三人寄れば文殊の知恵
先日の球磨川に続いて、他の川でも氾濫が起こっています。
普段は、あまり雨が降らない松山も、昨日はかなりの雨が、降り続きました。
幸い、川の水があふれるには、至りませんでしたが、今後もずっと無事だという、保証はありません。
気象情報では、数十年に一度の大雨、という表現をしていました。
でも、それはこれまでの数十年、という意味に過ぎません。
今は記録的豪雨が、毎年どこかで発生しています。
安全だったはずの地域が、いつ同じような雨に見舞われても、不思議でないのです。
それに、今年被害を受けた地域が、来年は大丈夫だとも言えません。
9年前に東北で起こった津波の映像は、日本中にショックを与えました。
大雨で川が氾濫して、町が水浸しになったり、家や車が流される状態は、あの津波に共通するところがあるでしょう。
津波と洪水では、災害の規模や呼び名が違いますが、本質的な所は同じです。
東北の震災は、本当にショッキングな出来事でした。
多くの人が、恐れと同情を感じながら、自分たちが安全であったことへの、安堵を覚えたと思います。
そうして、結局は他人事と感じていれば、時の流れとともに、震災で受けた様々な思いは、薄れて行きます。
ところが今のように、毎年日本のどこかで、大きな水害が起こる状況では、多くの人が被災者となり、その苦悩を共有することになります。
繰り返し起こる災害は、人々の苦悩の記憶を蘇らせ、薄れることを防ぎます。
あちこちに被害が広がることは、いい事ではありません。
しかし、現実はそういう状況ですし、結果的に多くの人が想いを共有し、心を一つにすることになると思います。
どこかで起こった災害を、他人事とはとらえずに、現地の人たちと一緒になって、対策を考える人が、増えるでしょう。
現地の人たちも、外から来る人々に心を開き、再び前を向いて歩く力を、取り戻せると思います。
三人寄れば文殊の知恵、という諺があります。
文殊とは、知恵をつかさどる菩薩のことです。
凡人でも三人で考えれば、文殊のような素晴らしい知恵が、出るというたとえです。
災害について、被災地だけで考えても、いい方法は生まれないでしょう。
その理由は、その地域の地理的なことや、経済的なことだけではありません。
その地域の人々が長年抱いて来た、土地への愛着や風習、価値観などの影響もあるのです。
こんな所だから、災害に見舞われるのは、仕方がないという、諦めも出て来てしまいます。
しかし、他からの助けとともに、新しい知恵、新しい価値観が加わると、どうせだめだと思っていたことが、だめではなくなるのです。
三人寄れば文殊の知恵、という言葉は、三地域寄れば文殊の知恵と、言い換えることができるのです。
この三という数字は、三つの視点、三つの価値観、三つの感覚のような意味合いです。
同じ思考の凡人が、三人集まるということではないのです。
凡人でも一人一人が、異なる人間だというのが前提です。
全く同じ思考しかできない者が、何人集まったところで、文殊の知恵は出ないでしょう。
違う地域の人間が、集まって考えた方が、思いがけないアイデアが出て来たり、思い切って古い価値観から、新しい価値観に移りやすくなると思います。
ただし、相手を思いやることを忘れて、自分の意見ばかりを主張するようだと、争いや反発が生じます。
それでは何のために、話し合うのかが、わからなくなってしまいます。
意見はいろいろあった方が、いいと思います。
でも、その意見の基盤や背景を、思いやる気持ちが、お互いにないといけません。
大都会、地方の中心都市、田舎の集落。
三地域とも生活環境が違いますし、価値観も違います。
しかし、どこか一つだけでは、社会が成立しません。
互いが互いを、必要としているのです。
どこかの問題は、他の所の問題でもあるわけで、共に考えていかなくてはなりません。
行政についても同じです。
国、県、市町村では、視点も違えば、作業も異なるでしょう。
でも、人々の生活を守るという点では、その存在意義は同じです。
それに、それぞれの役所で働く人も、職場を離れれば、一人の日本人です。
みんな立場は同じなのです。
個人の財産は、個人で守る。
災害から立ち直るのは、個人の責任で。
こういう発想では、だめです。
みんなの幸せのために、それぞれの立場でできることを、行わねばなりません。
そのための行政です。
やりたくても無理がある、限界があると思う時こそ、文殊の知恵です。
一人では思いつかないような、様々な工夫や支援が、見えて来るでしょう。
三人寄れば文殊の知恵。
この言葉こそ、文殊の知恵そのものだと思います。