原爆の話 その4
アメリカでは広島や長崎への原爆投下は、戦争を早く終結させるためには、必要な措置だったと信じている人が、少なくないと聞きます。
でも、何故そんなことを言うのか考えると、恐らく原爆の恐ろしさや悲劇を理解しているからこそ、罪悪感から逃れたいのだと思います。
日本だって第二次世界大戦について、アジアを西洋列強国から解放するためだと、正当化する人がいますが、それが事実であるならば、どこの国の人たちも、日本が来たことを大喜びしたでしょう。
でも、実際には主が西洋人から日本人に変わっただけのことで、現地の人たちが真に解放されて、自由と誇りを取り戻したわけではありません。
それと同じように、アメリカの人たちも、自分たちの国が恐ろしいことをしたとは思いたくありませんし、自分たちに正義があると信じたいはずです。
それを、お前の国が悪いと決めつけて責めると、余計に頑なな態度を取り続けて、互いを憎む気持ちは膨れるばかりです。
でも広島も長崎も、原爆を落とされたことで、アメリカを責めません。
ただ、原爆の恐ろしさ、戦争の恐ろしさを伝えて、どこの国であれ、同じことが二度と起きないようにと願っているだけです。
だからこそ、アメリカの人の中でも、広島や長崎を訪れて、一緒になって原爆反対の声を上げる人がいるのです。
相手を責めるのではなく、何が問題なのかを示して、共にその問題を解決しようとする、広島や長崎の人たちの姿勢は、本当に素晴らしいと思います。
みんな、憎しみはさらなる憎しみを生むことを、深く理解しているのです。
でも、彼らの訴えや活動を逆手に取り、原爆さえ使わなければ、戦争をしても構わないという考える者が出ると、これは困りものです。
でも、実際に戦争あるいは内戦などを起こしている所は、自分たちがしていることこそが正義だと信じているでしょう。
そんな争いの中で、多くの人間が死ぬような武器を使うと、大量破壊兵器だと言って文句を言います。
確かに、一発で多くの人が死ぬような兵器は、とても恐ろしく思えます。
しかし、原爆を含めた大量破壊兵器で殺されようが、ナイフで刺されて死のうが、人が殺されて死ぬことは同じです。
片方は使えば非難されて、もう片方は容認されるというのは、どう考えても矛盾です。
通常の社会においては、どんな形であっても、他人の命を奪ったり傷つけたりすれば、犯罪として扱われます。
ところが、戦争においては、数多くの敵を殺せば、英雄扱いです。
国を護るためとは言え、やはりおかしな論理だと思います。
要は戦争が起きないようにすることこそが、何より重要であり、そのためには相手の言い分をとことん聞くことしかありません。
お互いに困っている点をさらけ出し、また、どうすれば相手の問題を解決できるのかを、お互いが考えるのです。
どの国も、自国民を助けるという立場で、物事を進めようとします。
だから、そこで利害関係が生まれ、話がこじれてしまうのです。
しかし、思いやりの精神で考えるならば、相手の国民の状況こそを、理解して考えてやるべきでしょう。
お互いにその姿勢でいれば、問題が大きくこじれることはありません。
頑固に見えるリーダーがいても、どんなリーダーが、本当に称賛を浴びるのかということを、何度も話して理解してもらうのです。
この時に、自分の方が正しくて、話し合いが自分の方に有利になるという立場で、話を進めようとしてはいけません。
一人の人間として話すのです。
でも、そのためには人間というものが、どういうものであるのかを、理解しておく必要があります。
こう考えると、人間とは何か、世界とは何か、という問題を、国全体あるいは世界全体で考えて、これまでとは違う、新たな人間像や世界観というものを、確立することが重要だと言えるでしょう。