見つけた!
「みんな元気みたいだね」
わたしは明るさを装いながら、風船たちに声をかけた。でも何だか様子がおかしい。
風船たちはわたしにぶつかるたびに元気を分けてくれるけど、いつもの親しみのようなものが伝わって来ない。まるで、ぶつかったから仕方なしに元気をくれているだけみたいな感じがする。
わたしはぶつかって来た風船を抱き留めると、わたしが誰だかわかるかと尋ねてみた。すると風船は素っ気なく答えた。
――ワカンナイ。
え?――わたしは面食らった。わたしはみんなの神さまなのに忘れちゃったの?
抱き留めていた風船を手放すと、わたしは次の風船をつかまえて同じ質問をした。しかし、返って来た返事はさっきと同じだった。
何度か同じことを繰り返したけど、やっぱり風船たちの返事は変わらない。みんな、わたしのことを忘れてしまったようだ。
わたしは自分の体が他の誰かに乗っ取られたのではないかと疑った。
兄貴や久美のお母さんと一緒にいた部屋で、わたしは突然めまいを覚えた。ひょっとしたらあのときに何者かが、わたしの体を乗っ取ったのかもしれない。それで身体のわたしがその危機を伝えようとして、わたしをこの世界に引き込んだのか。そうだとすれば、この大変なときにとんでもないことだ。
前にこの世界を支配していた偽の神の正体は、幼い頃のわたしの心だった。だから風船たちは、わたしのことも神として認めてくれた。でも今回は、わたしは神として認めてもらっていないようだ。それは新たにこの世界を支配した者が、わたしとはまったく別の存在ということになる。
わたしは焦った。久美を助けねばならないのに、体を乗っ取られてしまったのでは何もできない。久美どころか自分さえもが危険な状態にあるわけだ。
どうしようと思っていると、ふわふわとビーチボールが近づいて来た。わたしの傍まで来ると、ビーチボールはクラゲに姿を変えた。
――オ前、ヨソモノ。ドッカラ来タ?
「何言ってんの? わたし、あんたたちの神さまよ? 忘れたの?」
クラゲの失礼な態度に、わたしは思わず強い口調で言い返した。するとクラゲは足の一本を、わたしの方に向けた。
「ちょっと、やめてよ! わたしは――」
ひゅっとクラゲの足が飛ぶように伸びて来た。わたしは反射的に両手で足の先を払いのけた。前とは違って、身体は軽くて素早く動ける。周りも水と言うより空気みたいだ。
すぐに他の足が攻撃して来たけど、同じように避けられた。さらに続く攻撃をかわしながら、わたしは自分の動きのよさに驚いた。以前のわたしだったら、絶対クラゲに食べられていただろう。
わたしは水泳は苦手だったけど、宙を泳ぐようにしてクラゲから離れた。身体はスイスイ前に進み、あっと言う間にわたしはクラゲを後ろに引き離した。
以前に動きが鈍かったのは、わたしの身体が死にかけていたからだろうか? よくわからないけど、きっとそうだと思う。それにしても、みんなどうしたのだろう? それに、この風が運んで来る悲しみはどういうことなのか?
