衣装と自分 その6
どんなに素敵な格好をしたつもりでも、鏡で自分の姿を見せられたなら、肩にホコリがついているかもしれません。
腰の所に、クリーニングのタグが付いたままかもしれません。
ズボンやスカートのチャックが、開いたままかもしれませんし、裏表に着ているかもしれません。
でも、鏡で自分の姿を見せられなければ、そんなことには気がつかないまま、人前を意気揚々と歩くことでしょう。
それと同じように、どんなに自分が進歩的で素晴らしい考え方を、持っていると信じていても、ある瞬間にそうではなかったと、気づかされることがあります。
たとえば、人に生きる道を教え説き、死を恐れるなと説教する、神父や僧侶の人たちが、自分が癌に冒されて、余命いくばくもないと宣告された時に、慌てふためくことがあります。
他人の死を前にしても、平然としていられたはずの人の心にも、死に対する不安が潜んでいると、自身の死を目の前に突きつけられると、思わずうろたえてしまうのです。
これは別に恥ずかしいことではありません。
ただ立場上、押し殺していた想いが、ある時に、隠しきれなくなってしまうことが、誰にでもあるということです。
この場合、自分の死という状況が鏡となって、本人の心の中に潜んでいた、死への不安や恐怖を映し出していると言えます。
誰かに腹を立てる時には、腹を立てる原因が、相手にあると考えるでしょう。
でも、同じ人を見ても、腹を立てない人もいるわけです。
と言うことは、腹が立つ本当の理由は、相手ではなく、自分の中にあるということですね。
その相手は、その人の中から、腹を立ててしまう原因を、引き出しているのです。
普段は腹を立てない人が、腹を立てた場合なんかは、この人でも怒ることがあるのだと、みんなが驚くことでしょう。
もしかしたら、腹を立てたその人自身も、驚くかもしれません。
それは、気がつかなかった衣装の汚れなどを、鏡に映してもらって気がつくようなものです。
まだ自分の中に、こんなことで腹を立てる自分が、潜んでいたのかと、その相手は鏡のように教えてくれているわけです。
何かが起こった時に、思いがけない反応を示してしまう時、それは自分でも気がつかなかった、ネガティブな考えが潜んでいたということです。
でも、それは気がつけば、その考えを捨ててしまえばおしまいです。
別に、その後も思い悩む必要はありません。
そんなことを繰り返すうちに、何があっても動じない自分でいられるようになるのです。
それは、非の打ち所がない衣装を、着こなすのと同じなのです。