青空と白い雲
佐田岬半島の付け根に、八幡浜という町がある。そこの警察署でわたしたちは事情聴取を受けた。
連絡を受けた久美のお母さんは政吉さんの車で警察署まで来た。久美と面会したお母さんは、何も言わずに久美を抱きしめた。久美は何度もごめんなさいと謝りながら泣いた。
久美は政吉さんにも頭を下げ、迷惑をかけたことを詫びた。
すでに事情聴取が終わっていた中村さんは、政吉さんが迎えに来たのを確かめると帰ろうとした。わたしたちは何度もお礼を言ったが、久美のお母さんと政吉さんも中村さんの手を握り、繰り返して感謝を告げた。
こうして中村さんは帰って行った。中村さんから話を聞いた奥さんは、どんな顔をするのだろう。中村さんが奥さんから叱られないことを祈っているけど、きっと奥さんも中村さんが無事だったことが一番うれしいと思う。
政吉さんは久美の無事を喜んだけど、わたしが言ったとおりに、久美が佐田岬で見つかったことを、とても不思議がっていた。
それは警察でも同じことで、改めて久美の居場所がわかった理由を問われても、わたしは同じことしか言えなかった。どうしてそうなのかと聞かれると、上手く説明できないと言うしかなかった。風船たちや光の存在の話をしたところで、わかってもらえないだろうし、話が長くなるのは避けたかった。その話を聞かせたいのは久美だけだから。
結局は不思議なことということで聴取は終わった。久美は二度と死ぬだなんてことは考えないと約束し、警官たちに励まされながら解放された。
兄貴は母に電話で連絡し、これまでのことを報告していた。だけど、わたしたちが警察に捕まったことを話すと、周囲の人たちにも聞こえるほどの母の叫び声が、スマホから飛び出して来た。
兄貴が母をなだめながら、警察に捕まった理由を説明すると、さらに大きな叫び声が飛び出した。兄貴は大慌てで、お巡りさんたちが驚くから大声を出さないよう母に言った。
そこへ久美のお母さんが兄貴と交代して母に挨拶をし、わたしと兄貴が久美の命を救ってくれたと、泣きながら礼を述べた。そして、わたしたちのことを叱らないようにと頼んでくれた。
続いて久美も電話に出て、みんなに迷惑をかけたことを母に詫びた。もう母は落ち着きを取り戻したようで、周囲に声は聞こえなかった。でも、うなずく久美の様子を見ていると、母は久美を励ましてくれているようだ。
わたしも電話を代わると、母はわたしの体を心配してくれた。また、今回のことは大目に見るけれど、今度からは自分だけで行動しないようにと言った。
それと、どうして久美の居場所がわかったのかと聞かれたけど、やっぱり説明ができなかったので、家に帰ってから話すと言った。
最後にもう一度電話に出た兄貴は、母の怒りが収まったと思ったのか、すっかり安心した様子だった。だけどそれは誤解だったようで、スマホを耳に当てた兄貴は、何度も謝りながらどんどん小さくなった。
久美はお兄さんに申し訳ないと言いながら、兄貴の仕草や表情を見ながら笑っていた。久美も兄貴という人間をつかみかねているらしいけど、それが面白いみたいだ。
警察を出ると、政吉さんがみんなに晩ご飯をご馳走すると言った。ずっと緊張の連続で食事のことなど忘れていたけど、食事と聞いたら急にお腹が空き出した。兄貴は声を出さずに、満面の笑みをわたしに見せた。
食欲はどうかとお母さんに聞かれた久美は、ぺこぺこだと言った。食欲が出たなら安心だなと兄貴は笑ったけど、まったくそのとおりだとわたしも思う。
政吉さんはわたしたちをファミリーレストランへ連れて行ってくれた。普通の夕食の時間はとっくに過ぎていたと思うけど、お店の中は結構なお客さんが入っていた。
お店の人に席を案内され、それぞれが好きな物を注文すると、さて――と政吉さんが言った。
「姉やん――やのうて、春花ちゃんに改めて聞くけんど、久美の居場所は夢の中で見たいうことじゃったな」
はいとわたしがうなずくと、そんなことはちょくちょくあるのかと政吉さんは言った。
