お母さんがいない家
「安静が必要ですね。しばらく入院して、様子を見ましょう」
病院の女医の先生は、お母さんの診察が終わったあと、お父さんにそう説明した。
お父さんは緊張した顔で、先生に食いつくみたいにして言った。
「先生、家内とお腹の子供はだいじょうぶなんですか?」
(おなかの子供?)
ぼくは、お父さんの言葉の意味がわからなかった。
「今のところはだいじょうぶです。でも、先のことはわかりませんから、しばらくの安静が必要なんです」
わかりましたと、お父さんはうなだれるように頭を下げた。
先生はぼくを見ると、にっこりほほえんで言った。
「お母さんのこと、心配しなくていいからね。しばらくお母さんがお家にいなくてさびしいと思うけど、あなたもお兄ちゃんになるんだから、がんばるのよ」
(お兄ちゃん?)
先生が何の話をしているのかわからない。たずねようとしたけど、先生はさっと背中を向けて行ってしまった。
わけがわからないまま、ぼくはお父さんにお母さんの所へ連れて行かれた。
お母さんはうでに点滴をしながら、ベッドの上に横になっていた。ぼくたちを見ると、お母さんは力なく笑った。
「しばらく入院しなさいだって」
「さっき先生から聞いたよ」
お父さんはお母さんの手をにぎると、すまないと言った。
「何で、あなたが謝るの? 心配かけて謝らないといけないのは、あたしの方でしょ?」
「仕事のことで心配かけたから、こんなことになったんだ。全部ぼくのせいだ」
「そんなことないってば。あたし、何も心配してないから。これまでの仕事がだめになったってことは、新しい仕事があなたを待ってるってことでしょ? あたし、全然心配してないから、あなたは自分がやりたいことをじっくり探せばいいのよ」
お父さんは目に涙をうかべながら、だまって小さくうなずいた。何だか感動的な場面だけど、ぼくは自分が忘れられているみたいな気分だった。
でも、お母さんはぼくに顔を向けると、心配させてごめんねと言ってくれた。それでようやく、ぼくは質問をすることができた。
「ねえ、おなかの子供って、何のこと?」
お母さんは少しはずかしそうに笑うと、家でその話をするつもりだったのよと言った。
「お母さんのお腹にはね、赤ちゃんがいるの」
「赤ちゃん?」
「そうよ。あなたの妹よ」
「妹?」
ぼくはおどろいた。いつの間にお母さんのお腹に妹ができたんだろう?
最近、お母さんは少し太ったなとは思っていた。だけど、お母さんのお腹に赤ちゃんがいたとは思いもしなかった。
ぼくがじっとお母さんのお腹を見つめていると、お母さんはくすりと笑った。
「信じられないみたいね」
「いつ産まれるの?」
「まだ何ヶ月かあとのことよ。お正月ごろかな」
「お母さんは、それまで入院してるの?」
「それまでじゃないと思うけど、しばらくは動いちゃいけないのよ。だから、あなたやお父さんには不便をかけると思うけど、だいじょうぶかな?」
「だいじょうぶさ。孝志はもう六年生だし、家のことはぼくがやるよ。うまい具合に、ぼくは家にいるからね」
ぼくが返事をする前に、お父さんが先に答えた。な、とお父さんに返事をうながされてから、ぼくはだまってうなずいた。
お母さんはうれしそうに笑ったあと、まじめな顔でお父さんに言った。
「だからって、自分の仕事を探すのをやめたりしないでね。あたしのせいで、せっかくのチャンスを逃がしたら、あたし困るもん」
「そんなことはしないって。だいじょうぶ。ちゃんと仕事探しもするから」
お父さんは明るく言った。それで、お母さんも安心した様子だった。
でも、病院をはなれると、お父さんの表情は暗くなっていた。
晩ごはんはお父さんが作ってくれた。その代わり、朝ごはんはぼくの役目だ。
お母さんがいたら、朝はみそ汁とごはんに決まっていた。あとはタマゴ焼きとか、焼きジャケとかに納豆とおつけもの。
でも、ぼくはそんなに用意できないから、今の朝ごはんは、トーストと牛乳と目玉焼きだ。ぼくだって目玉焼きぐらいは、がんばったら作れるんだ。
