家にいたお父さん
梅雨が明けて、暑い夏がやって来た。
じめじめした雨の日が続かなくなったのはいいけれど、じりじりと焼けるような暑さはたまらない。ジワジワシャワシャワと競うように鳴くセミの声を聞いていると、よけいに暑くなってくる。
あぁ、汗で体がびしょびしょだ。早く帰って、ギンギンに冷えた麦茶が飲みたいよ。
「おい、たかし。ロボットはどこまでできてんだよ?」
クラスメイトのひろしが、ひたいの汗をぬぐいながら言った。
「さぁね。知らないよ」
暑いときに、めんどうな質問には答えたくない。ぼくはひろしの顔も見ないで歩いた。
ひろしはあきらめるつもりがないようで、教えろよと言いながら、ぼくのあとをついて来た。
「だって、知らないものは知らないんだもん。教えようがないよ」
ぼくは足を止めずに、ちらりとひろしをふり返って言った。ひろしはほっぺたを少しふくらませながら言い返した。
「うそつくなよ。知らないわけないだろ? 家で父ちゃんとしゃべるんだろがよ」
「それはしゃべるけどさ、お父さん、最近は帰りがおそいし、いつもくたくたでさ。ぼくとしゃべるひまなんてないんだ」
適当に答えただけなんだけど、ひろしは目をきらりとかがやかせた。
「帰りがおそくてくたくた? おい、それ、ロボットを造ってるからじゃないのか?」
「そうかもしれないけど、ぼくはお父さんから何も聞かされてないからわかんないよ」
「いや、絶対そうだな。そうか、毎日くたくたになるまで造ってるってことは、かなり進んでるってことだな」
「だから、わかんないってば」
そうだなんて言ってないのに、ひろしは楽しみだと一人で盛り上がっている。
しばらくすると、分かれ道になった。ひろしはそのまままっすぐ行くけど、ぼくはここで左に曲がる。これでロボットの話もおしまいだ。
じゃあなとぼくが手を上げると、ひろしはそれには返事をしないで、おいと言った。
「ロボットができたら、おれに一等先に教えてくれよな」
「わかったよ」
早く帰りたいぼくは、それだけ言うと、ひろしに背中を向けた。
「絶対だぞ。約束だからな」
後ろからひろしの声が追いかけて来た。ぼくはふり向きもしないで、もう一度手だけ上げた。流れた汗が目に入り、ぼくはあわてて目をこすった。だけど手も汗まみれで、目がよけいに痛くなった。
急いでズボンのポケットに手をつっこんだけど、何てこった、ハンカチを家に忘れて来ちゃった。しかたなくシャツの半そでで顔をこすろうとしたけど、あごがちょっとさわるぐらいで目はとどかない。
くそっと言いながら、ぼくは家へと急いだ。
「ただいま」
急いで玄関のとびらを開けると、ぼくは中にいるお母さんに声をかけた。あぁ、のどがからからだ。ランドセルを背中から降ろしながら、ぼくは靴をぬぎ捨てようとした。
だけど急いでるときって、案外うまくいかないものだ。靴はぼくの足にしがみついて、なかなかぬげてくれない。ぼくはいらいらしながら足下を見た。すると、そこに黒い革靴があった。
(あれ? お客さん?)
ぼくは革靴を観察した。何だか、お父さんの靴のような気がするけど、お父さんのわけがない。お父さんは仕事に出てるから、こんな時間にいるはずがないもの。だとすると、やっぱりだれかお客さんが来てるのか。
ぼくは静かに靴をぬぐと、ランドセルを玄関の床にそっと置いた。それから左手にあるリビングのとびらを、音を立てないように開けて中をのぞいた。
リビングの長いソファーの上に、だれかがあお向けに寝そべっている。だれ?
