未来を知る 自分を知る
将来、自分がどうなるのかわからない。
こう考える時は、自分というものを、他者の思考や動き、あるいは世の中の情勢や、天変地異などに委ねています。
自分自身には、自分の未来について、何の選択権も決定権もないと、見なしているのと同じです。
しかし、自分が認識する世界というものは、自分だけのものです。
他の人にはわかりません。
みんな、自分と他の人が、同じ世界を体験しているに違いない、と思い込んでいるだけです。
でも、体験している世界は、一人一人異なります。
同じ状況下にあって、ひどい目に遭う人と、そうでない人に、分かれることがありますよね。
それは、それぞれの選んでいる世界が、別々だからです。
人は、自分がどのような人生を体験するのかを、予めわかった上で、生まれて来るのだと考えて下さい。
何かで命を失う場合、それが人生設計の中にあることもあれば、人生設計を外れたための結果ということも、あると思います。
前者はそこで死ぬ予定になっているわけですが、後者の方は選択によっては、死を避けられたということです。
自分の将来がわからない、自分の人生は不安だらけだ、という人は、人生の主導権を手放した状態です。
せっかく、人生設計を立てて生まれたはずなのに、そのとおりに生きようとしていません。
その結果、世の中に翻弄され、思いがけない出来事に巻き込まれたり、病気や怪我でひどい目に遭いやすくなるのです。
そうならなくても、いつも不安にさいなまれ、心から安心できる暮らしができません。
自分の人生設計を知る人は、世の中に翻弄されません。
翻弄されているように見えても、心の中は安定しています。
彼らは自分がどうするべきか、どうあるべきかを、心得ています。
生きるということ、死ぬということを、きちんと受け止めています。
死ぬ時は、そこで死ぬことになっていたのだと考え、じたばたしません。
そこから逃げよう、そんなものから避けようとする人は、自分の人生設計を、放り出しているわけです。
そんな人にとって、未来は不確かであり、不安に満ちています。
未来がどうなるのか、世の中の情勢で、確率的に考えることしかできません。
しかし、確率というものは、ある条件下において成立しますから、災害やコロナウィルスのような、思いがけないことが起こると、途端に違う数字に変化します。
それに対して、人生設計を知る人は、自分がどうなるのかを知っていますから、周りの状況が変わっても、心がぶれません。
目の前に障害が現れたとしても、その先に自分の未来があるのを知っているので、慌てたりしないのです。
では、どうすれば自分の人生設計を、知ることができるのでしょうか。
それは、自分の好奇心が教えてくれます。
自分が何に興味を持つのか、どんな時に嬉しい気持ちになるのか、どんな所でどんな事をしてみたいのか。
そんな気持ちが、進むべき方向を示してくれているのです。
今はそれができる状況ではないと、多くの人が言い訳をして、進むべき方向に進むもうとしません。
でも、飢えた猛獣が迫っているとしたら、どうしますか。
今、この仕事が忙しいからと言って、逃げないでしょうか。
大切な家族が、今にも死にそうになっている。
だけど、仕事を休めないから会いに行かないと、考えますか。
結局、どうするかは、何を重視するかで決まります。
好奇心が示してくれている、人生設計の道を重視するか否かです。
それは個人の自由であり、好奇心に従おうが従うまいが、どちらでも構いません。
ただ、選んだことの結果が、目の前に現れるだけのことです。
何が現れようと、どんと受けて立つというのであれば、それでいいのです。
でも、それで右往左往して、苦しみ悩むのであれば、何を重視するべきなのかを、再考してみるのがいいでしょう。
好奇心に従って生きるようにすると、自分の未来の姿が見えるようになります。
それが自分の未来の姿なのだと、知るわけです。
それを知った瞬間から、その人はすでに、自分が知った未来の姿を、今に体現し始めています。
その人にとっては、その姿はもはや確定したものなのです。
そこに、お金を稼いでいる自分とか、みんなの注目を浴びている自分とか、余計な要素は混ぜないことです。
自分がどんな人間でありたいのか。
どんな活動をしていたいのか。
それだけを、思い浮かべているといいのです。
お金を絡めると、お金があるのが幸せなのだという、歪んだ価値観で動くことになります。
それは自分の好奇心が示すものとは、別の方向へ進むことです。
そうなると、見えていたはずの未来の姿は、現実には現れて来なくなるわけです。
本当に自分が求めているもの。
それだけに集中していることが、人生設計で決められた未来の自分を、知ることにつながるのです。