確かに、わたしは久美を心配して悲しんでいる。でも絶望してるわけじゃない。きっと救えると信じている。なのに、この風が伝える悲しみは絶望に満ちている。これはわたしの悲しみじゃない。やはり、わたしとは別の何者かが、わたしに代わってこの世界を支配しているのに違いない。
また水晶たちの所へ行って、その向こうにいる新たな偽の神と対決するしか、この世界を取り戻すことはできないだろう。しかし、どうすれば水晶たちの向こうへ行けるのだろうか。
前のように偽の神が自分の一部であったなら、わたしが神の座へ行くことは可能だと思う。だけど、今神の座に居座っているのが、わたしとはまったく関係のない者であれば、わたしはそこへ行き着くことはできないだろう。
わたしは途方に暮れた。偽の神と対峙できなければ、対決などできない。それはこの世界を取り戻せないということだ。それはわたしにとっては、生きたままの死を意味する。そして、ここまで来て久美を助けることができないということでもあった。
急がなければ。何とかしなければ。そう思っても、焦ったりうろたえたりするばかりで名案は浮かばない。とにかく水晶たちの所へ行かなければどうしようもないけど、そのためには球の大蛇たちに頼まなければならない。でも、あの大蛇たちにしたって、今のわたしは神さまじゃないだろうから、言うことを聞いてもらえるとは思えない。
それでも他に方法は思いつかない。とにかく急がないと、わたしには時間がない。
わたしは浮かび上がると、悲しみの風が向かう先へ泳いで進んだ。
風船たちをどんどん追い抜いて行き着いたのは、あの炎を吐く双頭の大蛇たちの所だ。声をかけてみたけど、やっぱり大蛇たちはわたしが誰だかわからない。だけど、わたしは気にせずに先を急いだ。まず会わねばならないのはこちらの大蛇ではなく、球になった大蛇たちだ。
前と違って、今回は大蛇の胴体を通過するのに、それほど時間はかからなかった。大蛇の森を出ると、いよいよ球の大蛇たちだ。
わたしは青くなった風船たちをかき分けるようにしながら先を急いだ。そして巨大な三枚歯が目に入ると、球の大蛇たちに向かって叫んだ。
「ねぇ、わたしのことがわかる? わたしをまた白ヘビたちの所へ送って欲しいの。神さまのいる所よ!」
三枚歯はどんどん近づいて来るけど、球の大蛇たちからの返事がない。やっぱり、わたしが誰かがわからないとだめなのか。
わたしは何度も球の大蛇たちに呼びかけながら、三枚歯をくぐり抜けた。途端にあの激しい圧力と絶望的な悲しみが、わたしに襲いかかって来た。
いつものようにぐちゃぐちゃにされたわたしは、外へ吐き出されると、落胆と動揺に揉まれながら虹の森に着いた。
七色の光に満ちた森はとても美しかった。イガグリなど一匹も見当たらず、まるで楽園のような雰囲気だ。だけど、わたしはもうこの森の神ではない。今のこの世界では、わたしは単なる侵入者に過ぎず、誰の協力も得られない。それどころか敵としてクラゲたちから攻撃されるのだ。
今も森の美しさに慰めを求めていたのに、いつの間にか現れたクラゲたちが、わたしに足を伸ばして来た。
間一髪でクラゲの足をかわしたわたしは、森の中を泳いでクラゲたちから逃げた。
その傍らで風船たちはわたしになど興味がない様子で、夢中になって木にできた白い実を食べている。だけど、まったく普通の状態かと言うと、そうではないと思う。だって、この世界は悲しみに満ちているから。
わたしはそのことに疑問があった。どうしてこの世界を支配している者は、悲しんでいるのだろう? この世界を奪っておきながら悲しんでいるというのだろうか。
そもそも神の座である水晶たちの向こう側には、神以外は入れないはずだ。神ではない者が神を押しのけてこの世界を奪うことなど不可能なのに、わたしはこの世界を奪われた。どうして?
謎に苦しむわたしの頭の中で、発想の転換だと兄貴が囁いている。発送の転換? わたしは何か思い違いをしているのだろうか?
そう考えたとき、まさかとわたしは思った。
わたしは自分がこの世界の神だと考えていた。だけど、それが思い込みだったとしたらどうだろう。
わたしと同じように、他の人にだって風船たちの世界があるはずだ。見た目が似ているから間違えただけで、ここは最初から他人の世界なのかもしれない。
そう考えると、風船たちがわたしをわからないのも納得が行く。わたしはただの侵入者に過ぎないからだ。じゃあ、だとしたら、この世界は誰の世界なんだろう? それに、どうしてわたしは他の人の世界に迷い込んだりしたのか?
