恥ずかしいという気持ち
他人の目を気にする時、私たちは気恥ずかしさを感じています。
恥ずかしいという想いがあると、私たちは目立たないようにしようとします。
何か言うべき時でも喋りません。
何かをするべき時にも、じっとしています。
時には、それによって大切な人が、傷つくようなことがあっても、何も言えず、何もできないということがあります。
あとでそれを反省したり、後悔しても、どうしようもありません。
恥ずかしいと思う時、自分で自分を低い存在と見なしています。
他の人とは違う存在、人から馬鹿にされる存在、人に嘲笑される存在、と見ているのです。
そんなのは嫌だから、そんな自分を恥と思い、目立たないようにするのです。
だけど、実際に他人が自分をどのように見ているのかは、わからないものです。
明らかに馬鹿にされたり、白い目で見られるのでなければ、案外何とも思っていないかもしれません。
その場合、恥ずかしいという気持ちは、一人相撲であり、勝手な独りよがりということになるでしょう。
だけど、本当は馬鹿にされるかもしれないし、それがわからない以上、じっとしている方が得策だ、と考えたくなるかもしれませんね。
仮に、馬鹿にされるのだとしても、言うべき時に言うことを言うのは、大切なことですし、やるべきことをやるのは、とても重要です。
それらは自分の人生のものであって、他人のものではありません。
自分の人生をどうするのかは、自分の勝手であって、他人にとやかく言われる筋合いはないのです。
とやかく言う人がいたら、放って置きましょう。
笑いたければ、笑わせておけばいいし、馬鹿にしたければ、馬鹿にさせていればいいのです。
その結果、あなたが好きなことを言い、好きなことをやって、楽しい人生を過ごしたならば、馬鹿にしていた人たちは、考え方が変わるでしょう。
あなたを笑ったことで、恥じ入るに違いありません。
でも、彼らがどのように変化するかも、あなたには関係のないことです。
たとえば、好きな人に対して、好意を示すことが恥ずかしいと思って、知らんぷりをすれば、きっと深く後悔するでしょう。
誰かに、あいつのことが好きなのかと言われて、何であんなやつなんか、なんて真逆のことを言ってしまうと大変です。
その言葉が、好きな人の耳に届き、その人を傷つけてしまうに違いありません。
大切な人を傷つけるぐらいなら、自分が恥をかいた方がいいと思いませんか。
わざわざ他人がやらないような、無謀なことをしてかく恥とは違います。
そういう恥は、自信のなさの結果ではなく、単なる思考能力の欠如の結果です。
ここで言う恥というのは、自分を低く見ることによる、自信のなさに起因したものです。
自分に自信がなくても、好きな人を傷つけないために、恥をかく覚悟をすれば、どうってことありません。
それに、自分の気持ちに正直に生きていれば、恥をかいたと思うことはありません。
正直に生きることに、堂々としていればいいのです。
自分の想いに正直に生きること。
これは立派なことであり、また自然なことであり、これからの社会で求められることです。
こんなことをすると恥をかくかもと思っても、自分の好奇心や興味が、そちらを向いているのであれば、思い切ってそちらへ一歩踏み出して下さい。
恥ずかしいという想いよりも、喜びの気持ちの方が、勝るに違いありません。
自分らしくいることの喜びを、知ってしまえば、恥ずかしいという想いは、消えてなくなるでしょう。