愛と自由と責任
自由と言えば、責任という言葉が、セットになって付いて来ます。
自由に責任は付きものであり、責任のない自由とは、本当の自由とは認められません。
では、責任とは何でしょうか。
それは、自分の言動によって、周囲に与える影響や結果を、きちんと認識し、その事実を受け入れることです。
特に、誰かに被害を与えるようなことになれば、それを償うということで、責任という言葉は使われます。
ただ、この責任という言葉は、今の人間社会においてのみ通用する概念であり、自然界においては無意味です。
生物は自分が生きられる所があれば、どこでも生きようとします。
そのために、他の生物が居場所をなくそうが、命を落とそうが、知ったことではありません。
お前のせいでひどい目に遭ったと、訴える生物もいませんから、そこに責任という概念は生じません。
つまり、責任というものは絶対的なものではなく、人間が創り出した概念です。
では、責任を軽視していいのかと言うと、そうではありません。
みんなが責任を放棄すれば、社会は崩壊してしまい、人間は野生の動物のような暮らしを、強いられることになるからです。
しかし、責任という概念を前面に打ち出して、自由を定義づけるのも、自由の意味を考えると、違和感を覚えます。
自由というのは、自分自身を愛するということと、同じ意味です。
自分を認め、自分の思いの通りに行動する。
それが、自由です。
どうせ自分なんて、と考えて、やりたいことがあっても、我慢するのは、自由ではありません。
誰に制限されることもなく、拘束されているわけでなくても、自分に価値がないと見なして、自分で自分を抑制する人は、不自由なのです。
多くの人は、自由か自由でないかを、他人による制限や障害というイメージで、考えがちですが、自分自身が制限しているということに、気がつかなくてはなりません。
自分を愛し、自分を大切にできる人が、自由でいられるのです。
自分を大切に考える時、初めは自分のことしか、目に入らないかもしれません。
子どもがそうですよね。
子どもは自分が思ったとおりに動きます。
それで、誰かにぶつかろうと、お構いなしです。
でも、周囲との関係における、自身の居心地のよさを、考慮に入れるようになると、自然に他の人の気持ちを、考えるようになります。
そして、感情や思いを共有するようになると、相手と自分の区別をしなくなって来ます。
つまり、相手のことを自分のことのように、考えるようになるのですね。
そうなると、自由な行動というものが、責任という言葉を使わなくても、初めから他の人たちのことを、考えたものになりますから、問題は起きにくくなります。
何か問題が起こったとしても、相手の側もこちらに対して、我が事のような思いを持っていれば、大きなトラブルにはなりません。
事件や犯罪と呼ばれるような行動は、本人にとっては自由な行動です。
それを法律的、社会的に見れば、無責任な行動ということになります。
でも、別の見方をすれば、その人物は他の人々と、気持ちを共有する経験を、持つことができなかったのだと、考えることができるでしょう。
もしかしたら、自分自身をも愛することができず、自由と言うよりは、自暴自棄になっているのかもしれません。
本当の自由を実現するためには、責任よりも愛を重視するべきでしょう。
まずは、自分を愛するということ。
そして、その愛が周囲へと広がるような、環境を整えることです。
この周囲とは、人間とは限りません。
他の生き物や、自然環境、地球や宇宙などにも、広げることは可能です。
いろんな人が、それぞれ自由に暮らし、それでも調和が取れている社会を、想像してみて下さい。
自然とも共存し、他の生き物たちも、活き活きと暮らしている社会です。
それは、愛に満ちた社会です。
そんな社会を考えたなら、愛と自由が同じ意味であることが、理解できると思います。