わたしは気持ちを落ち着かせ、どうしてこうなったのかを考えた。
確か、わたしは兄貴と久美のお母さんと三人で、久美たちが泊めてもらった部屋にいたんだ。そこでおにぎりを食べたあと、何にもすることがないし何もできなくて、それでどうしたっけ? えっと……、そうだ。カーディガンだ。久美のカーディガンを見つけて、わたしはそれを胸に抱いて、久美に戻って来てって言ったんだ。
わたしは、はっとなった。あのとき、わたしは久美のカーディガンに一本の髪の毛を見つけた。そして、その髪の毛にあなたの神さまに会わせてってお願いした。そしたら急にめまいがして、そのあと、この世界に入り込んだんだ。
久美の髪の毛に、あなたの神さまに会わせてってお願いしたら、わたしはこの世界に来た。これって、もしかして……。
――久美の世界だ!
そうか、そうだったのか。
ここが久美の身体の世界であるということは、久美はまだ生きているってことだ。だけど、この絶望に満ちた悲しみは不吉だ。
わたしは久美に自分が無事であることを伝えねばと思った。それがわかれば悲しみはいくらか癒えるに違いない。
気配を感じて振り返ると、クラゲがいた。攻撃をしようとしているのだろう。足先をわたしの方へ向けている。わたしは逃げずにクラゲに言った。
「あなた、この世界の神さまが悲しんでるのわかってる?」
クラゲは黙ってわたしに足を伸ばして来た。その足を避けながら、わたしはもう一度言った。
「あなたは神さまのために動いてるんだろうけど、今本当にすべきなのは、神さまを悲しみから救ってあげることじゃないの?」
――ヨソモノガ、何ヲ言ウ!
クラゲはさらに攻撃を続けた。わたしは逃げながら周りにいる風船たちにも叫んだ。
「あなたたちもだよ! みんなの神さまがこれだけ悲しんでるのに、あなたたち何もしないの? このままでもいいの?」
――ダッテ、ドウスレバイイノカ、ワカンナイモン。
風船たちの声が返って来た。反応があるということは、何とかなるかもしれない。わたしは希望を感じながら話しかけた。
「だけど、神さまが泣いてたら、あなたたちだって悲しくなるでしょ?」
――悲シイヨ。
「神さまを助けたいって思わない?」
――助ケタイ。
「わたしも、あなたたちの神さまを助けたいの。だから、力を貸して!」
――ドウスルノ?
「この風でみんなを動かしてる人がいるでしょ? その人にね、わたしを神さまの所まで運ぶように、みんなでお願いして欲しいの」
――神サマ、助ケテクレルノ?
「そうよ。だって、あなたたちの神さまは、わたしにとっても大切な人だから」
突然ゼリー状の物が、わたしの上に覆いかぶさった。あっと思ったときには遅かった。わたしはクラゲの足に捕まってしまった。風船たちを説得してたから油断をした。
わたしは逃げ出そうと藻掻いたけれど、ゼリーの中は動きにくい。完全にわたしを呑み込んだクラゲの足はしゅるしゅると縮んで、わたしと一緒に胴体の中へ収まった。そこにはあの口だけの生き物がうじゃうじゃといた。
クラゲの体を通して、外の様子が見えた。ゼリーの中からだから、風船たちがゆがんで見える。そのゼリーの中を、口だけの生き物が集まって来た。
もうおしまいか。わたしは久美を助けられなかったし、自分もこのまま死んでしまうのか。
何故か恐怖はなかった。ただ悲しみだけがあふれ出して来る。そのときゼリーの外から声が聞こえた。
――助ケテ!
――神サマヲ、助ケテ!
風船たちの声だ。
――オ願イ、神サマ、助ケテ!
――オ願イ、助ケテ!
それは大合唱とも言えるものすごい声だった。近くの風船たちだけでなく、遠く離れた風船たちもが叫んでいるようだ。
――助ケテ!
――神サマヲ、助ケテ!
