不完全な完全 その1
人は自分にはないものに憧れます。
それは、そこに自分の知らない喜びや楽しみが、隠されているように思うからです。
運動が苦手な人は、スポーツが得意な人に憧れます。
勉強が苦手な人は、勉強を苦にしない人に憧れます。
仕事が苦手な人は、ベテランの人に憧れます。
歌が下手な人は、歌が上手な人に憧れます。
お金がない人は、お金持ちに憧れます。
権力がない人は、権力者に憧れます。
こういうみんなが憧れているものを、全て兼ね備えている人がいれば、その人は完全無欠の存在に見えるでしょう。
しかし、何が完全で、何が不完全なのでしょうか。
それは、それを決めるための基準があって、初めて言えることなのです。
基準がなければ、完全も不完全もありません。
その基準は宇宙の法則などではなく、誰かが勝手に作ったものです。
それも、その人に都合のいいように作っています。
そもそも、完全か不完全かと考えたくなる根底には、地球上に存在するものの中で、人間が最も素晴らしく偉大であるという、極めて傲慢な考えが隠れています。
自然が破壊されようがお構いなしに、好き勝手なことばかりするのが人間です。
自分も他の存在も、同じ地球の分身であり、兄弟であると理解していれば、とてもできないようなことです。
生きていくのに、他の生き物の命をもらうことに対しても、一欠片の感謝もありません。
その傲慢さは、人間同士の中でも発揮されます。
今の社会は、この傲慢さを基盤にして成り立っています。
みんな、自分が生き残ることばかり考えて、他の人のことを考える余裕がありません。
資本主義経済というものは、そういうものなのです。
全ての人が豊かな金持ちになるということは、資本主義経済では有り得ないことです。
誰かが貧乏でいてくれるから、金持ちが存在できるのです。
この資本主義社会の中では、多くの人が貧困に喘いでいます。
裕福な暮らしができるのは、ごく限られた人たちだけです。
競争社会なので、裕福な暮らしを手に入れるためには、いろんな手を使って、上へ登らなければなりません。
登ったつもりでも、いつ転落するかもしれません。
上に登れなかったり、登ったつもりが転落したりすると、自分は不完全な人間だと、思い込んでしまいがちになります。
それは、上に上がれないとだめだ、という価値観があるからです。
今の世の中で自信をなくし、自分に価値を認めることができず、身動きが取れなくなっている人が、少なくありません。
でも、それはゆがんだ価値観に洗脳されているのです。
自分を見る基準を変えてやれば、不完全だと思っていた自分が、完全に見えて来るはずです。