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私という存在

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 ※cheetahさんによる写真ACからの画像です。

私とは、自分の事です。

鏡を見た時に、そこに映る姿を、私たちは自分だと理解しています。

確かに、それは自分の姿です。

正確に言えば、自分の身体が映っているわけです。
でも、それは本当に自分なのでしょうか。

自分とは、いったい何なのだろう。

そんな事を考えた経験が、誰しもあると思います。

私も子供の頃に、自分について、よく考えました。

どうして自分は、動物や虫ではなく人間なんだろう。
どうして自分は、女ではなく男なんだろう。
どうして自分は、日本人なんだろう。
どうして自分は、今の家に生まれて来たんだろう。

こんなことも考えました。

死ぬとは、自分がいなくなる事だ。
自分がいなくなるって、どういう事なのだろう。

死ねば、意識はなくなるはずだ。
その瞬間って、どんな感じなのだろう。

生きているという事も、よくわからない。
どうして自分が生きているのだろう。

ここにいるのが自分でなくて、他の誰かでもよかっただろうに、どうして自分なのだろう。

ちょっと怖いですけど、頭の中で実験的に、こうも考えてみました。

もし、自分の身体から、腕が切り離されたら、自分の意識は、どっちにあるのだろうか。

当然、意識は腕ではなく、身体の方にあります。
こんな事は考えなくても、わかります。

でも子供の私は、自分の意識について、順を追って確かめたかったのです。

では、頭と身体を切り離したとしたら、どうだろう。

次に私は、そう考えました。

そんな恐ろしい事は、絶対にしてはいけない事だし、できるはずもない事です。
頭の中で想像するだけで、気持ちが悪くなりました。

でも、意識について考えるためです。
ぐっと我慢して、想像しました。

もちろん、頭を切り離されるのは、他の誰かではありません。
私自身です。

そんな事をしても、生きているという、仮定の下での想像です。

私の意識は、どちらにあるのか。

これも答は決まっていました。
当然、頭です。

これだけでも気持ち悪いのに、いよいよ本題の仮想実験に入ります。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

頭を真っ二つに割られたら、自分の意識はどうなるのだろう。

考えただけで、私はぞっとしました。
想像なんて、したくもありません。

だけど、意識について考えるためには、想像するしかありません。

それでも、頭を割られると考えると、やはり気持ちが悪くなります。
それで、頭が生きたまま、左右に分離するという事にしました。

頭を割られるのと、何が違うのかと思う人もいるでしょう。

でも、割られるのは殺人と同じです。

生きたまま分離するのは、殺人ではありません。

気持ちは悪いですけど、頭を割られるよりは、ましなのです。

とにかく、私の頭は左右に分かれました。

さあ、私の意識はどっちにあるのか。

私は懸命にその状態を、想像しようとしました。
だけど結局、想像はできませんでした。

そんな想像は、私の想像能力を超えていました。

そもそも本当に、頭が左右に分かれたら、生きていられるわけがありません。

そんな状態で、意識がどちらにあるのかなんて、考える事自体が、無意味なのかも知れない。

私はそう思いました。

でも、また別の事が、頭に浮かんだのです。

みずさんによるイラストACからの画像です。

現実にいる生き物で、細菌や細胞は分裂して増えます。

一つだった存在が、二つに分離するのです。

木も枝を切って地面に挿しておけば、やがてその枝は大きくなって、木になります。

人間で言えば、切り離した腕から身体が生えて、頭までできてしまったようなものです。

もし、細胞や木に自分という意識があったなら、こういう時には、その意識はどんな感じだろう。

私は、またもや意識というものについて、考えました。

それは、自分という存在について、考える事でもありました。

意識とは、自分の意識の事ですから、自分の存在という意味なのです。

子供の頭で、いくら考えてみたところで、答が見つかるわけがありません。

それでも、意識あるいは自分というものについての、興味が尽きる事はありません。

このテーマは、大人になってからも、常に私の関心の中にありました。


今は私は、自分というものについて、私なりの答を持っています。

それがどんなものなのかは、簡単説明できる事ではありません。

語り始めると、長くなりますので、この続きは次の機会に。