風船たちが懇願しても、わたしの命は風前の灯火だ。だけど、口だけの生き物は近くまで来たものの、一向に襲いかかって来ない。と思ったら、わたしを包んだゼリーが動き、わたしはクラゲの胴体から外へ向かって移動した。
わたしを包んでいたゼリーが服を脱ぐように上に外れ、外へ伸びていたクラゲの足は、再びしゅるしゅると胴体に収まった。
「わたしを助けてくれるの? どうして?」
わたしはクラゲに尋ねた。いや、今は足がないからビーチボールか。ビーチボールは丁寧な言葉で答えてくれた。
――アナタガ、神サマヲ、想ウ気持チ、ヨクワカリマシタ。
「ほんと?」
――ホント?
そうだ、この世界の生き物たちには嘘がないから、本当という言葉は意味をなさない。
「いいの。それより、助けてくれてありがとう」
わたしはビーチボールを抱きしめた。ビーチボールからもうれしい気持ちが伝わって来る。
――ワタシカラモ、オ願イシマス。ドウカ、神サマヲ、助ケテ下サイ。
わたしはビーチボールに改めて感謝を伝え、行こう!――と風船たちに呼びかけた。向かう先は球の大蛇たちの所だ。
宙に浮かんだわたしは、風船たちを追い越しながら先へ急いだ。それでもわたしを包む風船たちの声は変わらない。すべての風船たちが、わたしを応援してくれている。
――コノ人ヲ、神サマノ所ヘ!
――コノ人ニ、神サマヲ、助ケテモラウノ!
巨大な二枚歯が見えた。球の大蛇だ!
「お願い! わたしをあなたたちの神さまの所へ運んで! わたし、あなたたちの神さまを助けたいの!」
風船たちの大合唱の中、わたしは懸命に球の大蛇に叫んだ。だけど、やっぱり大蛇からの返事はない。
二枚歯をくぐり抜けたわたしは、例によってぐちゃぐちゃにされながら、自分を神の元へ運ぶよう大声で叫んだ。
球の大蛇から吐き出されたわたしは、自分で泳ぐ力もなく、ぐるぐる回転しながら流されて行った。周囲では風船たちが、神サマヲ助ケテ!――と叫び続けている。
やがて風船たちの声は小さくなり、わたしは白いトンネルに流れ着いた。そう、ここはあの白ヘビたちのトンネルだ。球の大蛇たちは返事もしてくれなかったけど、結局はわたしの願いを聞いてくれたようだ。風船たちの応援が効いたのか、大蛇たちも神さまを助けたいと思ったのか。たぶん、その両方なのだろう。
一緒にトンネルに入った風船たちに、この先に神さまがいるのかとわたしは確かめた。風船たちは声を揃えて、ウンと言った。あとは何も言わないけど、風船たちの期待がひしひしと伝わって来る。
だけど問題はこれからだ。久美がいるのは、あの水晶たちの向こう側だ。神でなければ入れないあの領域に、わたしが入ることはできない。それなのにどうやって久美と意思の疎通をはかるのか。
答えが見つからないまま、わたしは先へ進んだ。風船たちの期待がわたしを焦らせるけど、風船たちに関係なく、わたしは久美を助けねばならないのだ。
水晶の洞窟にたどり着いたわたしは、そのままどんどん先へ進んだ。
やがてわたしは金色の水晶たちの空間に着いた。後方には金色の水晶たちと向かい合うように、銀色の水晶たちが並んでいる。
金色の水晶たちを前にしたわたしは驚いた。目の前には巨大なスクリーンがあって、大きな映像が映し出されている。これはわたしの世界では見られなかったものだ。
どういうことかと言うと、ここの水晶たちの表面に映像が映し出されていて、それら全体が一つの巨大な映像を作っているのだ。
この巨大スクリーンに映っているのは、バスの中のようだ。細い通路を挟んだ両脇に座席が並んでいる。この映像を映しているカメラは、通路の右側にあるようだ。
後ろはわからないけど、前方の座席には五、六名の人が座っている。座席の先頭に運転席があって、運転手らしき人の姿が見える。
正面から横の窓にかけて、外の景色が後ろへ流れて行く。時々画面が揺れ動くのは、バスの揺れだろう。
長細い三本の羽根がある大きな風車が見えた。確か、あれは風力発電の風車だ。このバスはどこを走っているのだろう。それに、どうしてこんな映像がここに映っているのだろうか。
後方の銀色の水晶たちが静かに輝きながら、バスの音を響かせている。と思ったら、突然稲妻の閃光が銀色の水晶たちの間に走り、誰かの声が辺りに響き渡った。
――姉やんは、どこまで行くんかな?
