信じるということ その3
信じることも疑うことも、やっていることは同じです。
相手を自分が作った枠に、無理やり押し込もうとしているのです。
信じていた枠に相手がはまらなければ、裏切られた気持ちになります。
疑っていた枠に相手がはまらなければ、いい意味で裏切られた気持ちになります。
それはそれで、人生の中の経験であり、楽しめるものではあります。
でもそれだけでなく、信じたり疑ったりすることには、次なるステップへ踏み出すための、情報集めという役割があるのです。
それは、相手や状況を理解するということです。
相手や物事の本当の姿を知るということなのです。
それがどのようなものであれ、いいも悪いもありません。
そういう見方をすることは、再び相手を枠にはめることになります。
それが相手の姿であるならば、こちらでそれに無理な意味づけはせずに、その相手をそのまま受け入れるしかありません。
大好きな人が浮気をしたとすれば、どうして浮気をしたのか、その気持ちを探ればいいのです。
それで、もし自分に対する気持ちが失せているのであれば、それは受け止めるしかないでしょう。
それは新たな道が始まったというだけのことです。
相手への未練や偏見、執着は、新たな道を歩み出すのには、邪魔になります。
余計なことは考えず、素直に次のステージへ向かいましょう。
未来がどうなるかも、誰が未来を創るのかによって、違う未来が訪れるでしょう。
自分が望む未来があるのなら、自分がその未来を創るようにすればいいのです。
ある場所や、ある物、ある考え方にこだわったり執着していると、それに見合った未来が訪れるでしょう。
こんな未来がいいと、本当に思うのであれば、自分の中にある、その未来を創るために邪魔になるものを、さっさと手放さなければなりません。
神がいるかどうかを考える前に、神という言葉が、何を示しているのかを考えましょう。
誰かが作った神のイメージではなく、自分自身が理解できる神を、思い描けばいいのです。
自分の経験と矛盾しない神ですから、いいことも悪いことも、全てを認める神のはずです。
勧善懲悪の神ではありません。
また、神が世界を創ったと思うのであれば、その神はどこにいるのかと考えればいいのです。
それは世界の他に、神の居場所があるということです。
では、その神の居場所は誰が作ったのでしょうか。
いろいろ考えるといいと思います。
そして、全てを納得できる神のイメージができたなら、神を信じるとか、神なんているものか、などと考えることはなくなるでしょう。