台無しにされたパラリンピック
北京オリンピックに続き、北京パラリンピックが開幕しました。
ところが、オリンピックとパラリンピックの間のわずかな期間に、ロシアが一方的にウクライナに侵攻を始めました。
国際社会が猛反対をする中、ロシアは攻撃をやめようとせず、未だに戦いは続いています。
その結果として、世界中がロシアを非難し、ロシアとの関係を絶ちました。
スポーツ界でもロシアの除外が広がり、パラリンピックへのロシア選手と、ロシアに協力したベラルーシの選手の参加が、開幕直前に禁止となりました。
これらの選手たちは、ウクライナと争っているわけではありませんが、国を代表するということなので、参加ができなくなったのです。
これに対して、スポーツと政治は別だとか、差別だという声も多数が挙がっていましたが、スポーツと政治は別だというのは、やはりきれい事でしょう。
多くの国がスポーツを、国の威厳を高める手段として用います。
オリンピックのメダルも、選手個人のものとしてではなく、どの国が何個獲得したか、という表現の方が重視されます。
また、メダルを取れば、帰国後に国から多大なる賞賛と、ご褒美がもらえるということで、がんばる選手も少なくないようです。
これではスポーツと政治が別だとは言えないでしょう。
国も選手も、初めからスポーツと政治を、一体化させて受け止めているわけですから、周りがスポーツと政治は別だからと言っても、空しく聞こえてしまいます。
本来、オリンピックもパラリンピックも平和の祭典です。
世界平和の象徴として行われるわけです。
それなのに、大会が開催されている陰で、この瞬間にも平然と殺し合いが行われているのであれば、平和の象徴なんて、とんだ茶番劇でしょう。
4年に一度しか行われませんから、それへの参加を目標にがんばって来た選手にとって、オリンピックもパラリンピックも、他の大会よりも特別であるのはわかります。
しかし、これらの大会が平和の象徴であることを理解するならば、この大会がどうあるべきなのかを、選手こそが中心となって、深く考えるべきでしょう。
本来の形で行われるのであれば、オリンピックもパラリンピックも、とても感動的なものだと思います。
ところが、実際は今回のロシアとウクライナの問題以外にも、様々な国際的な紛争や人権問題などが、大会の陰で行われて来ました。
ただ、それができるだけ表沙汰にならないようにしたり、気がつかないふりをして、大会を運営して来たわけです。
でも、今回のウクライナの問題は、さすがに目をつぶるわけには行かないようで、今回のような結果となったわけです。
実際、ロシアやベラルーシの選手が参加したとしても、大会の雰囲気は損なわれるでしょうが、これらの選手を排除したから、大会が本来の姿に戻ったかと言うと、そうではありません。
争った国を排除するのであれば、これまでの大会でも、そうするべきでした。
また、争っている国を支援したり、擁護する国も同罪ですから、やはり排除するべきだったと思います。
いずれにしても、気の毒なのは選手たちです。
どんな形であれ、今回の大会は台無しになったのは間違いありません。
ただ、これまでの大会が本当に成功だったのかと言うと、そこにも問題が潜んでいたと思います。
オリンピックもパラリンピックも、平和の祭典であるとするならば、世界中で争いがない時に、その証として行うべきだと思います。
もしどこかで紛争や迫害が行われたならば、それが解決できるまでは、大会は無期限延期とするべきです。
スポーツと政治は別物だからと言って、どこかで行われている殺人行為と、自分たちは無関係だとする態度は、やはり正しくないでしょう。
スポーツ選手であろうとなかろうと、それぞれの立場で、それらの問題について考え、それに見合った行動を見せるべきだと思います。
何故なら、行動こそが思考が物質的に表現されたものだからです。
思っていたのに何もしなかった、というのは、思っていなかったのと、同じ意味です。
ただの言い訳に過ぎません。
自分の意見が正しいのかどうかは別にして、自分はこう思うと言うのであれば、それに見合った行動を見せるべきです。
争いを止めたいのであれば、それによって自分が損をするかもしれなくても、その意思を表現しないといけません。
その結果、争いなんて関係ないよ、ということで、スポーツに夢中になるのであれば、それはその人の勝手です。
しかし、そういう人たちに対して、周囲が白い目を向けたとしても、それもまた、その人たちの勝手であり、文句を言うことはできません。
自分の言動には、必ずそれに応じた結果が伴います。
何をしようと自由ですが、自由には結果と責任が伴うということです。
今の自分が自分でいられるのは、周囲の支えがあるからだと理解するならば、また、自分と遠く離れている人々の協力があるからだと理解するならば、それらの人々が困っている時に、どうするのかということは、自ずとわかることでしょう。
いずれにしても、オリンピックもパラリンピックも素晴らしいイベントだと思います。
これらの大会の素晴らしさを、本当に輝かせるため、大会の意義と、大会を開催するために、どうすればいいのかを、世界中の人が考える時が訪れたのです。