自分は望まれていないのか その1
自分って何なんだろう?
どうして自分なんかが、生まれて来たんだろう?
自分なんかいなくたって、誰も気に留めないに違いない。
そんな自分は生きている意味がない。
こんな風に考えてしまう時、その人は自分に自信を失っています。
こういう考えは、自信のなさが表現されたものです。
誰も見向いてくれないことが、問題のように思えてしまいますが、自分に自信がないことこそが、本当の問題です。
誰も見向いてくれないと言いながら、本当に自分のことを見ていないのは、自分自身なのです。
自分で自分に見向きもしないから、自信を失っているわけですね。
また、自分で自分を見向こうとしていないことは、頭では無視していても、感覚的にはわかっています。
ただ、自分を見向いていないという事実に、気がついていないため、見向かれていないという感覚の原因を、他人に求めてしまうのです。
本当は、ちゃんと見てくれている人だって、いるはずです。
しかし、見てくれない人の方にばかり気が行ってしまい、見てくれている人のことは、頭に上りません。
それは、見てもらえていないという感覚の原因を、追求することに意識を集中させているからです。
見てくれている人は、その対象外になってしまうので、自分を無視するような人を見つけては、世の中全ての人が、そんな風な人ばかりのように思えてしまうのです。
また、世の中は多数の意見を重視して、少数の意見を聞き流す傾向があります。
そのため、たとえ自分を見てくれる人がいたとしても、その人たちの数が少なければ、自分は見てもらえていないと解釈してしまうのですね。
四捨五入と同じです。
少ない数字は切り捨ててしまうのです。
それでも本当に見てくれる人がいなければ、これはとても苦しいことですので、一人でも見てくれそうな人がいれば、その人にべったりになることもあります。
溺れる者は藁をもつかむの心境ですね。
その人が本当は理解者でなくても、その人に依存することで、相手の言いなりになって、いいように利用されることも、少なくないでしょう。
あるいは理解者であったとしても、べったり依存してしまっては、本当の人生の喜びは味わえません。
この人がいなくなったら、自分はどうなってしまうのかと、ずっと不安がつきまとうでしょう。
それに依存されている方も大変ですから、理解はしているものの、関係を打ち切ろうとするかもしれません。
そうなると、もう絶望です。
だだっ広い海原で、たった一人、波に揉まれて浮かんでいるようなものです。
周囲には島影一つありませんし、遠くを進む船もありません。
そんな状態では、途方に暮れるしかないでしょう。
でも、そうなる原因は自分にあるのです。
自分で自分をきちんと見ないから、そうなるのです。
自分の目ではなく、他人の目を通して、自分を見てしまうから、そうなるのです。
自分のことは他人にはわかりません。
自分が本当はどうしたいのか、そんなことは他人にはわかりません。
自分がやろうとしていることに、価値があるのかも、他人にはわかりません。
それは自分で決めることです。
自分だって他人のことなんか、何一つわからないわけですから、他人が自分のことを、わかるはずがありません。
と言うことは、他人の目なんか気にせずに、自分で思ったとおりに生きるだけです。
そのためには、自分は何をしたいのか、どんなことに興味があるのか、どんな生き方をしたいのか、ということを、きちんと理解するのです。
自分が喜びを感じることにこそ、自分にとっての価値があります。
そして、喜びを感じてもいいのだと、自分に許可を与えて下さい。
自分をちゃんと見て、本当の自分であることを、自分自身に認めたならば、自分に価値があるかどうかなんて、考えることすらなくなるでしょう。