誰が言ったのか
子供が言い争う時、自分の発言なのに、先生が言ってたぞ、とか、うちの父さんが言ってた、などと言うと、相手はその威厳にひるんでしまいます。
自分と対等の相手と思うからこそ争うわけで、権威のある存在がいるとわかると、争えなくなってしまいます。
言い返すとすれば、嘘つき、先生がそんなこと言うもんか、などという言葉だけでしょう。
実際に、権威のある存在の発言だとわかると、相手は悪態をつきながら、その場を離れます。
自分の負けを認めたわけですね。
これと同じようなことが、大人になってからもあります。
と言うか、大人の方が、そういうことが多いかもしれません。
新型コロナ騒ぎでも、よく政府の大臣が、専門家の先生方のお話を伺ってから、という言葉を連発していました。
これは、実際に専門家に相談するかどうかに関係なく、専門家という言葉を出すことで、言い逃れができるからでしょう。
また、専門家と呼ばれる人の言葉もいろいろです。
そんなの言われなくても当たり前でしょ、と言いたくなるのもあれば、いくら何でも、それはやり過ぎじゃないですか、と言いたくなるのもあります。
もし、誰かを傷つけたり、場合によっては、命を奪ったりした人が、他の人間に対して、人を傷つけることはよくないからやめなさい、と言ったらどうでしょうか。
お前が言うな。
どの口が言うのか。
と周囲から散々叩かれるでしょう。
しかし、この人は自分のしたことを悔やみ、心から反省して、そう発言したのかもしれません。
それでも、犯罪者というレッテルが貼られてしまうと、この人の発言に耳を貸す人はいなくなります。
でも、同じ言葉を警察署長が言うと、それは全くそのとおり、となるでしょう。
人間は権威に逆らわないよう教育されていますから、権威には従順になりますし、困ったことがあると、権威に助けを求めます。
何かの情報を見つけると、それは誰が言ったのか、どこから出て来たのかと、権威が出所であるのかを、確かめようとします。
でも、たとえ名の通った所からの情報だとしても、それが正しいという証拠は、どこにもありません。
権威だから、間違いないだろうと、勝手に思い込んでいるだけです。
子供の喧嘩に話を戻せば、先生が言ったことだから、あるいは親が言ったことだから、それが正しいとは限らないのです。
また、権威が権威を護るために、データを改ざんすることは、どこの国でも有り得ることです。
あるいは、お金のためにすることもあるでしょう。
個人的にも、自分に都合のいいことは言うけれど、都合の悪いことは話さない傾向がありますよね。
権威だからと言って、信用してはいけないのです。
じゃあ、誰を信じればいいのか、と思うでしょう。
それは、自分自身です。
もちろん、何も知らなければ、判断のしようがありません。
普段から、いろんなことに興味を持ち、それらについて、自分なりにいろいろ考える習慣をつけるのです。
また、人間としてどう判断するのか、という点においては、政治家や専門家と呼ばれる人たちは、全くの無力です。
これを判断する力は、誰の中にもあります。
自分の心に問いかけて、自分は人間として、どう判断し、どう行動するべきか、と問うたなら、必ず答えは浮かんで来るでしょう。
何かの言葉を聞いたとしても、誰が言ったから信じる、誰が言ったから信じない、というのではなく、その言葉そのものを、自分の心で見定めるのです。
言葉の出所が誰なのかなど、一つも関係ありません。
コロナ騒ぎについても、どう行動すればいいのか、ということは、一人一人が自分で判断して決めることです。
政府が何か指示を出したから動く、出さないから動かない、というのは正しいやり方ではありません。
何かが起きたところで、政府は責任を取ってくれません。
また、責任を取ろうと思って、取れるものでもありません。
何事においても、自分で考え、自分の責任において、判断・行動しないといけないのです。
特に、ネット上に情報があふれる世の中ですから、誤った情報に振り回されたり、誰かが悲しむことになったりします。
これを取り締まれと言っても、なかなか上手く行きません。
それよりも、一人一人が間違った情報に飛びつかないよう、自分自身を高めるようにするのが一番です。
本当の問題はどこにあるのか、本当の問題解決は、どうすればいいのか。
常にこういう意識で、いろんなものを眺めるようにすれば、目先のことで一喜一憂したり、不安に振り回されたりしなくて、済むようになるでしょう。
本当の権威とは、自分の心の中にこそあるのです。