あのときが初めてだったと答えると、久美のお母さんがまた久美の絵の話を出した。この話は政吉さんは聞かされていたはずだったけど、そのときは大して関心を示してくれなかった。だけど久美を見つけた今は、その絵を見てみたいと政吉さんは言った。
久美が懐からその絵を出して政吉さんに見せると、上手な絵ぇじゃなと政吉さんは言った。それで、この絵のどこが不思議なのかと改めて尋ねるので、久美と久美のお母さんが代わる代わるに、絵に描かれた生き物たちについて説明した。
「こがぁな絵を描けるのに、久美と春花ちゃんの間に特別な関係がないんじゃったら、春花ちゃんは超能力者いうことにならい」
久美のお母さんが真顔で言うので、わたしは咄嗟に否定した。
「わたし、超能力者なんかじゃありません。こんな絵を描いたのも、夢の話も、他の人ではありませんでした」
「ということは、やっぱしこの子らの間には、特別な関係があるいうことで」
久美のお母さんが政吉さんを見ながら強調すると、兄貴が付け足すように、わたしが病院で見た久美の夢の話をした。その声が大きかったので、わたしは兄貴に小さな声で喋るよう注意した。
兄貴はむっとした顔になったあと、自分の感想を述べた。
「その夢は、そのときの久美さんの気持ちが春花に伝わったんだと、オレは思います。それも二人の心がつながっている証拠じゃないでしょうか」
兄貴はちらりと久美を見た。しかし、久美は兄貴の演説を聞いていないみたいで、兄貴の方は見ないまま、ほんとにそんな夢を見たのかとわたしに尋ねた。
わたしはうなずいたけど、久美を貫いた矢が言霊だったことは黙っていようと思った。また、久美に取り憑いた三匹の化け物たちのことも、今は言わないでいることにした。だって、そんな話をしたら久美が嫌な気持ちになるだろうし、わたしが久美を助けたという自慢話みたいになってしまう。そんなのは絶対に嫌だ。
なるほどな――と納得した様子の政吉さんは、わたしと久美を見比べながら、これからもその関係を大事にするようになと言った。それから兄貴に顔を向けた政吉さんは、久美を助けるために東京からどうやって来たのかを、久美に説明してやってくれと言った。
兄貴はさっきのことで少し元気がなくなったみたいだったけど、政吉さんの頼みで復活した。それこそ水を得た魚のように、わたしが一人で家を出ようと考えたことを見抜き、妹のために学校も休んで、トラックをヒッチハイクして来たと説明した。途中、わたしから何度も声が大きいと注意されたけど、まったく気にする様子はなかった。
久美の手紙には住所が書かれていなかったので、消印にあった伊予灘郵便局を目指して来たということも、兄貴は得意げに話した。
わたしはすぐに郵便局の人たちが親切だったと話し、特に中村さんがいなければ、久美を迎えに行けなかった言った。すると久美も、本当にあんな人がいたとは信じられないと感慨深く言った。
政吉さんや久美のお母さんも、中村さんには改めてお礼をしなくてはいけないと言い、今日が誕生日だった奥さんと揉めなければいいけれどと心配した。
忘れられたかのような兄貴は、しばらく途方に暮れていたみたいだった。でも気を取り直して中村さんの話に混じると、軽トラックで猛スピードで走ったときの様子や、警察に追いかけられたときのことを喋った。
みんなが話に聞き入ると、兄貴はまた調子に乗って、ぶっ飛ばす軽トラックの中で、わたしが兄貴にしがみついていたとか、声をかけても言葉も出なかったなどと言った。
軽トラックが怖かったのは事実だけど、わたしにしがみついて声も出せずに固まっていたのは兄貴の方だ。わたしが猛抗議をすると、オレはずっと中村さんと喋っていたと嘘ばっかり。
挙げ句の果てには、警察に追われているときに、わたしが気を失ったと言うから、わたしは頭に来た。あれは気を失っていたんじゃなく、久美に取り憑いた言霊たちと戦っていたんだから。だけど、それを言えないわたしは、悔しさを呑み込むしかなかった。