それと、お父さんは牛乳じゃなくてコーヒーだ。インスタントだけど、これもぼくがいれてあげる。
お父さんが作る晩ごはんは、だいたいが肉と野菜のいためものだ。みそ汁もあるけど、これはインスタント。お母さんみたいにはいかないみたい。
夜はごはんをたくけれど、ときどき水かげんをまちがえて、おかゆみたいになったり、固くてぼそぼそになったりする。
お父さんは仕事を探しに出るので、たまに帰りがおそくなる。そんなときは、スーパーのお弁当を買って来る。
洗たくはお父さんがしてくれるはずだった。だけど、よく洗い忘れたり、干した洗たく物を取りこむのを忘れたりした。
せっかく洗ったのに、雨が降って来て干せないこともあった。そんなときは、部屋の中に干すしかないけど、ちゃんとかわかないし何だかくさい。
ぼくとお父さんの生活はそんな感じで、お父さんはぼくといっしょにいるときは元気そうに見せていた。でも、本当はそうじゃなかった。
ある日、晩ごはんを食べたあと、ぼくは二階へ上がった。でも学校からの連絡を、お父さんに見せるのを忘れていたので、ぼくはもう一度下へ下りた。そしたら、お父さんは食事のテーブルの所に座ったまま、両手で頭をかかえてうなだれていた。
ぼくはだまって二階へもどると、わざと大きな声でお父さんを呼びながら下へ下りた。すると、お父さんは笑顔を見せて、どうしたと言った。その笑顔が何だかぼくは悲しかった。
ぼくが学校からの連絡を見せると、お父さんは困ったなとつぶやいた。
学校の連絡というのは参観日のことだった。その日、お父さんは仕事のことで約束があるそうだった。
参観日に行けそうにないと謝るお父さんに、いいよいいよとぼくは言った。
もし、お父さんが学校へ来たら、きっとクラスのみんながお父さんをつかまえて、ロボットのことを聞こうとするにちがいなかった。そうなったら困るから、お父さんが来られないのは、ぼくとしては大歓迎だった。
それに元気がないお父さんに、無理なことをしてもらいたくなかった。
「おい、たかし。おまえの父ちゃん、どこにいるんだよ?」
思ったとおり、後ろの席のひろしが、ぼくの背中をえんぴつでつついて来た。
残念でした、ぼくのお父さんは来ないのさ。ぼくは心の中で、ひろしに舌を出してやった。
今は国語の授業で、先生が順番にみんなを当てて教科書を読ませている。先生は男だけどこわくはない。でも目立ったら当てられるから、じっとしていないといけない。
ひろしはしつこくぼくを呼んだ。でも、ぼくはひろしを無視し続けた。後ろを向いて先生に当てられたら大変だ。それで、背中はずっとつつかれっぱなしだった。しまいにはえんぴつの先を背中にさすので、さすがにぼくも後ろをふり返った。
「痛いだろ。やめろよ。先生にしかられるぞ」
ぼくが小声で文句を言うと、ひろしはようやくつつくのをやめた。
そのとき、ぼくの目に信じられないものが見えた。それは、お父さんだった。
走って来たのだろうか。お父さんは肩で息をしながら、教室の後ろの入り口から入って来たとこらしい。他の親たちに何度も頭を下げながら、お父さんはきょろきょろと教室の中を見まわした。きっとぼくを探しているんだ。
ぼくは思わず顔を前にもどした。お父さんに見つかるわけにはいかなかった。だけど、後ろが気になって、ぼくはそっと顔を後ろに向けた。そしたら、お父さんとばっちり目が合ってしまった。
お父さんはうれしそうに、ぼくに大きく手をふった。ぼくはあわてて前を向いたけど、後ろの方でくすくす笑う声がする。お父さんが他の親たちに笑われたにちがいない。
「おい、あれがおまえの父ちゃんか?」
後ろからひろしが言った。ぼくが聞こえないふりをすると、ひろしのやつ、またえんぴつで背中をつついた。痛いけど、相手なんかするもんか。
背中のいらいらが、お父さんへのいらいらと重なって、ぼくは腹が立った。
(くそっ、何でお父さんが来るんだよ! 来ないって言ってたじゃないか!)