映像が左へ移動して、この映像を映しているカメラの左横、通路を挟んですぐ隣の座席が映った。そこには老夫婦と思われる、にこにこ顔のおじいさんとおばあさんがいた。
声をかけたのは、通路側に座るおじいさんだ。正面におじいさんがいるので、まるでわたしが話かけれられているみたいだ。
――灯台です。
久美の声だ! だけど、久美の姿は映らない。ほうかなと楽しげにうなずくおじいさんたちが映っているだけだ。おじいさんは続けて喋った。
――ここいらではあそこが一番有名なけんなぁ。ほんでも、あそこは灯台以外、なーんもないとこぜ。
――灯台からの夕日が見たいんです。あそこからの夕日はまっこときれいじゃて、おばあちゃんが教えてくれたけん。
――おばあちゃんがおるんかな。
――夕日見たら、おばあちゃん所へ行くんです。
――姉やんのおばあちゃんは、あそこの傍におるんかな。
久美の声は聞こえず、画面が小さく上下に揺れた。
――あんたん所の学校は、今日はお休みなんか?
今度はおばあさんが身を乗り出すようにして話しかけた。どこにいるのかわからない久美は、はいと小さな声で返事をした。
――どこの学校に行きよるんぜ?
また、おじいさんが尋ねた。久美は東京の学校だと答えた。いつの間にかおじいさんたちの顔からは笑みが消え、不審さが見えている。
――他の家族はどがぁしたんね? あんた一人ぎりなんか?
おばあさんが尋ねると、また画面が小さく上下に揺れた。
――うちが先に来たけんど、じきに母親が来ますけん。
――お父さんは?
――一昨年に亡くなりました。
おばあさんは悪いことを聞いたという顔になり、もう聞くのをやめた。
――まぁ、一人は危ないけんな。気ぃつけなはいや。
おじいさんが言うと、おばあさんも言った。
――ほうよほうよ。世の中、悪いこと考える人間が多いけんな。油断したらいかんぞなぁし。
――だんだん。ご心配ありがとうございます。
だんだんという言葉を聞いたからか、おじいさんたちはまたにこやかな顔になった。
突然、わたしの身体がガクガク揺れた。映像も声も消えて真っ暗闇になると、兄貴の声が聞こえた。
「おい、しっかりしろ! 春花、春花!」
目を開けると、そこは久美が泊めてもらった部屋の中だった。兄貴がわたしの顔をのぞき込んでいる。その後ろで、久美のお母さんが心配そうにしていた。
「あれ? わたし……」
わたしが身体を起こすのを手伝いながら、兄貴がおろおろした様子で言った。
「大丈夫か? 病院へ行こうか?」
自分の状況が理解できたわたしは、兄貴に叫ぶように言った。
「お兄ちゃん、久美の居場所がわかったよ!」
「何言ってんだよ? やっぱり病院へ行こう! おばさん、この近くに病院は――」
「違うんだってば! わたし見たの。久美はね、どこかの灯台へ向かうバスの中にいるの。風車が見える所を走ってた!」
兄貴はぽかんとわたしの顔を見た。でも久美のお母さんは、藁をもつかみたい気持ちなんだろう。今のは本当なのかと、わたしににじり寄った。
わたしがうなずくと、それはきっと佐田岬の灯台へ向かうバスに違いないと、久美のお母さんは言った。
どういうことですかと兄貴が尋ねると、久美のお母さんは、この辺りで夕日で知られる灯台は、佐田岬の灯台だと言った。また岬がある佐田岬半島には、風力発電の風車がたくさんあると説明した。
それでも兄貴はまだ信じられない表情だ。
「それにしたって、何だってこいつがそんなものを見るんですか?」
