それぞれがするべきこと その2
周りに振り回されず、自分が信じたとおりに進むんだ。
こう言われたところで、それは容易なことではないでしょう。
身の回りで何かが起これば、どうしてもその影響を受けてしまいます。
今のように、世界が大きく動いている中では、ちっぽけな自分なんかは、濁流に押し流される、一枚の葉っぱのようなものに思えます。
それでも、流れに呑まれて沈んでしまう葉っぱもあれば、最終的に無事に岸辺にたどり着く葉っぱもあるのです。
どうなるのかは偶然によって決められるのであって、自分の力ではどうにもならない、と思うでしょう。
でも事実は、さにあらずです。
確かに自分で動けない葉っぱは、濁流に逆らって動けるものではありません。
激しい濁流には、泳ぎが上手な生き物だって、押し流されてしまうでしょう。
それでも、入り乱れた流れの中を縫うようにして、無事に岸辺にたどり着けたなら、それは流れと戦った結果とは言えません。
結果的に岸辺にたどり着ける流れの位置に、身を置くことができたから、その葉っぱは沈むことなく、岸辺に漂着できたのです。
これは頭で考えてできることでもなく、波と戦ってできることもありません。
葉っぱが沈まないルートを通るために、どんな力が働きかけていたのか。
それがわからない人は、それを偶然という言葉で表現します。
しかし、そこには目に見えない力が働きかけていると、理解している人は少なくありません。
この木の葉のように、人間が自分を安全な所に置くためには、この目に見えない力と、結びつく必要があります。
そのための力が直感です。
どこが安全なのか。
どう進めばいいのか。
何をすればいいのか。
これらを直感で判断し、そのように行動できた者が、無事に残ることができるのです。
近くで誰かがどうにかなった。
だから自分もそうなると思うことは、わざわざ自分を沈める流れに、自らを任せてしまうことに他なりません。
同じように見える流れの中で、直感は無事へつながる流れを、見つけ出してくれます。
人は人、自分は自分と考えられる人は、この流れを見つける可能性が高いと言えます。
それでも理屈で考えて判断していると、自分は自分と考えていたとしても、やはり無事へと続く流れを、見つけることはできないでしょう。
正しい判断は、思いがけないところからやって来ます。
混乱している時こそ、混乱している思考を止めて、頭を無の状態にして、どうするべきなのかという答えを求めるのです。
考えるのではなく、ただ求めるのです。
こうなったらどうするのか、ああなったら困るぞ、なんて言うことは一切考えません。
とにかく頭の中を空っぽにして、リラックスした状態を作り、ただ答えを求めていると、ふと答えが頭に浮かぶでしょう。
それに従って動けばいいのです。