本当にあるのは心だけ その3
現実世界もまた、夢と同じように、自分の心の中に存在していると考えた場合、他の人の心も、自分の意識が創り出しているのでしょうか。
そこが現実世界と個人的な夢の世界との、違いになるかもしれません。
個人的な夢の場合、そこに存在しているものは、全て自分の意識にあるものを、材料として創られていると考えられます。
どんなにすごい物があったとしても、どんなに素晴らしい、あるいは恐ろしい物が存在したとしても、それらは全て、自分がどこかで見たり聞いたり触れたりしたものを、基盤として創られていると思われます。
逆に言えば、自分が全く知らないことや、体験したことがないようなものは、夢には出て来ないということです。
もし出て来たとすれば、それは自分以外の意識が、そこへアクセスしているのかもしれません。
たとえば、神々しい光を体験したとすると、それは現実世界では体験できないことですから、心が存在している世界のどこかから、何かの存在が接触していると考えられるでしょう。
でも、そうでないものについては、登場人物も含めて、全てが自分の心の中にあるものが、反映されていると見ることができると思います。
一方、私たちが現実だと認識している世界では、自分たちが知らない、新しい発見や発明が登場します。
これまで体験したことがないものが、現れるのですね。
赤ん坊や子供たちにとっては、毎日が発見です。
恐らく、ここが現実世界と個人的な夢との、違いなのだと思います。
そして、新しい発見があるということは、この世界を構成しているのが、自分の意識だけではないということです。
個人的な夢も現実世界も、意識の中に創られたものですが、個人的な夢は基本的に、個人の意識だけで構成されているのに対し、現実世界の方は多数の意識で、構成されていると言えるでしょう。
昔の人が言ったように、あらゆるものには心が宿っているというのは、この世界が様々な意識によって構成されていると、いう意味でもあるわけです。
たとえば、私たちが誰かを見ている時、その人の姿は、私たちの心の中に創られたイメージです。
でも、その人自身である心は、私たちの意識とは別に存在し、その人もまた、私たちと同じように、自分の心の中の世界を見ているのです。
そして、互いの世界に映し出された相手の姿を通して、お互いの心の存在を感じ取り、認識するわけです。
つまり、あらゆるものに心が宿っているのではなく、あらゆるものは自分の心の中にあるけれど、それらを通して、あらゆるものの心と触れあうことができる、ということです。
現実世界というものは、そんな感じで構成されているのだと思います。