もののけ姫
今治の映画館で、ジブリ作品を上映中なので、昨日、家族と一緒に、もののけ姫を観に行きました。
ちなみに今治は、松山市の北西に隣接しています。
しまなみ海道で本州の広島とつながっている、造船とタオルで有名な町です。
もののけ姫を観たのは久しぶりですが、あの映画は奥が深いですね。
ただ面白いだけの映画とは違います。
宮崎駿監督は、本当にすごい方だと思います。
この作品をご覧になった方は、多いと思いますが、あえて物語の概要を、説明しておきます。
ある日、東国にある村が、祟り神と化した、巨大イノシシに襲われます。
主人公のアシタカは、弓で祟り神と戦い、見事に討ち取りますが、その際に呪いを受けてしまいます。
何故、イノシシが祟り神になってしまったのか。
それを物語るような、鉄の玉がイノシシの死骸から見つかります。
アシタカは呪いを解く方法を探しながら、イノシシが来た西国で、何が起こっているのかを、確かめる旅に出ます。
旅の先でアシタカが知ったのは、虐げられていた女たちが、自由と引き換えに鉄を作るたたら場と、そのたたら場を狙う侍たちの争いでした。
たたら場の者たちは鉄を求めて、いにしえの神が暮らす、山を切り開こうとして、そこに暮らす山の主たちと、争いを繰り広げます。
そこに不老不死を求める帝の命で、生命を司るダイダラボッチの首を狙う、密命団が加わり、争いは二重、三重と絡み合って行きます。
山の主たちも一枚岩ではなく、人間との争いが理由で揉め合い、冷静さを失って行きます。
山の主の一つ、山犬のモロは人間の娘、サンを我が子として育てていました。
そのサンの存在も、山の主たちのいがみ合いの、原因となっています。
アシタカは呪いに苦しみながら、争いを鎮め、平和的な解決を探ろうとします。
しかし、アシタカの声は誰の耳にも届かず、争いは拡大して行き、最終的にダイダラボッチは、首を奪われてしまいます。
首を奪われたダイダラボッチは、首を探し求めて、それまで守って来たはずの森を、崩壊させてします。
アシタカとサンは、ダイダラボッチの首を奪い返し、ダイダラボッチに返します。
しかし、首を取り戻したダイダラボッチは、朝日を浴びて消えてしまいます。
その時に、死んだ山々は生き返り、崩壊した森は蘇ります。
ただ、ダイダラボッチはいなくなり、多くの山の主たちも失われました。
互いに惹かれ合うアシタカとサンは、時々逢う約束を交わして、それぞれ人里と山に別れて、暮らすことになります。
物語は、ざっとこのような感じで、無益で馬鹿げた争いがもたらしたものと、それでも再生される生命を、表現していました。
物語の舞台は、遥か昔の日本のようですが、その頃の時代を借りて、現代の私たちを描いているように見えます。
あるいは、人間というものは昔も今も、中身は何も変わらない、ということなのかも知れません。
争う人々には、それぞれの事情や言い分があります。
しかし、違う立場の者の気持ちを、思いやる姿勢を見せません。
自分の立場を守ることに、終始している姿は、エゴそのものです。
人間と対立する山の主たちは、自然を守る立場に、立っているつもりです。
しかし、イノシシたちが山を荒らすと、山犬はこぼしています。
彼らは自分たちこそ、神を護る存在だと主張しています。
でも、神であるダイダラボッチは、山の主たちのことなど、何とも思っていない様子です。
これは山の主たちの姿を通して、自分こそが神の意思を伝える者だと主張している、多くの宗教関係の教祖や、自分たちこそが自然を守っているのだと訴える、自然保護団体などを表しているように見えます。
自然の生命そのものであるダイダラボッチは、山の主であろうと人間であろうと森の木々であろうと、お構いなしにその命を奪ったり、あるいは命を与えたりしています。
それは自然の本質というものが、様々な考えや理屈を超えたものであることを、示しているのだと思います。
そして、自然と対峙しているつもりの人間も、自然の一部に過ぎないことを、伝えているのでしょう。
死ぬという現象は、命を失う、あるいは命を奪われるということです。
生命そのものであるダイダラボッチには、死ぬという状態はありません。
死ぬことがない代わりに、自然はバランスが崩されると、安定を求めて暴走状態になります。
首を奪われたダイダラボッチが、まさにそれです。
現代社会でも人間が、科学の発展や生活の便利さを口実にして、自然環境を破壊しています。
そのしっぺ返しとして、気候変動、アレルギーや癌などの疾病、食糧危機などの危機に、さらされているのです。
悪いのは人間であっても、一度バランスを崩した自然は、そこに存在する者全員に対して、見境なく牙を剥きます。
そうして多くの命が奪われた後、やがては再び安定を取り戻した自然から、新たな生命の息吹が生まれるのです。
それを人が、どのように判断するかは、関係ありません。
それが自然というものなのです。
アシタカとサンが、人里と山に別れて暮らすのは、惹かれ合う二人が、人間と自然を結びつける、絆の役割を果たすことを、示しています。
ダイダラボッチが朝日に当たって消えたのも、人間が自然を自分たちと別物だと、見なさなくなることを、示唆していると思います。
人は自然の一部です。
たとえ別物に見えたとしても、根っこでつながっているのです。
こういう事を言葉にして、一つ一つ語ったところで、なかなか相手に伝わりません。
話を聴いてもらえたとしても、次の日には忘れられてしまうでしょう。
しかし、宮崎監督はアニメという技法と、綿密に練られた物語を通して、とても多くの深い事柄を、たった二時間弱という時間の中で、世界中の人々に伝えたのです。
この作品は一度観たから、もういいやというレベルのものではありません。
何度観ても、また観てみたいという作品です。
ですから、作品に込められたメッセージは、忘れ去られることなく、人々の心に知らず知らずのうちに、焼き付かれることでしょう。
本当に素晴らしい作品でした。