それぞれがするべきこと その4
自分が思ったように生きようとしても、自分のいる所が戦乱に巻き込まれたり、大災害に見舞われたりしたら、何もできないじゃないかと思うかもしれません。
そこには死が待っているかもしれませんし、助かったとしても、街が壊滅していれば、そこで何かをすることは不可能です。
それでも、人の生き死にを誰かが判断することはできません。
同じ状況の中にあって、こっちの人は亡くなったのに、隣にいた人は助かったということは、いくらでもあります。
その差が何なのかということを、生きている人間が知ることはできません。
人それぞれ事情が違うからです。
ただ、直感に従って助かったという人もいるので、直感に従えたか否かが、生きるか死ぬかの違いに結びつくことはあると思います。
何とか無事に生き延びたけれど、街が壊滅しているから、お先真っ暗だと思う人は、その土地への執着を棄てなければなりません。
どうしてもそこがいいと思うのであれば、その土地を回復するために、全力を出せばいいでしょうし、もうだめだと思うのであれば、他の土地へ移動すればいいのです。
そこでの思い出は思い出として持ちながら、新たな所で新たな一歩を踏み出すのです。
それは必ず新たな人との出会いとなり、新たな世界を創り出すことに、つながります。
人は自分たちが大きな世界の中にいて、その世界の動きに従って生きていると考えがちです。
でも、人間が認識している世界は、人間が創り出しているのです。
人間の集団意識、全体としての人類の意識が、その意識の中に生み出した夢が、私たちが認識している世界なのです。
個人個人が見ている夢と、本質的には同じです。
違いは個人が見ているのか、集団意識が見ているのか、という点でしょう。
そして、私たち一人一人は、その集団意識の中の一部ですから、私たち自身の考え方や行動が、全体の意識に影響することは、間違いありません。
私たちがどこで何をしようと、それはこの世界の一部であり、私たちが新たな何かを始めたら、そこに新たな世界が生まれたと言えるわけです。
無限大のキャンバスの上で、一人一人が自分の居場所や周囲に、好きなように色を塗っているのと同じです。
時には隣の人と、色の塗り方で揉めることもあるでしょうが、一緒に相談しながら、面白く楽しい色を見つけることもあるのです。
不安に満ちた色を塗る人が、たくさんいると、世界は不安で満ちたものに見えます。
それでも、自分の持ち場だけでも、明るく希望に満ちた色にしておけば、他の人が不安に頭を抱えていても、自分だけは明るい自分でいられるのです。
それは他の人たちがお金もなく家もなく飢えているのに、自分一人だけが裕福な状態でいるという意味ではありません。
自分の明るさを維持できる状況に、いられるということです。
他の人がそれにならって、自分も明るい色を塗るようになると、世の中の雰囲気は変わって来ます。
そんな人がどんどん増えて、どこを見ても明るい色ばかりになれば、世界は喜びに満ちたものになるでしょう。
もちろん、それは世界中の人が裕福になるという意味ではありません。
みんなが明るさを表現できる状況が、世界中にあるということです。
つまり、いわゆる裕福と喜びとは、必ずしも一致しないということです。
もし裕福と喜びが同じものだと言うのであれば、その裕福さとは物質的な豊かさを、象徴したものではなくなるでしょう。
裕福とは何かと問われたら、心の豊かさだと答えることになるはずです。
狂った世界の中で、自分なんかに何ができるのかと、思いたくなるかもしれません。
それでも、今の自分がいる場所で、自分にできる限りの明るい色を、与えられたキャンバスに塗ることこそが、実は新たな世界を創り出す行為なのです。
誰かがするのではなく、自分がするのです。
水面の波紋のように、その喜びが周囲へ広がることで、いつの間にか世界は違ったものになるのです。