祈りと決意1
人は大切な人のために、祈ります。
試験に合格しますように。
無事に戻って来ますように。
病気が治りますように。
成仏できますように。
宗教があろうがなかろうが、祈りには関係ありません。
本当にその人のことを思う時、自然に胸の前に両手を組んで、その人のために祈ります。
神さまという、具体的な祈りの対象がある人は、神さまにお願いする形で、祈るでしょう。
しかし、神さまをイメージしない人でも、とにかく祈ると思います。
これは一種の本能的な行動なのだと、私は考えています。
どういう事かと言いますと、私たちの意識領域のうち、無意識と呼ばれる部分が、祈るということの意味を、理解しているからでしょう。
全ての人の心は、一つにつながって、人類の意識を形成しています。
祈りはそのつながりを通して、無意識から無意識へと伝わるのです。
無意識はその事が、わかっているのでしょう。
それで誰かの事を想う時に、それが祈るという行為に、なるのだと思います。
そして、その祈りは必ず、相手の無意識へ届くのです。
ただ、祈れば必ず、そのとおりになるのかと言うと、そういうわけではありません。
他人の運命を決めることは、どんなに祈ってもできません。
その人の人生を決められるのは、その人自身だけです。
その人が本気で動くかどうかで、その人の将来が決まるのです。
祈りはその人が本気で動くための、働きかけになるでしょう。
それでも結果は、その人の気持ち次第というところです。
祈りの対象が、自分自身である事も、ありますよね。
でも、この場合の祈りというのは、大抵の場合、自信のなさや不安な気持ちの、表れに過ぎません。
つまり、上手く行かなかった時の事を、悪いものと受け止めている事の、裏返しが祈りなのです。
一方で、自分に絶対的な自信がある人は、祈ったりしません。
この人たちは、自分の望みは、絶対に叶うものだと確信しています。
問題はそこへどうやって、アプローチするかという事だけです。
上手く行かない場合も、それを失敗だとは見なさず、別の道を探るよう示されたと、考えるのです。
失敗したと考えるのは、だめかも知れないという意味です。
失敗が続くと、絶対にだめだと思って、諦めてしまいます。
でも、失敗したと思わなければ、まだ途中であって、終わってはいないのです。
自信がある人は、何度上手く行かなかったとしても、だめだとは思っていませんから、さらに何度でも、挑戦を続けます。
彼らは祈る代わりに、必ず成し遂げるという、決意をしているのです。
そんな想いで行動すれば、必ず結果はついて来ます。
それには、ちゃんとわけがあるのです。
他の記事で書きましたが、人は一人一人が、独自の世界を体験しています。
他の人たちと同じ世界にいるように見えますが、実際は一人一人が、違う世界を体験しているのです。
その世界を構成しているのは、体からの感覚情報と、それに対する感情反応です。
自分の望みが叶うという事は、望みが叶った世界を、体験するという事です。
体験している世界は、どこでどんな情報を集めるかによって、全然違うものになります。
望みが叶った世界にするためには、それに見合った情報を集めて、世界を構築する必要があるのです。
では、どうすればいいのでしょうか。
それを教えてくれるのは、無意識です。