ぼくはその人を見て驚いた。ソファーに寝ているのはお父さんだった。
お父さんは横にはなっているけど、ねむっているわけじゃない。ぱっちり開いたお父さんの目は、じっと天井を見つめている。
ぼくは思わずとびらを大きく開けて、お父さんに声をかけた。
「お父さん、どうして家にいるの?」
お父さんは首だけまわしてぼくを見た。
「孝志か。おかえり」
お父さんはぼくの質問には答えないで、また天井をぼんやりと見上げた。
「ねえ、どうしてお父さんが、こんな時間に家にいるの?」
ぼくはとびらの前に立ったまま、もう一度たずねた。
「ちょっとな」
お父さんは天井をながめながらそれだけ言うと、あとはだまっていた。
しかたがないので、ぼくはリビングを通って台所へ行った。台所にはお母さんがいた。
「おかえんなさい。今日は早かったのね」
「あんまり暑いから、寄り道しないで帰って来たんだ。ねえ、お母さん。お父さんって、どこか具合が悪いの?」
お父さんに聞こえたらいけないかなと思って、ぼくは少し声をひそめてたずねた。
コーヒーをいれていたお母さんは、手を止めて言った。
「そうねえ。悪いって言えば、悪いのかな。でも、病気じゃないのよ。だから、タカちゃんは心配しなくていいの」
ぼくは台所から、もう一度お父さんの様子をうかがった。病気じゃないのに具合が悪いって、どういうことなんだろう。
「あなた、コーヒー、いれたけど」
お母さんはできあがったコーヒーのカップを、お父さんのそばへ持って行った。
「悪いな。そこへ置いといてくれ」
お父さんはちらりとお母さんを見ると、すぐにまた天井に目をもどした。ぼくはお父さんがながめている天井を見上げてみた。だけど、ただのいつもの天井だ。
ソファーの前にある小さなテーブルにコーヒーのカップを置くと、お母さんは台所へもどって来た。
「タカちゃん、のどかわいたでしょ? 麦茶飲む?」
お母さんの言葉で、ぼくはのどがかわいていたことを思い出し、何度も大きくうなずいた。
お母さんは冷蔵庫から麦茶を出すと、コップにそそいでくれた。待ちきれないぼくは、コップがいっぱいになると、すぐにそれを飲み干した。
「あらあら、よっぽどのどがかわいてたのね」
お母さんは笑いながら、もういっぱい飲むかと聞いてくれた。ぼくはうなずいて、コップを差し出した。
お母さんはもう一度麦茶をそそぎながら、宿題はあるのかとぼくに聞いた。あるよと言うなり、ぼくはまたがぶがぶと麦茶を飲んだ。
「ああ、やっと落ち着いた」
ぼくがコップを置くと、お母さんは早く宿題をかたづけなさいと言った。
「もう少ししたら、おやつを持って行ってあげるからね」
「今日のおやつは何かな?」
「今日は、ふかしイモよ。あなた、大好きでしょ?」
「ふかしイモ? やった!」
ぼくはチョコレートやポテトチップスより、ふかしイモが好きだった。
コンロの上を見ると、二つ重ねのなべからシュッシュと湯気がふき出ている。汗の代わりによだれが出そうなぼくに、お母さんは楽しげに言った。
「ほらほら、早く部屋へ行って宿題をすませなさい。宿題をしないで遊んでたら、ふかしイモができても食べさせないからね」
わかったと言って、ぼくはリビングへもどった。お父さんはさっきと同じ姿勢で天井ばかり見ていて、全然ぼくの方を見ようとしない。
玄関へ出ると、ぼくはとびらを閉める前に、もう一度お父さんを見た。お父さんは、やっぱり天井を見上げたままで、身動き一つしない。横にあるテーブルの上には、お母さんがいれたコーヒーが、さびしそうに湯気を立てている。
(お父さん、どこが具合悪いんだろう?)
気になったけど、お母さんは平気そうだから、きっとたいしたことはないんだろう。
ぼくはとびらを閉めるとランドセルを拾い、自分の部屋がある二階へ上がった。
部屋に入ると、ぼくはランドセルをベッドの上に置いた。それから自分もベッドの上に座ると、ランドセルを開けて、中から算数の教科書とノートを取り出した。
今日の宿題は分数の計算だ。学校で習ったことのおさらいだけど、分数はむずかしい。
ぼくは教科書を広げ、問題の分数の計算式をノートに書き写した。だけど、その先の答がわからない。しばらく考えてみたけど、やっぱりわからない。分数ってきらいだ。
ぼくは鉛筆を持ったまま、脇にかざってあるロボットのプラモデルに目をやった。
このプラモデルはお父さんが、ぼくの誕生日に買ってくれたものだ。作り方がわからない所は、お父さんが手伝ってくれた。そのときお父さんは、子供のころにテレビで見たロボットやヒーローの話を、いっぱいしてくれたんだ。
お父さんの仕事は機械を造る仕事だ。何の機械を造るのかはわからない。でもあのときにお父さんは、ぼくが好きなロボットを造ってやるって約束してくれたんだ。プラモデルなんかじゃない、本物のロボットさ。
ぼくはあんまりうれしすぎて、やったやったと何度もさけんでとびはねた。
次の日、学校へ行くと、ぼくはクラスのみんなにロボットの話をして自慢した。みんなはぼくをうらやましがって、ロボットができたときには見せて欲しいってせがんだんだ。
それまで人に自慢できるものなんてなかったから、ぼくはとっても気分がよくて鼻たかだかだった。
