信じるということ その4
信じることと、理解することは、別物です。
たとえば、空っぽの箱の中から、生きたウサギを取り出す手品がありますよね。
手品を知らない人が見れば、何が起こったのかと思うでしょう。
これは魔法だと言われれば、そう信じてしまいます。
でも、手品を知っている人は、それが魔法ではないことがわかりますし、手品師が空の箱から、どうやって生きたウサギを取り出したのかを、理解しています。
海を知っている人は、潮風がどんなものかわかりますし、海の水がしょっぱいこともわかります。
広い海原の壮大さもわかりますし、荒れた海の恐ろしさもわかります。
海を知らない人が、行くことのない海について知ろうとすれば、本などからの知識に頼ることになります。
それは一種の理解ではありますが、本当の理解ではありません。
それでも、自分では海のことをわかったつもりになりますから、本を読まない人たちに、いろいろ海についての講釈をしたりもします。
本も読まない人にとっては、この人が唯一の手掛かりであり、この人を通して、海とはこんなものなのだと信じます。
この人の言葉一つで、本物の海とは違うイメージも抱いてしまいます。
信じることと、理解することとは、このような違いあるのです。
信じるというのは、自分はそれを知らない、という意味でもあります。
知っているのであれば、信じるという言葉は使いません。
また、知っているのであっても、本などの知識によって知っているのと、自分自身の体験や感覚を通して知っているのとは、また違って来ます。
本当に知るためには、体験や感覚が欠かせません。
しかし、全てを体験したり感じたりはできないでしょうから、自分がまだわからないところはあるわけです。
理解するということは、自分の限界も理解するということであり、新たな情報や経験が加われば、その理解は変わる可能性があるということです。
それを、そんなのは理屈に合わないから有り得ないとか、非科学的だと言って否定してしまうのは、本当の理解とは言えません。
理解しているつもりで、いつのまにか信じているだけになっているのです。
理解するとは、本当の状態である真実を、知識や感覚など総動員して知ることです。
そして、全てを知ることはできない、ということも知ることです。
それは知性を刺激して、もっと知りたいという想いにつながります。
それがさらなる進化や発展へと結びつくのです。
信じることは悪いことではありませんが、それは自分が理解はしていないのだ、という意味であることを、わかっておく必要があるのです。