すると、それはいつ頃のことかと、久美が兄貴に尋ねた。
えっと――と兄貴は鼻を指で押さえながら、日がほとんど暮れかけていた頃だったと思うと答えた。
「そのあとすぐに駐車場に着いたから、ちょっとの間だけなんだけどね」
少しは悪いと思ったのか、兄貴はわたしに気遣うような目を向けた。
久美はわたしを見ると、感動したように言った。
「やっぱし春花やったんじゃね」
「え? 何が?」
「春花がうちを助けに来てくれたってことや。お兄さんの話聞いて、うちはそがぁ確信したんよ」
何のことかと兄貴はきょとんとしていた。政吉さんも久美のお母さんも、久美の話がよくわからない様子で、何を今更という顔をしている。
だけど久美は構わずわたしの両手を握ると、改めてお礼を言わせて欲しいと言った。
「春花。春花がおらんかったら、うちは今頃死んどった。うちの心にずっと刺さっとったトゲを、春花が抜いてくれたんよ。だんだんな。だんだんありがとう」
久美はわたしを抱きしめた。久美が何のことを言っているのか、わたし以外は誰もわからない。だけど、政吉さんが拍手をし、久美のお母さんも拍手をした。兄貴は何が何やらわからないまま、政吉さんたちに続いて拍手をした。
久美の言葉はわたしの胸を打った。言葉では何も説明はしていないけど、わたしの涙が久美の言うとおりだと伝えただろう。久美もわたしを抱きながら涙ぐんでいた。
そこへ注文した料理が運ばれて来た。わたしたちは涙を拭いて微笑み合い、テーブルは祝いの席となった。笑顔と楽しい話にあふれ、つい数時間前に久美が命を絶とうとしていたとは思えないほど、賑やかで明るい食事となった。
何をしに来たのかと言われるかもしれないのに、兄貴は自分がスマホで撮った写真をみんなに披露した。そのうちの一枚を見た久美のお母さんが、あれ?――と言った。
それは伊予灘駅に着いたときに、兄貴がわたしに怒られながら撮影した駅と列車の写真だった。その列車の手前の席にこちらに背を向けて座る少女を指差し、これは久美じゃないかと久美のお母さんは言った。
兄貴が驚いてその少女の部分を拡大すると、絶対にほうよと久美のお母さんは言った。
「ほんまじゃ。これ、うちやし」
写真をのぞき込んだ久美は、わたしと兄貴を見た。
「春花とお兄さん、うちが乗ったんと対の列車に乗りよったんか。これはびっくりや」
警察で聴取を受けたときは、久美とわたしたちは別々に話を聞かれたので、久美がどうやって佐田岬へ向かったのかは、まだ聞いていなかった。
ところが何と、久美はわたしたちが乗って来た列車で八幡浜へ行き、そこからバスとタクシーで佐田岬へ行ったらしい。あのとき、馬鹿兄貴が駅の端まで歩いて行かなければ、わたしは駅で久美と出会っていたはずだった。
わたしたちの目が兄貴に集まった。うろたえる兄貴に、政吉さんがむすっとした顔で言った。
「何じゃい、今回のことは兄やんのせいじゃったかい」
「いや、ですからこれはですね、その、えっと……」
大慌ての兄貴を見て、政吉さんは笑い出した。
「終わりよければ、すべてよしぜ。兄やんは久美を助けるために、がんばってくれたんやけんな」
「いや、まぁ、はぁ」
返す言葉が見つからない兄貴に、みんなが笑った。
翌日、政吉さんがわたしたちを松山まで車で運んでくれた。そのとき、尚子さんや和美さん、八重さんが見送ってくれたのはもちろんだけど、久美を疫病神と罵っていた伯母さんまでもが見送りに来てくれた。
久美が死のうとしていたことを聞かされて、伯母さんは深く反省したそうで、これまでの態度を久美や久美のお母さんに詫びた。二人は伯母さんの謝罪を受け入れ、また遊びに来ることを約束した。
途中、久美のおじいちゃんやおばあちゃん、そしてお父さんのお墓参りもした。