「ほれはわからんけんど、春花ちゃんと久美の間には、何か特別な関係があるみたいなんよ。春花ちゃんが久美に描いてくれた絵ぇ、あたしも見せてもろたけど、あがぁな絵ぇが描けるんは、二人が特別な何かでつながっとるとしか思えんけん」
「春花が描いた絵? おい、春花。お前、どんな絵を描いたんだよ?」
わたしは兄貴に顔を向けずに言った。
「今はそんなこと説明してる暇はないよ。それより、おばさん。急いで久美を追いかけないと大変なんです」
「他にも何ぞ見えたん?」
顔を強張らせた久美のお母さんに、わたしは戸惑いながら言った。
「久美は……、久美は灯台で夕日を見たら、おばあちゃんの所へ行くって言ってました」
「おばあちゃんとこ? 久美はそがぁ言うたん?」
「わたしに見えたのは、久美が灯台へ行くバスの中で、一緒に乗ってたおじいさんやおばあさんと喋ってるところなんです。その会話の中で久美はそう話してました」
真っ青になった久美のお母さんは、尚子さんを呼びながら台所へ向かった。しかし、尚子さんたちは久美を探しに出ようとしていたようで、返事の声は玄関から聞こえた。
わたしが急いで玄関へ出ると、兄貴も後ろからついて来た。そこへちょうど久美のお母さんも来た。和美さんと八重さんは先に出たらしく、玄関には尚子さんだけがいた。
「尚子さん、久美がおった。久美が見つかったんよ!」
「え? ほんまに?」
尚子さんは驚いた様子で、どこで見つかったのかと尋ねた。久美のお母さんは興奮したまま、今はバスの中らしいと言った。
「あの子は佐田岬の灯台へ向ことるんよ。ほじゃけん、すぐに追いかけたいんよ」
「岬の灯台? なんでそがぁなことがわかるん?」
「春花ちゃんが見たんよ。あの子がバスで岬に向ことるんを、春花ちゃんが見たんよ」
「春花ちゃんが見た? どがぁして見たん?」
尚子さんがわたしに顔を向けた。
わたしは風船たちの世界のことは話さず、気を失っている間に久美がバスで岬へ向かうところが見えたとだけ言った。
風船たちの話をしなかったのは、そんな話など信じてもらえないだろうし、頭がおかしくなったと思われるからだ。でも、意識を失っている間に久美の姿を見たという話にしても、簡単に信じてもらえるものではない。
案の定、尚子さんはわたしの話を否定はしなかったが、受け入れてくれたわけではなさそうだった。うーんと難しい顔をしたまま、何と答えればいいのか悩んでいる様子だ。
久美のお母さんは、わたしと久美の間には特別なつながりがあるみたいだと言い、わたしが久美に描いた絵の説明をした。
兄貴はへぇと感心した様子で話を聞いていたけど、それぐらいのことでは尚子さんはわかってくれないみたいだった。ほうなんかと言ってくれはしたけど、やっぱり難しい顔は変わらない。
表で車の音がした。政吉さんが戻って来たようだ。
久美のお母さんが玄関へ向かったので、わたしたちも後に続いた。
しばらくして現れた政吉さんは、わたしたちを見るなり腹立たしげに言った。
「会長のやつ、まったく話にならん! そがぁなことは警察に任せときゃええんぜ――言うてな、ろくに話を聞こうとせんのぜ、あのくそダヌキめ!」
「政吉さん、車出して!」
いきなり久美のお母さんに懇願され、政吉さんはきょとんとなった。
「どがぁした? 車でどこ行くんぜ?」
「岬や! 佐田岬の灯台へ行くんよ! 久美はそこへ行こうとしよるんよ!」
「岬の灯台? なんでそがぁなことがわかるんぜ?」
「この子が、春花ちゃんが見たんよ!」
久美のお母さんは尚子さんに言ったのと同じ説明をした。だけど、政吉さんの反応も尚子さんと同じだった。