またひろしが背中をつついた。がまんができなくなって、ぼくは後ろを向いた。
「やめろよ、しつこいぞ!」
小声でひろしにどなると、ひろしは前を指差して言った。
「たかし、先生が呼んでるぞ」
「え?」
あわてて前を向くと、先生があきれたような顔で、東山くんと言った。
「授業中は集中しないといけませんよ。それじゃあ、次を読んでみてくれるかな」
みんなに笑われて、ぼくは固まってしまった。どこを読むのかもわからない。
おろおろしていると先生がそばへ来て、ここですよと指で示してくれた。ぼくは急いで読もうとしたけど、舌が言うことを聞いてくれなくて、何度も読みまちがえた。
お父さんの前ではじをかいてしまった。こんなかっこ悪いとこなんか、お父さんに見られたくなかった。だけど元はと言えば、参観日に来ないって言ってたのに、来たお父さんが悪いんだ。お父さんさえ来なければ、ぼくがはじをかくことはなかったんだ。
授業が終わると、後ろに立っていた親たちは、それぞれ自分の子供の所へ移動した。ぼくのお父さんもぼくの所へ来ようとしたけど、ぼくはその前に教室を飛び出した。
横目に困った様子のお父さんの姿が見えた。だけど、ぼくはそのままろうかへ出て、教室へはもどらなかった。
ただ、クラスのみんながお父さんにロボットのことを聞かないか、それだけが心配だった。もし聞かれてお父さんが本当のことを話したりすれば、ぼくは大うそつきになってしまう。そうなったら、ぼくは学校へ来られなくなる。
お父さんが学校へ来たことだけでも腹が立つのに、もしみんなにロボットのことをしゃべったら、ぼくは絶対にお父さんを許さないと思った。
家に帰ると、お父さんはいなかった。
文句を言ってやろうと思っていたのに、いないだなんて。そのことがよけいにぼくをおこらせた。
ぼくはいらいらして、リビングのソファーをけとばした。それから二階へ上がると、ランドセルを思いっきりベッドの上にたたきつけた。
ベッドから床に落ちたランドセルは、ふたがちゃんと閉まっていなかったらしい。ふたが開いて中身が床に散らばった。その様子を見て、ぼくは声を上げて泣いた。
何を泣いているのか、自分でもよくわからなかった。とにかくいらいらするし、ちょっとしたことに腹が立った。
こんな気持ちになるのは、きっとお母さんがいないからだ。お母さんがいたら聞いてもらえたことも、今は聞いてもらえない。ごはんだって、お母さんが作ってくれるごはんが一番だ。お母さんがいてくれれば、それだけで安心するし、お母さんの笑顔が見たい。
ぼくはお母さんに会いたかった。だけど病院が遠いので、毎日お母さんの顔を見に行くことはできない。学校が休みの日に、お父さんに連れて行ってもらわないと、お母さんには会えなかった。
だけど、会ったとしてもお母さんはそんなに動けないし、何だか昔のお母さんじゃないみたいだった。だって、お母さんのお腹には、ぼくの妹がいるから。
お母さんは妹を守ることでいっぱいだ。ぼくにかまってなんかいられない。こんなのだったら、妹なんかいらないや。
だいたい、ぼくは妹が欲しいだなんて一言も言ってない。なのに、何でお母さんは妹なんて産むんだろう。お母さんには、ぼくだけのお母さんでいて欲しかった。
「お母さん、早く帰って来てよ」
床の上でだらしなく口を開けたランドセルを見ながら、ぼくは鼻をすすり上げてつぶやいた。
その日、お父さんが家に帰って来たのは、晩ごはんの時間になってからだった。
どうせ、いつものスーパーのお弁当だ。正直に言えば、スーパーのお弁当にはあきあきだった。
お父さんが下から呼んでも、ぼくは下りて行かなかった。参観日に来たことでおこっているところを、ちゃんと見せておくんだ。うそをつくのは悪いことなんだって。
早く下へ行って何か食べようよと、お腹が何度もぼくをさそった。それでも、ぼくは下りなかった。でもしばらくすると、さすがにがまんができなくなった。
ぼくはできるだけふきげんな顔をして、リビングへ下りて行った。すると、お父さんはソファーの上にたおれこむようにしてねむっていた。
テーブルの上には、お弁当が一つだけ置いてあった。中には、大きなハンバーグが入っている。いつも買うのよりもかなり上等だ。
台所へ行くと、流しのはしっこにあるゴミ入れに、カップラーメンの容器があった。お父さんが食べたみたいだ。
どうしてお父さんはお弁当を買わずに、カップラーメンにしたんだろう。カップラーメンが食べたかったのかな。いや、そうじゃない。きっとお父さんは、お金を節約したんだろう。
お父さんには仕事がないのに、お母さんの入院にはお金が必要だ。だから、ぼくにだけ上等のお弁当を買ってくれたにちがいない。
じっとカップラーメンの容器を見ているうちに、ぼくは自分に腹が立った。
お父さんは大変なのに無理をして授業参観に来てくれたんだ。それなのに、ぼくはお父さんにいやな態度を取ってしまった。今だって、お父さんはぼくの分だけお弁当を買ってくれたのに、ぼくは一人で勝手に腹を立ててすねていた。ぼくは自分がきらいになりそうだった。
「お父さん、今日はごめんね。参観日、来てくれてありがとう」
寝ているお父さんに声をかけたけど、お父さんは全然気がつかないまま、スースーと寝息を立ててねむっている。
ぼくはお父さんの部屋からふとんを運んで来て、そっとお父さんにかけてあげた。それから音を立てないようにしながら、お父さんが買って来てくれたお弁当を食べた。