何かを本当に知るということ その1
何かを本当に知りたい、極めたいと思っている時に、突然それができなくなることがあります。
そんな時、自分はこれがしたいのに、これを知りたいのに、どうしてできないのかと嘆きたくなります。
でも、何かを本当に知るということは、それが失われた時に、よくわかるものです。
あるのが当たり前、できるのが当たり前、と思っているうちは、それの本当の意味や価値は理解できません。
そこから離れたり、それを手放したりした時に、それまでとは違う場所から、それを眺めることになります。
たとえば、スポーツ選手が引退して、一般の人の立場から、そのスポーツを眺めるようなものです。
ただ、そのスポーツがしたい、みんなの注目を集めたい、と思っていると、それができなくなった自分が、哀れで情けなく思えるかもしれません。
でも、自分が活躍していたスポーツを成立させるために、多くの人が陰で動いてくれていたことを知ったり、スポーツを通して、多くの人が苦難に立ち向かう力を手に入れていたと知れば、自分がやっていたことの本当の意義を、理解できるようになるでしょう。
そうすれば、新たな立場、あるいは新たな環境の中で、同じ意義を持った活動をするようになるのです。
それはスポーツ選手とは、全くかけ離れたものかもしれません。
それでも、その人はその中で光り輝き、それこそが自分が求めていたことだと、知ることになるでしょう。
何かを極めようと思っても、その何かの正体がわからなければ、極めようがありません。
今の場所を離れて、違う視点が眺めることで、それまで見ているつもりで見えていなかった、何かの本当の姿が見えて来るのです。
でも、それまでの視点に固執しているうちは、自分を哀れむばかりで目が曇っています。
何かができなくなった時、それが自分にとって何であったのか、本当にそれは失われてしまったのかを、よく吟味してみることです。