「気持ちはわかるけどな。そげな夢の話信じてどがぁするんぜ。あげな遠い所へ行ってしもたら、その間に警察から連絡が来ても困ろ?」
「ほやけど、あの子は岬におるんよ。夕日が沈んだら、あの子は、あの子は……」
泣き出して喋れなくなった久美のお母さんを、政吉さんと尚子さんは慰めた。それでも車を出すとは言ってくれない。
二人は困ったような目をわたしに向けると、久美のお母さんを台所へ連れて行った。残されたわたしは兄貴を見た。兄貴は何が何やらよくわからないという顔をしている。
「お兄ちゃんも、わたしのこと信じられない?」
「まぁ、そうだな。いきなりあんなことを言われたら驚くし、それを信じろって言われたって困るというのが正直なとこだな」
「やっぱり、お兄ちゃんもそうなんだ」
わたしがうなだれてべそをかくと、だけどな――と兄貴は言った。
「信じる信じないじゃなくってさ、面白いじゃないか」
「面白い? 久美が死ぬのが面白いの?」
わたしが顔を上げてにらむと、そういう意味じゃないと兄貴は言った。
「お前にとっては間違いないことであっても、他人にとっては不確かな話だろ? その不確かな話に乗るって言うのは冒険だ。しかも、今の状況だと一か八かってやつだ。まぁ、言ってみれば賭けだよな。そういう意味で面白いって言ったんだ」
「お兄ちゃんが言ってること、わかんない」
むくれるわたしに兄貴は続けて言った。
「わかりやすく言えばさ、オレはお前と一緒に岬へ行くってことだ。お前を信じるって言うより、お前が言うことに賭けてみるってことだ」
わたしは兄貴に抱きついた。兄貴はうろたえていたけど、そっとわたしを抱き返すと、お前、こんなに痩せちまったんだな――とぽつりと言った。
兄貴はわたしが病み上がりだったことを思い出したようで、わたしが離れたあとも神妙な顔のままだった。
「親友を助けるために、お前はそんな体でここまで来たんだな。思えば、あの子からの手紙を読んだときに、あの子が危ないって思ったのも、お前とあの子に特別な何かがあったからだろうな」
「お兄ちゃん……」
「春花、オレがお前の願いを叶えてやるよ。オレがお前を佐田岬へ連れて行ってやる」
お兄ちゃん、かっこいい。かっこいいよ。だけど、車もないのにどうやって岬へ行くつもりなんだろう。
そのことをたずねると、それだよなと兄貴は言った。
「そもそも佐田岬の灯台がどこにあるのか、オレたち知らないもんな」
兄貴は荷物から地図を取り出した。夕日を見るって言うから、佐田岬は伊予灘より西にあるはずだ。
二人で愛媛の地図を調べると、西の端に九州に向かって突き出した細長い半島があり、そこに佐田岬半島と書かれていた。つまり、佐田岬はこの半島にあるってことだ。
わたしたちは一緒に指を半島の先へ動かした。そこには灯台のマークがあり、佐田岬灯台と書かれてある。わたしと兄貴は顔を上げて微笑み合った。
問題はここから佐田岬までどうやって行くかということだ。兄貴は伊予灘から佐田岬までのおよその距離を測った。
「おおよそ六十キロか。車だったら一時間で行ける距離だけど、歩いたらどんだけかかるんだ? 一時間に四キロ歩いたとして……、十五時間?」
兄貴は無表情にわたしを見て言った。
「無理だな。絶対に無理」
「え? お兄ちゃん、オレがお前の願いを叶えてやるって言ったじゃん! あれ、嘘だったの?」
「嘘じゃない。あのときは、本気でそう思ってた。だけど、今は事情が変わった。オレたちに車はないし、列車もあそこまでは走ってない」
「久美はバスに乗ってたんだよ? 近くまで行けばバスがあるよ」
