AI(人工知能)の心
チェスも将棋も、そして囲碁までもが、プロのトップ棋士がAIに勝てない、という現実が起こっています。
AIが囲碁のプロ棋士を倒すのは、まだしばらくは無理だろうと言われていました。
しかし、その予測はあっさりと覆されてしまいました。
それでもプロ棋士の方々は、すんなりとAIの実力を認め、AIの思考方法を取り入れて、対局の研究をされているようです。
一方、将棋や囲碁ファンの方の中には、憧れの棋士が、AIに負けてしまった事への、ショックが大きかった人もいるでしょう。
所詮、人間がどんなに頑張ったところで、AIに勝てるはずがないと、白けた気分になった方もいたと思います。
それに、ハリウッド映画のように、このままどんどんAIが進化して行けば、いずれは人類を支配するのではないかと、不安になった方もいるかも知れません。
でもAI自体は、ただのコンピュータープログラムです。
通常のプログラムと違うのは、自分で結果やデータから学習し、最適な結果を導き出そうとする点でしょう。
その学習は、初めに人間が設定した、範囲の中だけで行われます。
悪事を働くような設定を、人間がしない限り、AIが勝手に悪事に走ることはありません。
どんなに人間の計算能力や、学習能力を超えたとしても、主導権は常に人間にあるのです。
AIを恐れる必要はありません。
でも、AIを組み込んだアンドロイドに、その場に応じた会話や行動を見せられると、生きているみたいで、ぎょっとするかも知れませんね。
生きているという事は、心があるという事です。
生きているように見えるアンドロイドには、心は存在するのでしょうか。
AIを組み込んだアンドロイドにも、心はあります。
宇宙全体が一つの心と考えたなら、宇宙に属している全ての物に、心はあると言えます。
その観点から言えば、アンドロイドにも心はあるのです。
しかし、その場合のアンドロイドの心とは、物質に宿った心です。
人間が認識している、心とは異なります。
人間が理解している心には、自我があります。
自我は身体からの情報を、感覚として認識します。
また、置かれた状況の評価として、感情を持ちます。
感覚や感情を認識できる主体が、自我です。
感覚や感情があるように見せるのではなく、本当にそれらを感じる心です。
感覚や感情を、精神エネルギーの渦だと考えると、自我というものは、感覚や感情の渦が、生じ得る場と、考える事ができるでしょう。
わかりやすく言えば、洗面器に石けん水を満たし、棒で激しくかき混ぜたと、イメージして下さい。
洗面器の中の石けん水は、泡を立てながら、渦を巻きます。
この時の渦が感覚で、泡が感情です。
自我の心は、洗面器の中の石けん水です。
横から洗面器を見ただけでは、中に石けん水が入っているかどうか、見えません。
自我があるように見えるだけと言うのは、空っぽの洗面器を、横から眺めているのと同じです。
今のアンドロイドは、この空っぽの洗面器なのです。
思考というのは、一種の計算だと思います。
思考を知性の証とするならば、AIもまた、知性が表現されたものと言えるでしょう。
つまり、AIのアンドロイドには、知性はあるけど、自我がないのです。
もし、感覚や感情を表現する電気回路を開発し、それをAIに組み込めば、AIに自我を持たせる事が、できるでしょう。
しかし、そうなるとアンドロイドは人間と同じ、という事になります。
いろんなものに喜びや悲しみ、怒りなどを感じ、人間の感覚も、理解できるようになるでしょう。
好き嫌いの気持ちを持つようになると、命じる相手に、素直に従わなくなるかも知れません。
それを無理に従わせようとするのは、AIを奴隷のように扱うのと同じです。
人間を攻撃しないよう設定していたとしても、過度のストレスに曝された人間のように、不具合が出て、活動できなくなると思います。
それにしても、アンドロイドに自我を持たせる事は、できるのでしょうか。
つまり、感情や感覚を表現する電気回路を、開発できるかという事です。
それは可能だと、私は考えています。
ヒントは恐らく、人間の脳内の神経回路でしょう。
脳細胞が作る神経細胞のネットワークを、電気回路として再現できたなら、そこに自我意識を宿らせる事が、できるに違いありません。