理解すること その1
人間は物事を理解する力があります。
ところが、理解していたつもりが、誤解だったということもありますよね。
たとえば、友だちだと思っていた人が、ある時から自分を避けるようになったとします。
これは友だちたと理解していたのに、そうではなかったということですね。
何だ、こんな奴だったのかと思っていると、ある日、その人から手紙が届きます。
そこには、その人に死が迫っていることや、弱って行く自分を人に見せたくなかった気持ちが綴られています。
大好きなあなただからこそ、自分の姿を見せたくないと思ったけれど、そのことであなたを傷つけてしまったかもしれないことで、とても悩んでいると、その人は自分の気持ちを打ち明けてくれました。
あなたは、どう思うでしょうか。
その人のことを想って泣くのでしょうか。
あるいは、友だちだからこそ、初めから本当のことを言って欲しかったと、憤慨するのでしょうか。
それとも、もう気持ちが冷めてしまって、この人のことなどどうでもいいと思うのでしょうか。
この友だちがとった行動が、正しかったのかどうかなど、誰にも決められません。
何が正しくて何が正しくないのか。
それは人によって基準が違います。
絶対的にこうだと言うことなど、誰にもできないのです。
同じことは、あなたに対しても言えます。
あなたがこの友だちのことを、どう思って、どんな行動を取るのか。
それもまた、それが正しかったかどうかなど、誰にも言えないのです。
たとえ、それが法律で規定されていたとしても、本当の意味でそれが正しいかどうかはわかりません。
法律が間違っていることもありますし、法律の善し悪しは時代によっても変わって来ます。
とにかく、この世界で何が正しく、何が正しくないかということは、誰にもわからないし、誰にも決められないのです。
あるのは、それでいいのかどうかという判断ではなく、それをどうとらえるかという理解です。
理解は人によって様々であり、理解の程度もいろいろです。
深く理解している人が、深く理解できていない人に対して、君の理解は間違っているよと言うことはできますが、それが相手に通用するとは限りません。
その人が自分とは異なる理解を、納得できるようになるまでは、その人自身の理解が全てであり、その人にとっては、それが真実なのです。
そして、その理解がその人が体験する世界を創ります。
私たちは同じ世界に存在して、みんなが同じ体験をしていると思いがちですが、そうではありません。
時間や場所を共有しても、それが何を意味しているのか、それがどんなものなのかは、人によって受け止め方が様々です。
一人として同じ受け止め方をする者はいません。
人間の世界は、人間の数だけあるのです。
その人が認識し、感じることができる世界は、その人だけの世界です。
他の人は、その人がどんな世界を体験しているのかを、知ることはできません。
想像することはできても、本当のことは何もわからないのです。
何がよくて何が悪いのかも、自分の価値観で基準を決めている以上、基本的には自分の世界だけで通用することです。
その価値観を作るのも、物事を自分がどう理解して、どのように受け止めるかで決まるのです。