自律思考と自立思考 その1
自律思考という言葉はありません。
私が考えました。
自立思考という言葉もありません。
これも私が考えました。
自立志向という言葉はあります。
これは自立をしたいと思う気持ちのことですね。
でも、自立思考という言葉は使いません。
自律思考とは、自分で考えているつもりで、実はそうではない思考のことです。
日常生活の中で、こんなものだと理解している価値観に従って、勝手に作られる思考のことです。
言ってみれば、オートプログラムですね。
日々繰り返される当たり前のことに、いちいち頭を使っていては疲れてしまうので、この場面ではこの考え、という感じで、その場に応じた思考が頭に浮かぶのです。
そして、本人はそれを自分で考えていると受け止めています。
でも実際は考えているのではなく、頭に浮かんだ考えを眺めているだけです。
これに対して、自立思考というのは、本当に自分で考えている思考のことです。
価値観を自分で作り出し、その価値観がその場にふさわしいかを、常に吟味しています。
ですから、新たな状況に置かれて、新たな価値観が求められると、自立思考はいろいろ考えて、新しい価値観を生み出すのです。
何故自立かと言うと、他人の価値観に従った考えではないからです。
多くの人が持つ価値観は、自分で考えたものではなく、生まれた時からすでに存在している、誰かが作った価値観です。
それは自分のためにある価値観ではなく、誰かのためにある価値観なのです。
しかし、それが世の中の常識であると信じ込まされ、そこに懸命に自分を押し込めようとするのです。
自律思考の元となる価値観の多くは、そんな無理やり信じ込まされた、他人の価値観です。
自律思考に任せているということは、この他人の価値観を疑いもせずに、受け入れているということです。
また、自律思考ばかりに任せて、自立思考をしないのは、その他人の価値観から、抜け出すことができないとうことです。
どうしてそうなるのか。
それは、自律思考に組み込まれた他人の価値観の中に、他の価値観を探さないようにという指示が、含まれているからです。
これは宗教の違いや、人種の違いなどによる、争いを生み出す元になっています。
実際に争う人たちは、自分たちが利用されていることに、気がつきません。
しかし、争いの中に平和はなく、心の安寧もありません。
人間として自然でない生き方を強いられることで、頭でどう考えているかに関係なく、心や体に不調を来すことになるのです。
一時的、あるいは表面的な快楽で、ごまかすことはできたとしても、彼らの心や体は確実に蝕まれて行きます。