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ピアノの思い出

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 ※nightowlさんによるPixabayからの画像 です。

私は小学生の頃に、ピアノを習っていたことがあります。

望んで習ったわけでは、ありません。
父親がピアノがある暮らしに憧れて、箱形ピアノを買ったからです。

私は三兄弟の真ん中なのですが、初めは兄弟全員に、ピアノを習わせると言われました。

でも、兄は初めから拒絶して、習いませんでした。
弟は習い始めて、すぐに挫折。

親の期待は、私一人にかけられることになりました。

もう、やめたくても、やめたいと言えません。
毎週末の土曜日に、私は一人でピアノ教室へ通いました。

当時は土曜日の午前は、学校で授業がありました。
でも、午後は休みです。

子供にとっては、日曜日に次いで、貴重かつ重要な遊び時間でした。
その土曜日の午後に、ピアノのレッスンがあったのです。

ピアノを習い始めたのは、六年生になってからでした。

それまでは土曜日の午後は、友だちと目一杯遊んでいました。
それなのに六年生になってからは、レッスンが終わらないと、遊べなくなったのです。

学校が終わると、友だちは近くの空き地に集まって、野球をして遊んでいました。
真っ直ぐピアノ教室へ行くには、その公園の横を、通らないといけません。

当時、ピアノを習うのは、女の子と決まっていました。
男の子がピアノを習ったりしたら、女みたいな奴と、馬鹿にされてしまいます。

そういう子供の世界の事情を訴えても、親はわかってくれませんでした。

それで、ピアノを習いに行く時には、別の道を通って遠回りをしました。

公園の横を通る時には、こっそり友だちの様子をうかがいました。
そして、みんなの目がボールを追った時に、猛ダッシュで駆け抜けるのです。

そんな苦労をして着いた教室の中は、確かに女の子ばかり。
男の子は私一人で、とても居心地が悪かったですね。

居心地が悪かったと言うと、こんな話もあります。

結婚した頃の話ですが、家内に宝塚歌劇を見たいと言われました。
それで一度だけ、劇場へ行ったことがあるのです。

建物の中には宝塚歌劇のファンの人たちが、あふれんばかりにいました。
全員が女性でした。

 ※photoBさんによる写真ACからの画像です。

建物に入ると、その人たちの目が、一斉に私に向けられたのです。
何も悪い事はしていないのに、責められるような目でした。

別に間違って女子トイレに、入ったわけではありません。
ちゃんとチケットも買いました。

それなのに、男である事が罪なのだと、言わんばかりの視線でした。

それと同じような雰囲気が、ピアノ教室にはあったのです。

先生は教える立場ですから、私を嫌な目で見たりはしません。
でも、生徒である女の子たちの目は、妙なものを見ている感じでした。

また、レッスンのない日も、毎日家で練習をしないといけません。
他にやりたい事があっても、練習が終わらないと、許されないのです。

まるで何かの罰を、与えられているような感じでした。
ピアノを楽しいと思った事は、一度もありませんでした。

ピアノのレッスンは、中学生になっても続きました。
でも中学一年生の夏に、家を引っ越しする事になり、ピアノ教室も終わりとなりました。

引っ越し先で、別の教室に通うかと、親から問われました。
でも、この時はきっぱりと断りました。

引っ越しで友だちと別れるのは、確かに寂しかったです。
でも、それ以上にピアノから解放された、喜びは大きかったですね。

今から20年ほど前でしょうか。
親しくしていた家族が、アメリカへ引っ越しする事になりました。

その家にはピアノがありました。
その時に、そのピアノを譲ると、言われたのです。

ピアノは高価ですから、初めは断っていました。
でも、どうしてもと言うので、もらう事にしました。

せっかく頂いたので、いたずらで私は、そのピアノを弾いてみました。

でも、それほど長く習っていたわけではありませんし、上手でもありませんでした。

しかも、ピアノをやめてから、長い年月が経っています。
弾けるわけが、ありませんでした。

そんな頃、私はある女性ピアニストの曲にはまりました。
西村由紀江さんです。

彼女が奏でるメロディーは、とても優しく温もりがありました。
技術を聴かせるのではなく、心の声を音色に変えているようでした。

私は彼女の曲を弾いてみたいと思い、何冊も彼女の曲の本を、買い集めました。
そして、片っ端から弾きました。

 ※StockSnapさんによるPixabayからの画像です。

初めは、ゆっくり音を確かめながら弾きました。
思ったように指は動きません。

でも、弾きたい一心で練習をしました。
すると、少しずつ弾けるようになり、最後には間違えずに、弾けるようになりました。

弾く時には、ただ音を鳴らすのではなく、自分の心を音に載せるのです。

曲を作ったのは、西村由紀江さんですが、その曲を弾くのは私です。

私の指が奏でる音は、彼女の曲を通して表現された、私の心の音色なのです。

私は初めて、ピアノが楽しいと思いましたし、素晴らしいものだと理解できました。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

ピアノを習わされた事は、子供の頃の私には、苦痛以外の何物でもありませんでした。

でも、そのお陰で音楽の世界に、足を踏み入れる事とができたのです。
親には感謝しかありません。

それに音楽というものが、人間にとって何なのかがわかって、嬉しく思いました。

音を楽しむと書いて音楽なのに、日本人は音楽を、楽しめているとは思えません。

楽しむとしても、たいてい誰かの演奏や歌を、聴いて楽しむのです。

自分が演奏して楽しむ人は、それほど多くはいないでしょう。

みんな、そんな事ができるのは、特別な人だけだと、思い込んでいるのです。
昔の私と同じです。

でも、それは教育による洗脳です。
子供に完璧を求めようとする、学校教育の弊害なのです。

音楽とは、言葉よりももっと直接的な、心の表現です。

聴いて楽しむのは、演奏している人の想いに、自分の心を寄せるものです。

でも、自分が演奏する時は、それが何の曲であれ、奏でる音色は、自分の心そのものです。
聴いて楽しむのとは、全然違うのです。

音を奏でる事だけに集中すると、自分がメロディーそのものに、なったように感じます。
肉体の存在も、雑念も消え去り、心はメロディーだけになるのです。

素人の私が言える事では、ないかも知れません。
でも、私はそう感じました。

音楽に限りませんが、自分が興味がある事は、どんどんやってみるべきだと思います。

特に音楽や絵画などの芸術は、心を表現するものです。
それは自分だけのものなのです。

年齢なんか関係ありません。
経験があるかどうかも、どうでもいい事です
上手か下手かも、気にしなくていいのです。

いろいろ言う人もいますけど、放って置きましょう。
そういう人は楽しんでいる人に、やきもちを焼いているだけなのです。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

言語や態度、表情以外に、自分を表現できる方法を、手に入れるのは素敵な事です。

しかも、言葉よりも心に近い表現方法です。

口で言えない事も、奏でる音で表現できるのです。

想いを心に溜め込むと、病気になってしまいます。
でも、自分の気持ちを表現できれば、すっきりします。

それが他の人に通じれば、そこに喜びを見つけるでしょう。
挑戦してみて、何も損をする事はありません。

音楽や芸術を、日常生活に取り込めたなら、その人の人生や暮らしは、きっと豊かなものになると思います。