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操られていませんか その1

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誰もが自分の意思、自分の考えで行動し、生活していると思っています。

でも、実際は誰かにうまく操作されているのかもしれません。

たとえば、新聞やテレビ、ネットなどで、体に障害のある人が、苦悩の人生を送る話が、紹介されたとします。

多くの人は、それを観ることで、障害のある人を気の毒に思い、自分よりも弱い人間なのだと考えるでしょう。

でも、実際は障害などものともせず、それも個性だとばかりに、いろんな分野で活躍する人たちがいます。

その人たちは、自分が劣った人間だとは、受け止めていません。

そんな人たちに対して、障害があることを気の毒がると、とても失礼になります。

 ※Erik SmitさんによるPixabayからの画像です。

人が誰かを弱い存在と見ている時、相対的に自身を高い位置に、置いているものです。

誰かを気の毒に思ったり、同情することによって、自分はそんな状況でなくて、よかったと思うのです。

そうではなく、困っている人がいれば、その人にも自分と同じような力があるのだ見て、その力を引き出すために、手を差し伸べるべきでしょう。

それは、気の毒にとか、可哀想にという意味ではありません。

立ち上がって、一緒に歩みましょうと、伝えているのです。

相手の辛い気持ちを理解することと、相手を低く見ることは別物です。

相手の気持ちを理解しつつ、相手が再び立ち上がれるように、励ましたり力を貸すことは、相手を自分と同等に見ているということです。

しかし、相手を低く見ることで、自分の位置を高めたい人は、その相手にずっと低い位置に、いてもらわなくてはなりません。

そういう人は、障害がある人をみると、すぐに気の毒な人と決めつけてしまいます。

また他の人にも、その人を気の毒だと思わせようとします。

そうすることで自分の考えの正当性を、確保するとともに、自分が安全な位置にいることも、確かなものにしたいわけです。

何も考えずに、こういう人の言葉に同調すると、知らない間にその人の考えを、正当化するために利用されます。

あるいは、そういう人の考えに、いつの間にか染まってしまうのです。

人間の可能性や、人間のあるべき関係性、あるべき姿を考えたなら、気の毒そうな人の中にも、その人の強さが見えるでしょう。

 ※un-perfektさんによるPixabayからの画像です。

地位やお金、名声や権力を持っている人が、すごい人だと思うのも、決めつけた見方なのかもしれません。

ある人物を崇拝する人は、その人が神さまであるかのように、崇めようとします。

また、その人を尊敬したり、崇めることを、他の人にも求めます。

それで、同じように崇拝する人が増えれば、自分はその人物の信者を増やした、特別な人間のような気持ちになるのです。

でも、実際はみんな同じ人間です。

いい面もあれば、悪い面もあります。

場合によっては、人に言えないような、ひどい一面を持っていることだってあるのです。

本当にその人がすごい人なのか、それはその人の、ある一面だけを見て言っているのではないか、そう考えてみると、どんなに優れた人でも、自分と同じ人間なのだと、わかると思います。

また、崇拝されることで、その人が困惑しているということも、見えて来るでしょう。


いいことにせよ、悪いことにせよ、人のことを決めつけて見ていないか、注意するといいと思います。

決めつけていたなという時は、自分が知らない間に、操られていたということがわかるでしょう。