誰の価値観か その2
幼い頃に、親から植えつけられた価値観は、その人が持つ価値観全体の、基盤となります。
基盤の価値観が、喜びに満ちたものであれば、基本的にその人は、喜びを求めようとするでしょう。
基盤の価値観が、つらさに満ちたものであれば、基本的にその人は、喜びをあきらめてしまうでしょう。
その基盤の上に、様々な価値観が付加されて行くわけですが、それによって、喜びを基盤としていたはずの人が、喜びが見えなくなることがあります。
また、つらさを基盤としていた人が、喜びを求めてみようと思うこともあります。
あるいは、喜びが見えなくなっていても、結局はそこから立ち直って、再び喜びに向かって、生きるようになるかもしれません。
また、つらさを捨てて喜びを見つけたつもりが、ちょっとしたきっかけで、再び喜びをあきらめてしまうことも、あると思います。
このように、基盤の価値観が修正されたり、修正されたように見えていたのに、結局は基盤の価値観どおりに動いたりと、様々です。
ただ、ここで言えるのは、価値観というものは、あとから付いて来るものであり、絶対的なものではないということです。
幼い頃に身に着いた価値観は、まるで本人と一体になったかのように、なかなか変えることができません。
と言うより、本人がその価値観を、自分自身の一部だと信じ込んでいるから、変えることができないのです。
それでも、価値観というものは修正が可能です。
また、価値観というものは、この世界を快適に生きるためにあるのです。
だからこそ、なるほどと思う考え方が、価値観になるわけです。
ただ、なるほどと思う過程が、常に論理的であるとは限りません。
特に幼い頃にすり込まれた価値観は、親や先生など、身近の信頼できる大人が支持するものだから、という理由だけで、納得しているものです。
その価値観で自分が楽しく暮らせるのであれば、それで構いません。
しかし、何等かの問題を生み出すのだとすると、価値観の修正が必要になります。
自分が不幸せだと思っている人は、その理由を自分の価値観の中に、見つけなければなりません。
たとえば、男尊女卑を当然だと信じている人は、多くの人、特に女性から非難を浴びるでしょう。
それでは楽しく過ごせません。
こういう時には、自分が男尊女卑を当然だと考える根拠を、整理するのです。
そこに論理的な根拠を見い出せないのであれば、納得の上で価値観を修正しなければなりません。
修正しなければ、問題は残り続けます。
修正ができれば、問題は解決するでしょう。
自分なんて、何もできない人間だと、考えてしまうのも、そういう判断基準、そういう価値観が原因です。
どうしてそう考えてしまうのか、自分の価値観を探るべきです。
たとえば、親にそのように扱われていたとか、学校で先生に褒められたことがないとか、いつもテストの点が悪いとか、恐らく、そんなことが理由でしょう。
でも、親がどう扱おうと、先生が褒めようが褒めまいが、自分の価値には関係ないということに、気づかねばなりません。
テストの点にしたって、学校の成績が悪いのに、会社の社長になる人もいるのです。
人が誰かを評価する時、それはその人の都合で決めた基準で、評価されます。
要するに、評価する人の勝手な基準です。
別の立場の人が評価すれば、また違う結果が出るでしょう。
いずれにしても、人の価値というものは、誰かの評価によって、左右されることはありません。
また、価値のない人は、一人も存在しません。
本当に価値がないのなら、この世界に存在していないでしょう。
価値はあるのです。
問題は、その価値を見い出せるかどうかだけなのです。
つまり、価値がないように言われた人に、問題があるのではなく、その人の価値を見い出せなかった、そちらの人に問題があるわけです。