前はお墓参りがつらかったけど、今はみんなが自分を見守ってくれているような気がすると、久美は言った。久美の言葉に、久美のお母さんもほっとしているみたい。もちろんわたしもよかったって思ってる。
お墓参りのあと、わたしたちは伊予灘郵便局に立ち寄った。局員の人たちは中村さんから話を聞いていたようで、わたしたちが顔を見せるなり、よかったなとみんなが喜んでくれた。窓口にいたお客さんは、何の話かわからずきょとんとしていたけど、あの女性の局員さんは立ち上がり、大きな声でおめでとうと言ってくれた。
久美も久美のお母さんも戸惑いながら、いろいろお世話になりましたと感謝を述べた。政吉さんも後ろで一緒に頭を下げた。
中村さんが拍手をすると、他の局員の人たちも手をたたき、小さな郵便局の中はすっかりお祝いムードになった。
「中村さん、昨夜は大丈夫だったんですか?」
兄貴が恐る恐る尋ねると、フライパンで殴られたと中村さんは言った。わたしたちが驚くと、冗談ぜと中村さんは笑った。
「女房も喜んでくれた。今晩、改めてお祝いするんよ」
「それはよかった。オレ、安心しました」
「向こうへ戻んたら、試験がんばれや。追試があろ?」
「え? そうかな」
「ほら、あるじゃろが。兄やんぎり試験なしで済ましてくれるはずがなかろ。ほれと、勝手に学校休んだことで、先生から大目玉を食らわい」
兄貴が困ったように頭を掻くと、中村さんはカラカラと笑った。
「姉やんらも元気でな。またいつか二人で遊びに来たらええぜ。ほんときは、わしが美味い物食わしちゃるけん」
「あの、オレは?」
恥ずかしげもなく自分の存在をアピールする兄貴に、わたしは顔が熱くなった。でも中村さんは明るく兄貴に応じてくれた。
「兄やんもぜ。将来はわしみたいな男になるんじゃろ?」
「それはもう絶対に!」
中村さんは局員の仲間を振り返って言った。
「聞いたか? この兄やんはな、学校卒業したら、この伊予灘郵便局で働くんぜ」
ほれはええとみんなが手をたたくと、兄貴は慌てふためいた様子でわたしたちを見た。
わたしは笑いながら、がんばってねと兄貴を励ましてやった。それからわたしたちは改めて中村さんたちにお礼を述べて、伊予灘郵便局を後にした。
待ちよるぜという中村さんの声が、後ろから追いかけて来ると、兄貴は頭を抱えて、どうしようと言った。久美はくすくす笑いながら、お兄さんて面白い人じゃねと言った。
「兄やんはえらい純情なんじゃな。みんな冗談言いよるぎりぜ」
政吉さんがにやにやしながら兄貴を慰めた。そうでしょうかと兄貴が真面目な顔で聞くと、中村さんは本気かもしれんと政吉さんは言った。
兄貴がまた頭を抱えると、可哀想だからもういじめてやるなと、久美のお母さんが政吉さんに言った。だけど久美のお母さんもおかしくて仕方がないらしい。喋りながら笑っている。
松山にはお昼前に着いた。東京へは松山駅から夜行バスで帰ることになっている。それまで時間があるので、久美はわたしたちを松山城へ案内すると言った。それで政吉さんはみんなでお昼ご飯を食べたあと、わたしたちを城山の近くで降ろして伊予灘へと帰って行った。
東京から松山へ着いたとき、兄貴はできれば松山城を見てみたいと言っていた。そのときはわたしに怒られたけど、まさかのお城見学に兄貴は大喜びだ。
城山にはリフトとケーブルカーがあった。でも、それで頂上まで行けるわけではなかった。リフトもケーブルカーも山の中腹までしかなく、あとは歩いて登るらしい。
急な登り坂は病み上がりのわたしには体力的にきつかった。それなのに兄貴は全然わたしのことは放ったらかしで、自分が興味を引かれた方へさっさと歩いて行く。
久美はわたしを心配して、休憩しながら登ろうと途中で足を休めた。そして、よくそんな体で助けに来てくれたものだと、また泣きそうになった。
すると兄貴は急いで戻って来て、大丈夫かとわたしを気遣った。だけど、その仕草がわざとらしい。わたしの額に手を当てて、熱はないなと言ったり、全然その気なんかないくせに、おんぶしようかとしゃがんでみせた。
