誰の言葉か その2
泥棒が盗むのはいけないと言う場合、もしかしたら、その泥棒は自分が盗みをしたことを後悔し、改心したのかもしれません。
自分が盗みを働いて、他の人に迷惑をかけたり、苦しめてしまったことに気がついて、これはしてはいけないことだと悟った結果、盗むのはいけないと言っている可能性はあるでしょう。
過去に悪いことをしたからと言って、その人がそのことを心から悔やんで反省したとしても、更生の道が開かれないのであれば、恐らく世の中の人全員が、ずっと罰を受け続けなければならないでしょう。
自分は何も悪いことなんかしてないぞ、と反論されるかもしれませんが、自分が知らないところで、誰かを傷つけたり、迷惑をかけてしまうということは有り得ることなのです。
知らないことだから、別に構わないじゃないかと言うのは、自分の勝手な言い分です。
やられた方の立場に立って考えれば、そんな言葉は出ないはずです。
それに、人は失敗をしたり、お互いに傷つけ合ったりしながら、人間としての成長をして行くものです。
失敗や過ちを完全に否定してしまうと、それ以上成長することができなくなってしまいます。
真理とは、失敗や過ちの中から見つかるものだからです。
とは言っても、泥棒が盗みはよくないと言う時に、その泥棒が本当に改心しているのかどうかを、判別することは容易ではないでしょう。
もし現役の泥棒であったなら、やはりその言葉に説得力はありませんし、相手を馬鹿にしているとしか言えません。
それでも、盗みはよくない、という言葉は、確かにそうなのです。
問題は、その言葉を誰が言ったかによって、態度を変えるということでしょう。
同じ言葉を、お巡りさんが言えば聞くけれど、泥棒が言ったのでは聞かない、というのは妙な話です。
その言葉の意味を自分で考え、確かにそうだと納得するならば、それを誰が言ったかに関係なく、自分のものにしなければなりません。
つまり、その言葉は泥棒のものでもなく、お巡りさんのものでもなく、自分自身の言葉になるということです。