自分が自分でいられる所 その3
今いる所は、本当の自分の居場所ではない。
自分の居場所は、他の所にあるはずだ。
それがわかっていながら、多くの人は、自分の居場所を求めて、動こうとはしません。
その理由を尋ねると、いろいろ事情や大変さを並べ立て、自分が動かないことの正当性を示そうとします。
でも、そんな正当性を示した所で、自分の居場所を見つけられなければ、何の意味もありません。
本当はこうしたいのに、本当はこんな生き方がいいのに、本当はこんな場所が好きなのに。
そう思いながら、時間はどんどん無駄に流れて行きます。
しかし、自分があと一週間しか生きられないと、わかっていたらどうでしょうか。
自分に残された時間が、わずかしかないのに、それまでと同じように、自分にとって重要でないことで、無為に時間を捨てて行くのでしょうか。
もし、自分に何かをやりたい気持ちがあるのなら、そして、それができる可能性が、ゼロでないのなら、きっと全てを捨ててでも、そこに挑戦してみようと思うのではないでしょうか。
でも、自分がすぐに死ぬと思えばできるのに、まだ生き続けると思うとできない、というのは妙な話です。
本当にできないのであれば、自分がいつ死ぬことになろうとも、できないものはできないはずです。
本当はできるのに、やろうとしないのは、失敗したらどうしようという恐れが、原因かもしれません。
やって嫌な想いをするのなら、初めからやらない方がましだ、という諦めの理屈でしょう。
もちろん、どうするかはその人の自由であり、それに対して、いいも悪いもありません。
ただ、本当に居心地のいい居場所を求めるのであれば、それができない言い訳は、全て封じてしまう必要があるでしょう。
失敗しようが、人に笑われようが、そんなことはどうでもいいことです。
自分がやりたいことに、挑戦するのは自由ですし、やってはいけない理由はありません。
でも、誰かを傷つけたり、嫌な想いをさせるようなものは、だめです。
自分の自由を尊重してもらうのであれば、他の人の自由も認めてあげなければなりません。
誰かを傷つけるという行為は、その人から自由を奪うことです。
そんなことをすれば、自分も自由を奪われることになるでしょう。
周囲の人たちに認められ、尊重されてこそ、居心地よくなるのです。
自分のためにも、他人を傷つけるような真似はしないことです。
自分の自由も他人の自由も認め、互いを尊重し合える所こそが、本当に居心地のいい場所であり、自分が自分でいられる所です。
人によって求めるものは異なりますが、ここの部分だけは、誰にでも共通する重要な点です。
自分が居心地よくいるためには、他人の居心地も考慮する必要がある、ということですね。