死について考える その1
あなたは「死」をどのように、とらえているのでしょうか。
怖いけど、考えてもわからないから、考えませんか?
そう言わないで、考えてみて下さい。
「死」とは何でしょう?
自分が消滅してしまうこと?
魂が肉体を離れて、あの世へ行くことですか?
脳が活動できなくなることでしょうか?
死ぬと言うと、死神が迎えに来るという、イメージがありますよね。
これは魂が肉体を離れて、あの世へ行くという考え方に基づいています。
死神というのは、大概が骸骨か、あるいは頭巾を被った闇として、描かれています。
それは不吉という意味を象徴しているのでしょう。
つまり、死とは不吉なものという認識なのです。
魂があると考えるかどうかに関わらず、人生がそこで終わってしまいますから、不吉なものととらえてしまうのでしょうね。
でも、このような死神は西洋的です。
日本人の場合、先に亡くなった家族や親戚、知人などが迎えに来るという、イメージが多いような気がします。
この場合は、死は不吉ではありません。
残された者にとっては、悲しいことですが、亡くなる人にとっては、喜びなのです。
この世が嫌になって、自ら命を絶ってしまう人たちにとって、死とはどんなものなのでしょうか。
恐ろしいものや、不吉なものと見なしていれば、わざわざ自分から、そんな所に飛び込むようなことはしないでしょう。
でも、喜びの場所として、死を見ているわけではなさそうです。
自ら死を選ぶ人たちにとって、この世界こそが恐ろしい所であり、不吉な所なのでしょう。
ただ、死というものがわかった上で、死ぬとは思えません。
恐らく、この世界から逃げ出したい、この世界から逃れられるのであれば、自分が消滅しても構わないという気持ちで、死んでしまうのだと思います。
このように、人によって「死」というものの、とらえ方は様々です。
でも、死ぬということを、本当に理解あるいは納得している人は、それほど多くないのではないでしょうか。
死というものについて考えていなくても、 穏やかな死を迎える人はいらっしゃいます。
そういう方は、自分の人生を受け入れているのだと思います。
死は人生の終末ですから、人生の一部でもあるわけです。
ですから、自分の人生を受け入れられる人は、自分の死も受け入れられるのです。
でも、こういう方が元気でいる間から、自分の人生を納得して、受け入れていたかはわかりません。
ずっと、死ぬことを恐れ続けていたのが、もう死ぬのは避けられないと悟ってから、受け入れられるようになる、ということも少なくないと思います。
また、本人は死を受け入れているのに、家族や病院が死を否定して拒むために、無益な治療を続けて、本人が苦しみ続けるということもあるでしょう。
死というものについて考えることは、自分だけの問題ではなく、他の人の人生に、どう向き合うかということにも、関係するのです。
死を受け入れるということは、人生を受け入れるということです。
それは自分の人生だけでなく、他人の人生についても、言えるのです。
誰かが亡くなった時、その人の死を悲しむだけでは、その人の人生を受け入れていない、ということになります。
つまり、その人の人生を否定することになるのですね。
どんな人生でも、ちゃんと意味がある、価値があると受け止めていれば、悲しいことばかりでなく、楽しいことや、よかったことも思い出すでしょう。
別れを悲しむことと、その人の人生をどう受け止めるかということを、きちんと分けることができるのです。
死について考える時、二つの見方があると思います。
一つは、その人がどういう人生を送ったのか、ということです。
死とは人生の終わりであり、人生の一部 です。
死を、人生から切り離して考えることはできません。
死は、人生という学校を離れることであり、本人にしても周囲の人々にしても、その人の人生を振り返る時なのですね。
もう一つの見方は、素朴な疑問として、死とは何なのか、ということです。
生きている者が存在しなくなる、ということが、生きている者には、想像しがたいのです。
また、そんな死が、いつか必ず誰にでも訪れる、という事実が怖いのですね。
しかし、死が何かと考えても、よくわからないというのが実情でしょう。
わかっているのは、死というものが、生きられなくなるということです。
と言うことは、生きるということを理解すれば、死というものの正体が、見えて来るわけです。
生きているということは、存在しているということですね。
自分という存在を考えた時、初めに浮かぶのは、自分の体でしょう。
でも、深く考えると、自分というのは、体ではなく心なのだと理解できると思います。
私たちの本質は心であり、心は物質では説明ができません。
脳の活動に伴う現象だと述べる学者もいますが、それでは説明になっていません。
美しい夕日は、太陽の光と地球の大気が、織りなす現象です。
夕日は光であり、光は物質エネルギーの一部です。
しかし、心は物質エネルギーの範疇には入っていません。
心が脳細胞の活動によって生じる、微弱な電流だと言うのであれば、説明していることになります。
でも、心と電流は別物と見なされていますから、心を脳活動による現象とは言えないのです。
この科学でもよくわかっていない、心について考えることが、生きるということについて、考えることなのです。
そして、それは間接的ではありますが、死について考えることにもなるのです。