何故戦うのか その2
自然の生き物たちは、存在を懸けて争うのに、人間はどうしてそこに嫌悪感を感じてしまうのでしょうか。
もちろん嫌悪感を感じないで、争いに熱中する人もいますが、普通の感覚の持ち主であれば、人が争って喧嘩をしたり、殺し合ったりすることに対して、嫌な気持ちになるはずです。
それは何故でしょうか。
きちんと道徳教育が行われているからでしょうか。
もちろん、そんな教育が成されている所では、こういうことに嫌悪を覚えやすいと思います。
でも、道徳教育が行われていなくても、そんな場面を目にしたら、やはり嫌な気持ちになるでしょう。
また、道徳教育が有効になるのは、人間の意識の中に、道徳教育を理解して受け入れる素地があるからです。
つまり、人間は教育によって作られるのではなく、教育によって、自らの内に存在する知性が引き出されるのです。
人間には元々道徳教育を理解する力があるのです。
だけど、人によっては力に物を言わせて、好き勝手をする人もいます。
それはどういうことかと言うと、そういう人は自分の内にある、他人を思いやるという部分を、うまく引き出してもらえなかったのです。
どんなに強欲に見える人であっても、心の内には争いを嫌悪するような部分を持っています。
ただ、それを引き出す前に、生き延びるためには、力で相手を支配するしかないと、思い込んでしまったのです。
言い換えれば、争いを嫌悪する気持ちを引き出せなかった人の意識は、動物の意識と同じだということです。
場合によっては、動物以下ということもあるでしょう。
動物は不必要な争いはしません。
しかし、人間には好んで争いをする人がいます。
動物にも縄張りがありますが、世界中を自分の縄張りにしようとはしません。
必要なだけの縄張りがあれば、それ以上は求めません。
強欲な人間は、病的と言えるほどに、全てを我が物にしようとします。
これは動物以下と言えるでしょう。
人間の中にある争いを好まない部分というものは、何でしょうか。
それは知性です。
ここでいう知性とは、学校の勉強ができるということではありません。
外国語が話せるということでもありませんし、コンピューターが得意ということでもありません。
ここでいう知性とは、自分の感覚や経験を通して、自分や世界について深く考察し、理解する力のことです。
この知性こそが人間と他の動物の大きな違いであり、この知性を発揮できるかどうかで、人間としてどれだけ成長できるかが決まるのです。
争いごとを好む動物以下の人は、この知性が動物以下ということです。
人間の姿をして、お勉強もできるし、お金も稼げるでしょうが、人間としてはほとんと成長できていません。
それでも人間である以上、本人の中には知性が隠れています。
その知性を引き出せるチャンスに、遭遇できるかどうかが、成長するための鍵となるでしょう。
それにしても、本来動物以上の知性があるはずの人間が、場合によっては動物以下になってしまうのは、どうしてでしょうか。
それは人間は「自我」が強いからです。
自分というものを認識する力が強いからこそ、何もかも自分中心にしたくなるのです。
それは人間としてどうあるかということが、理解できないばかりか、世界と自分とのつながりさえも忘れてしまい、自然をも管理できるという誤解や妄想を抱いてしまうほどに、自分勝手な行動を取るようになります。
動物は自然の中で生き、自然に逆らうことはしません。
知性の低い愚かな人間が、動物以下だというのは、そういうことなのです。