わたしが必死に訴えると、兄貴は列車の時刻を調べてくれた。
佐田岬に一番近い駅は八幡浜駅だ。列車でここまで行って、そこからはバスかタクシーで行けばいい。わたしはそう考えていたけど、次に八幡浜へ向かう列車の時刻は夕方の四時三十八分だった。これだと八幡浜に到着するのが六時四分になる。日が沈むのは五時半頃だ。間に合わない。
「お兄ちゃん、タクシーで行こう!」
「タクシー? ここから佐田岬までタクシー代がいくらかかるのかわかんないぜ」
「お兄ちゃん、バイト代あるんでしょ? それにここまでヒッチハイクで来たんだから、その分のお金も残ってるじゃない」
兄貴は少しお金が惜しそうな顔を見せたが、覚悟を決めたみたいだ。わかったよと言うと、スマホで近くのタクシー会社を調べた。
だけど、この辺りの地理がさっぱりわからないから、どのタクシー会社が近いのかがよくわからない。わかったのは、このすぐ近くにはタクシーはないということだ。
兄貴が悪戦苦闘しながらいろいろ調べた結果、伊予市という所のタクシーを呼ぶことになった。しかし、タクシー会社に電話をしても、どこへ迎えに行けばいいのかと聞かれ、兄貴は返答に困った。それで伊予灘駅と答えると、次に行き先を聞かれた。
佐田岬ですと言うと、灯台を見に行くのかと聞かれた。そうですと答えると、灯台の所までは車が入れないので、手前の駐車場で降ろすことになると言われた。灯台はそこから二キロほど歩かなければならないそうで、普通に歩けば三十分ぐらいはかかるようだ。
伊予灘駅から佐田岬の駐車場までは、どれぐらいで行けるのかと尋ねると、一時間半ほどだという答えが返って来た。歩く道を合わせれば、全部で二時間ということだ。それは兄貴の計算よりも一時間長かった。
兄貴はわたしを見た。わたしがうなずくと、兄貴はお願いしますとタクシー会社に言った。すると、タクシーが向こうからこっちへ来るまで三十分ほどかかると言われた。佐田岬までの移動時間を合わせると二時間半だ。
兄貴の時計を見ると、もう三時になろうとしていた。ぎりぎり日没の時間だ。どうなるかはわからないけど、ここは頼むしかなかった。
それで、お願いしますと改めて向こうに伝えた兄貴は、え?――と言った。少し相手の話を聞いたあと、兄貴は困った顔でわたしを見た。
「今、車が出払ってて、こっちへ来るのに一時間ほどかかるって言うんだけど、どうしようか」
「一時間?」
それでは佐田岬に着けるのは六時になってしまう。もう日が沈み終わったあとだ。
わたしが泣き出したので、兄貴はまた後で電話しますと言って電話を切った。それからわたしに申し訳なさそうに言った。
「岬までだいたい六十キロぐらいだったから、ぶっ飛ばして行けば一時間で行けると思ったんだけど、実際は違ってたみたいだな」
兄貴の言い訳なんか聞きたくなかった。列車もだめ。タクシーもだめ。もうわたしたちには日が沈むまでに佐田岬へ行く手段がない。
「久美が死んじゃう……。久美が死んじゃうよ……」
わたしは泣きながら家の外へ飛び出した。追いかけて来た兄貴はうろたえながらわたしを慰めようとした。だけど、久美が岬にいるのがわかっていながら、助けることができないのだ。いくら慰められても、その悔しさと悲しさが収まることはなかった。
そのとき、わたしたちの後ろで車が止まる音がした。振り向いた兄貴が、あ――と言った。
「どがいした? まだ見つからんのか?」
聞き覚えのある声に、わたしは顔を上げた。すると、そこには軽トラックが停まっていた。運転席から顔をのぞかせていたのは、中村さんだった。