私という存在 その2
自分という存在は、自分と他の存在を区別することで、成立しています。
その区別をするための基準になるのが、自分の身体です。
この身体は自分で、身体以外は自分じゃない。
これが当たり前の感覚ですね。
でも、身体が自分だと考えるのは間違いです。
私たちは身体のことを、自分の身体と表現します。
でも、これは身体イコール自分、という意味ではありません。
この身体は、自分に属しているという意味です。
普段、私たちは自分の身体を、自分自身のように考えています。
では意識は、どこにあるのかと問われると、頭だと答えるでしょう。
そう、頭には意識と深く関わっている、脳があります。
意識が頭にあるというのは、意識が脳にあるという意味です。
多くの学者も、脳に意識があると考えています。
でも、それは正しくありません。
確かに脳は、意識の活動と関係しています。
だからと言って、脳と意識を同じものと、考えるのは間違っています。
脳は物質でできています。
しかし、意識は精神エネルギーであって、物質エネルギーではありません。
この二つのエネルギーは、互いに影響を及ぼしあっているようですが、同じものではありません。
つまり、自分という存在は、脳と関連はあるけれど、脳が自分というわけではないのです。
では、自分という存在は、どこにいるのでしょうか。
今の科学では、精神場と呼ぶべき、宇宙の精神エネルギーは、想定されていません。
心そのものを、未だに物質的に説明しようとする、研究者が多いためだと思います。
一般的には、人には魂があって、肉体が死を迎えた後、魂はあの世へ行くと考えます。
イメージしやすく、わかりやすいこの考えは、普通の人々に受け入れやすいものです。
それに、心としての自分の存在が、消えるわけではないと、保証されているのも、受け入れられる理由の一つだと思います。
そこで、あの世という世界に相当するのが、宇宙に満ちた精神エネルギー、あるいは精神場だと考えて下さい。
肉体が滅んでも、精神場に属する心は、消滅することなく存在し続けるのです。
自分の心を、魂としてとらえる見方では、肉体が生きている間、魂はその肉体の中に、宿っていると考えられます。
肉体の中に宿ると言っても、正確に言えば、脳の中に宿っている、という感じでしょうか。
この場合、魂は脳とは別の存在です。
魂という表現には、宗教的なイメージが入り込んでいます。
ですから、私はできるだけ魂という言葉は、使いたくありません。
それでも、心がどこにあるのかと考えた時、この魂というとらえ方が、うまく表現されたもののように思えます。
ただ、私が考える心は、脳に宿る魂とは、少しニュアンスが異なります。
と言うのは、脳に魂が宿るという考え方は、その視点が物質エネルギーの側にあるからです。
精神場の側にいる魂から見れば、物質世界の脳にアクセスする、という表現になると思います。