時、植物を愛でている時などに、そんな気持ちになれるでしょう。
思いがけない、誰かからの感謝の言葉や笑顔も、心が温かく震えます。
また、大自然と触れ合い、満天の星空を見上げる時などにも、そのままの自分を受け入れられるような、とてもリラックスした気分になれます。
自分といろんなものとの、つながりを感じ、自分は独りぼっちではないと、感覚的に理解できると、心の底からの安心感が得られます。
そんなことを、自分で直接感じていれば、同じような波長の事柄だけに、目や耳を向けるようになります。
そして、それは心の滋養となり、病院でも治してもらえなかった心の傷は、みるみると癒やされて行くことでしょう。