信じるということ その1
何かを信じる。
とても素敵な響きがある言葉です。
あなたを信じる。
未来を信じる。
神を信じる。
でも、この言葉には裏の顔があります。
それは「疑う」という言葉です。
何かを信じるということは、一方で、その何かを疑う気持ちもあるということです。
あなたを信じる。
だけど、あなたは私を裏切るかもしれない。
未来を信じる。
だけど、未来は期待したようなものではないかもしれない。
神を信じる。
だけど、本当は神なんていないかもしれない。
何かを信じる時、どれぐらい信じているのかは、人それぞれです。
信じると言っても、実際は言うだけで、ほとんど信じていない人もいれば、絶対にそうだと信じ切っている人もいます。
信じ切っている場合、そこには一点の疑いの気持ちもないように見えます。
でも、信じていたのとは異なる現実を、目の前に突きつけられると、その人はパニックになるでしょう。
何故、パニックになるのか。
それは状況が理解できないからです。
思考が停止し、全てに自分が騙されたように感じてしまうのです。
自分にはなかったはずの疑いの気持ちが、ビッグバンのように一気に爆発するのです。
大好きだった人が、浮気をしていた。
平和になると思っていたのに、戦争が始まってしまった。
神さまを信じていたのに、自分の人生はおしまいだ。
こんな風に信じていたことが、脆くも崩れ去るということは、有り得ることです。
また、実際にこんなことは、よくどこかで起こっているのです。
こうなると、もう何も信じられないと、全てを投げやりにしたくなったり、何も楽しくなくなってしまうかもしれません。
不安と絶望で暗い日々を送る人もいるでしょう。
信じていた自分が悪いとか、裏切った相手や状況が悪いとか、そんなことばかり考えて埒が明きません。
信じるということとは、その対象がどのようなものなのかを、理解しているわけではないのです。
こうなんだ。
こうに違いない。
こうに決まってる。
こうであって欲しい。
そんな自分の期待や価値観で作った枠に、相手を押し込めようとしているだけなのです。
それは自分が勝手に作った枠ですから、相手がその枠に収まるはずもありません。
収まっているように見えても、枠からはみ出してしまう可能性は、いつでもあるのです。
そして、相手が枠にはまらなかったり、はみ出してしまった時に、どうして? となるわけです。