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信じるということ その2

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信じることと、疑うことは表裏一体です。

信じるということに言えることは、疑うということにも言えるのです。


あんな奴がうまくいくはずがない。

未来に希望なんかあるものか。

神なんているわけないだろう。

こんな風に、周囲の人や世の中を悪く見てしまうこともあるでしょう。

でも、この「疑う」という言葉には、裏の顔があります。

それは「信じる」という言葉です。


何故、相手を疑ったり、悪く思ったりするのでしょう。

それは相手を信じたいのに、相手がそれと違う顔を見せるからです。

疑うという気持ちを持つ時は、一方で相手を信じたいという気持ちがあるのです。

どうでもいい相手のことなど、信じることもなければ、疑うこともありません。

どうでもよくないからこそ、こうあって欲しいとか、どうしてそうなのか、と考えてしまうのです。


あいつは何てひどい奴なんだろう。

だけど、あいつだって本当はいい所があるはずだ。

未来に希望なんてないし、人類は滅亡するに違いない。

だけど、こんな素敵な人もいるから、そうならないかもしれない。

世の中に神も仏もあるものか。

だけど、涙が出るほど感激する時は、神仏に感謝したくなる。


何かを疑う時、どれぐらい疑っているのかは、人それぞれです。

疑うという言葉を口にしても、実際はそれほど疑っていない人もいれば、確信を持って疑っている人もいます。

疑い切っている場合、そこには一点の信じる気持ちもないように見えます。

でも、疑っていたのとは異なる現実を、目の前に突きつけられると、その人はパニックになるでしょう。

何故、パニックになるのか。

それは状況が理解できないからです。

思考が停止し、全てに自分が騙されたように感じてしまうのです。

自分にはなかったはずの信じる気持ちが、ビッグバンのように一気に爆発するのです。


大嫌いだった人が、子猫を助けるために自分を犠牲にした。

戦争になったのに、敵国の人たちが自分を助けてくれた。

神なんかいないと思っていたのに、絶望の中に光を見つけた。

こんな風に疑っていたことが、脆くも崩れ去るということは、有り得ることです。

また、実際にこんなことは起こっています。

こうなると、もう何も疑う気持ちになれないかもしれません。

全ては愛と喜びに包まれているような、そんな気持ちになるでしょう。

疑うということとは、その対象がどのようなものなのかを、理解しているわけではないのです。

こうなんだ。
こうに違いない。
こうに決まってる。
こうであって欲しい。

そんな自分の期待や価値観で作った枠に、相手を押し込めようとしているだけなのです。

それは自分が勝手に作った枠ですから、相手がその枠に収まるはずもありません。

収まっているように見えても、枠からはみ出してしまう可能性は、いつでもあるのです。

そして、相手が枠にはまらなかったり、はみ出してしまった時に、嘘でしょ? となるわけです。