みんなからどんなロボットかと聞かれたときには、いろんな武器や能力について説明した。そんなことは一言もお父さんは言ってないけど、ぼくが好きなロボットを造るんだ。ぼくが好きなように説明したって、うそをついたことにはならないはずだ。
だけど、今日のお父さんの様子を見ると、何だかちょっと不安になった。ぼくはえんぴつを持ったまま、お父さんのことを考えた。
仕事に行ったはずなのに、こんな時間に家にもどってるなんて絶対におかしいや。それに、あの魂がぬけてしまったみたいな感じもふつうじゃない。いつものお父さんはもっと明るくてしゃきっとしてるんだ。
これは何かがあったんだと思ったぼくは、もしかしたらロボットのことで、仕事場の人ともめたんじゃないかと考えた。
ぼくのためにロボットを造っていたのが見つかって、それで社長さんからきつくしかられたのかもしれない。きっと、そうだ。だからこんな時間に家にもどって来て、あんな感じでぼーっとしているんだ。
ぼくはあわてた。だって、お父さんがこのままロボットが造れなくなったら、ぼくは学校でうそつきって言われちゃう。そうなったら、学校へ行けなくなってしまうよ。
「どうしよう?」
ぼくは立ち上がると、お父さんの所へ行こうと思った。何とかしてロボットを造ってもらうよう、お父さんにたのむつもりだった。
ぼくが部屋を出ようとしたら、お盆を持ったお母さんがそこにいた。それで、ぼくはもう少しでお母さんとぶつかりそうになった。
お母さんは最近太りぎみだから、ろうかに立っていられると、かべが立ちはだかっているみたいだ。だからおどろいたけど、お母さんの方もおどろいたみたいだった。
お母さんはお盆にのせたジュースと、ふかしイモを落としそうになった。ぼくはあわてて手を差し出して、お母さんが持っていたお盆をおさえた。
何とかお盆をひっくり返さずにすんだお母さんは、ほっとしたような顔で言った。
「何をそんなにあわててるの? トイレ?」
「ちがう。お父さんの所へ行くの」
「お父さんの所に? どうしたの? 宿題がわからないの?」
「宿題もわからないけど、そのことじゃなくて、お父さんにロボットを造ってもらうように、たのみに行くの」
「ロボット? 何それ?」
「お父さんがぼくに造ってくれるって約束したんだ」
お母さんはぼくの部屋をのぞきこんで、机の上にあるロボットのプラモデルを見た。
「ロボットって、あれのこと?」
「ちがうよ。あんなのじゃなくて、本物のロボットだよ」
「本物のロボットのプラモデル?」
「ちがうってば!」
お母さんには全然話が通じない。やっぱり女には男の話はわからないんだ。ぼくはお母さんをおしのけて、お父さんの所へ行こうとした。
すると、お母さんはぼくを呼び止めて、部屋にもどるようにと言った。
「宿題、まだ終わってないんでしょ?」
「それは、そうだけど……」
「だったら、ちゃんとすませなさい。それに、こうしておやつを持って来たんだから、これも食べないとね」
ふかしイモを見せられてつばをのみこんだぼくに、お母さんは続けて言った。
「それにね、お母さん、タカちゃんにお話があるの」
「話って何?」
「ちょっと大事な話なの」
「大事な話?」
「そうよ、大事な話」
お母さんは部屋にもどるようぼくをうながした。ぼくはしかたなく部屋に入ると、机のイスに座った。
お母さんはお盆を机の上に置くと、広げてあったノートをながめた。
「今日の宿題は、分数の計算なの」
大事な話があるって言ったくせに、お母さんは何だかはぐらかしているみたい。お父さんの所へ行くのを引き止められたので、ぼくはちょっとイライラしていた。
「大事な話って何なの? 早く言ってよ」
口をとがらせるぼくを、少しの間じっと見つめたあと、お母さんは言った。
「お父さんの様子が変なの、タカちゃん、気がついたでしょ?」
「お父さん、具合が悪いんでしょ?」
ぼくはお父さんの具合が悪い理由を知っている。それを説明しようとしたら、お母さんの方が先に、実はね――と言った。
「お父さんね、お仕事できなくなっちゃったの」
やっぱりな。ぼくの思ったとおりだ。
「知ってるよ。ロボットを造らせてもらえなくなったんでしょ?」
「ロボット? そうじゃないの。お父さんね、今まで働いてた所をやめたの。だからね、明日から何も仕事がないの」
「ロボット以外の仕事も?」
「ロボットのことは、お母さん、わからないけど、お父さん、お仕事をやめたから家にいるのよ。それでね、あんな風にぼんやりしてるの」
ぼくはお母さんが言っていることが理解できるまで、少し時間がかかった。だって、頭がわかりたくないって言ってるから。でも話がわかると、ぼくはおそるおそる言った。
「もしかして、お父さん、仕事をクビになったの?」
「はっきり言うとね、そういうことなの。だから、タカちゃんもね、お父さんによけいなことを言っちゃだめよ。お父さん、今は何も考えられないから」
お父さんがあんな風になったのは、ロボット計画がだめになったせいではなかった。だけど、結果的にロボットは造れなくなったということだ。
それはつまり、ぼくはクラスのみんなに、うそつき呼ばわりされるってことだった。