本当の試験 その2
大人が試験に見い出している意味とは、将来その子供が、給料をたくさんもらえる立派な企業で、雇ってもらうためというものでしょう。
そのためには、少しでも名の通った上の学校へ、入学させなければいけないと考えます。
それができれば、先生たちのお株も上がります。
子供が立派な仕事に就いて、安定した収入、それもできれば高額な収入が得られるようになれば、親は安心しますし、子供を誇りに思います。
逆に考えると、試験の点数が低いままだと、親は子供の将来を心配し、大した人間にはなれないかもと不安になります。
実際、子供がしっかりした仕事に就けないと、がっかりしますし、子供をなじったりもします。
自分の子供なのに、誇りに思うどころか、親であることを恥じ入るでしょう。
子供は子供で、親や先生の期待に応えようと、自分が嫌いな科目であっても、今度はもっといい点を取ろうとします。
でも、それでも点が悪くて期待に応えられないと、自分はだめなんだと思い込んでしまいます。
高校や大学への進学にも失敗し、就職もうまくいかないと、自分なんか何をやってもだめな、無価値な人間だと考えたくなるでしょう。
そこへ追い打ちをかけるように、親から冷たい目を向けられたり、あきらめを感じさせられたりすると、絶望しかありません。
試験とは、大人が子供を勝ち組と負け組に分けるための、ふるいになっています。
でも、本来の試験とは、そういうものではありません。
単に今の知識や技量が、どの程度なのかを確かめるだけのものです。
その結果がどうあれ、そこにいいも悪いもありません。
鏡をのぞいた時に、その時の自分の姿が、そこに映るのと同じです。
その姿が気に入らなければ、気に入るようにすればいいだけのことですし、それでいいと思うのならば、それでいいのです。
それを他人がとやかく言うのが、間違っているのです。
しかし、今の世の中の試験というものは、そんな感じです。
どんな姿であるべきなのかと、勝手に基準を決められて、その姿でなければ受け入れないぞ、という姿勢です。
それはおかしなことでしょう。
いろんなファッションが認められているように、いろんな点数の子供がいても、いいわけです。
その試験の点数が低くても、他の試験では、その子の点数はもっと高いはずです。
ただ、決められた科目の中に、その子が高得点を取れる科目が、入っていないだけのことです。
学校の試験が当たり前のように行われていますが、それは今の社会の縮図であることを、知る必要があるでしょう。
つまり、社会にとって都合のいい基準で、人間に優劣をつけて、それに従える者には褒美を与え、従えない者には苦しみを与える、というものです。
今の試験は、子供のうちから、大人の社会のあり方を、子供たちに身をもって教え込んでいるわけです。