どう受け止めるのか
怪我や病気で、それまでとは異なる生活を、強いられることになった時、もうだめだと絶望する人は、少なくないかもしれません。
いきなり暮らしを、大きく変えられては、困惑するのが当たり前です。
でも、自分はまだ生きているし、こんなことも、あんなこともできるぞ、と思い直す人もいるでしょう。
一方で、そう思い直すことができないまま、ずっと悲嘆に暮れ続ける人もいます。
この違いは、本人が持つ物事の考え方や、価値観によるものです。
人は何かを判断する時、判断基準を選び、それによって物事に意義を見出そうとします。
不自由を強いられている状態を、ネガティブにとらえるのか、ポジティブにとらえるのか、それは、その人がどんな価値観で、生きているかによって違って来ます。
怪我や病気によって、それまでと違う生活を送るようになることで、見過ごしていた大切なことに、気がつくこともあります。
たとえば、自分を大切に想い、愛してくれる人たちの存在です。
何かに夢中になっていたり、仕事に没頭し続けることで、目を向けることがなかった部分に、目が向くようになり、それまでの人生を反省することもあるのです。
そういう人たちの中には、病気や怪我に対して、感謝の念を抱く人もいます。
同じような状況にある時に、それをどうとらえるのかは、その人の考え方次第です。
どんな考えを持とうが、それはその人の自由です。
ただ、自分の価値観によって、自分はこのような判断をしているのだと、理解している人は、多くはないと思います。
いろんな視点、いろんな考え方がある中で、自分はこのような視点、このような考え方を選んでいる。
だから、今の状況について、このように理解し、こう判断しているのだと、自分で納得するならいいのですが、実際は、そうではありません。
大抵の場合において、どうしてそうなっているのかが理解できず、自分が置かれた境遇を嘆くのです。
何で、いつもこうなんだ。
どうして、私ばかりがこんな目に遭うの。
世の中は、嫌なことばかり。
つらい状況が、自分の価値観のせいだと理解できていれば、このような不満は出て来ないでしょう。
自分の状況に愚痴をこぼす人は、自分の価値観でそうなっているとは、理解ができていないのです。
誰かのせいで、こうなった。
世の中の状況が、自分をこんなにした。
自分は不幸の星に生まれついている。
こんな感じで、自分以外のところに原因を求め、自分ではどうしようもないと、決めつけているのです。
自分は悪くない、という考えを捨て、物事がそうなった理由の中に、自分自身をも含めて考えるようにする。
物事には必ず、いい面と悪い面があるから、その両面を常に探るようにする。
どんな状況にあっても、自分に心を向けてくれている人は、存在している。
こういうことを念頭に、状況を判断するようにすれば、つらいと思っていた状況を、違ったように受け止められるようになるでしょう。