責任と思いやり
人間社会には責任という言葉があります。
責任を辞書で調べると、「立場上当然負わなければならない任務や義務」とありました。
親としての責任とか、教育者としての責任とか、医師としての責任などが、そうです。
自分の責任を果たすというのも、この意味です。
また、「自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと」ともありました。
事故の責任を取るとか、責任を転嫁するとか、戦争責任とかですね。
責任という言葉には重みがありますし、俺が全ての責任を取ると言うと、格好いい響きもあります。
責任感がある人物は信頼されますし、無責任な人は軽蔑されます。
責任があるかどうかで、その人の社会的評価は大きく分かれますし、社会構造としても、無責任な人や会社ばかりだと、とんでもない社会になるでしょう。
しかし、責任の背後にあるのは、義務です。
親の責任、教育者の責任、医師の責任は、親の義務、教育者の義務、医師の義務と、言い換えることができます。
また、事故の責任、戦争責任などで使う責任は、責められるべきものですね。
義務にせよ、責められるべきものにせよ、求められている者に、ずっしりとのし掛かるものが責任です。
子供に関して取る行動が、好い加減な親は、無責任な親と言われます。
逆に、子供に関して、しっかりと適切な行動が取れる親は、責任感のある親と見られるでしょう.
でも、本当のところは、そうでしょうか。
子供に対して親が動く場合、その根底にあるのは基本的に愛情でしょう。
子供に、やっていいことと悪いことの、区別をつけさせる時、愛情で動くのと、責任で動くのとでは、教え方や口調などが異なると思います。
前者は子供に理解をさせることが中心ですが、後者は子供に親の言うことを聞かせることが中心です。
前者は子供に話しかけますが、後者は子供に命令します。
同じことは、学校での生徒と先生の関係や、病院での患者と医師との関係でも言えます。
わからない相手に何かを教える時、相手がわかるやり方を模索しようとするか、わからない相手が頭が悪いのだと、決めつけるのかで、全然応対は違って来るでしょう。
学校でも病院でも、決められた時間内で作業を済ませようとすると、相手が本当に理解できているかどうかよりも、理解はさせたぞという形を作ろうとします。
それが、時間内にやるべきことを済ませる責任、になるわけです。
この責任を、相手にきちんと理解させることだと考えた時、必ずそこに相手への敬意や思いやりを、見出すことになります。
責任は大切なことだと思いますが、自分がするべきことの、本当の意味を理解していなければ、責任は冷たく機械的なものになってしまいます。
責任感はあるけれど、冷たい人だな、と思われることでしょう。
事故の責任、戦争の責任などで用いる責任は、結局は他人への配慮や気遣いが足らない、ということが責められます。
つまり、本来の責任には思いやりがついているわけです。
辞書では義務として説明されていても、それは親にしても、教師にしても、医師にしても、こういう姿であるべきではないですか、という意味です。
そして、その裏には必ず、その立場における相手への思いやりが、隠れているのです。
責任という言葉の、本当の意味を考える時、そこに思いやりというものを、欠かすことはできません。
言い換えれば、思いやりが根底になければ、責任というものは、本来の機能を発揮できないのです。
政治家が責任を果たしたというのは、本当は果たしていないことが、多いと思います。
それは国民に対する思いやりに欠けていることが、あまりにも多いからです。
お金儲けばかり考えている、企業の人たちも同じです。
従業員や、一般の消費者の人々への思いやりがなければ、責任ある企業とは言えません。
責任とは何かということを、人の上に立つ者たちには、よく理解してもらいたいものです。