だからわたしは、じゃあお願いねと言って、いきなり兄貴の背中に飛びついてやった。兄貴は見事につぶれてカエルみたいになった。
「お前なぁ、いきなり飛び乗るなよ!」
わたしの下で藻掻きながら、早く降りろと兄貴は怒鳴った。わたしが笑いながら降りると、兄貴はぷんぷん怒りながら立ち上がった。でも、大丈夫ですかと久美に声をかけられると爽やかな笑顔になって、これぐらいどうってことないっスと胸を張った。
その変わり身の早さに久美は戸惑っていたが、久美のお母さんは声を出して笑った。
お城には観光客だけでなく、地元の人たちも遊びに来ているようだった。山頂まで登っても天守閣には行かずに、街の眺めを楽しんでいる人たちも大勢いた。
その中に、中学生と思われる数名の男子のグループがいた。そう言えば、今は中間テストの時期だ。試験のあとの気分転換に遊びに来ているのだろう。みんなで海の方を眺めながら騒いでいる。
そのうちの一人がふとこちらを振り返ると、兵頭?――と久美に声をかけた。
「え? 石田くん?」
久美が驚くと他の生徒たちも振り返り、兵頭だと口々にうれしげな声を上げた。久美が石田くんと呼んだ男子生徒が駆け寄って来ると、仲間の生徒たちもこれに続いた。
「やっぱし兵頭や。わしら心配しよったんぞ」
「心配? うちのことを?」
「当たり前やないか。お前、停学なったあとも学校戻んて来んで、そのままおらんなってしもたろ? ほやけん、わしらお前に声もかけられんままやったんぞ」
「え? ほれって、どがぁな?」
「田中が橋本らにやられよったんを、わしらはわかっていながら止めよとせんかった。ほれをお前は体張ってやめさせよとしたろ? わしらな、自分が恥ずかしなってしもて、お前が戻んて来たら謝ろて思いよったんよ。ほしたら、学校やめたて聞いたけん」
元気やったかと、他の者たちも久美に声をかけた。
思いがけない昔の仲間との出会いに、久美は動揺した様子だったけど、安心したようでもあった。誰が誰なのかはわからないけど、何の話をしているのかは、わたしにもわかった。久美は一人悪者にされて学校を追い出されたみたいな形だったけど、実際は味方になってくれる者たちが大勢いたということだ。
久美は仲間たちのねぎらいに感謝をしたあと、わたしと兄貴とお母さんを紹介した。
一緒にいたのが母親だとわかり、石田くんと仲間たちは恐縮したみたいだ。でも、石田くんたちの言葉を聞いて、久美のお母さんがとても喜んだので、少し緊張は解れたようだった。
それから久美は彼らを一人一人わたしたちに紹介した。兄貴は高校生なので少し遠慮されたみたいだったけど、わたしは同じ中学生なので彼らの気を引いたようだ。はにかんだ様子で何かを言いたげな彼らを見ていると、わたしもまんざらでもないのかもと、鼻の穴が少し膨らんでしまう。
一通りの挨拶が終わると、あれからは田中へのいじめはなくなったと、石田くんが久美に言った。
「あとでわかったことなけんど、そもそもの原因は仲田やったんよ」
「仲田くん? なんで仲田くんなん?」
「あいつがな、田中のことをあることないこと、橋本らに言うとったみたいな。ほんで、橋本らが田中に腹立てたんよ」
「ほんまに? ほんでも仲田くん、なんでそがぁなことを……」
「あいつ、ほんまは田中に気があったみたいでな。ほんでも田中の言葉が素っ気なかった言うか、そがぁ聞こえてしもたんやろな。ほれで、なんぞて思たみたいなで」
新たに登場した名前が誰なのかは、当然わたしたちにはわからない。でもこの仲田という男子が、いじめグループを焚きつけたらしいことは理解できた。しかも、その嘘の出所が久美だと、この仲田という生徒はいじめグループに話していたようだ。だからこそ、いじめをやめさせようとした久美に、いじめグループは猛反発したのだろう。
男子生徒たちによって争いを止められたとき、この仲田という生徒は久美に向かって、お前は二枚舌だなと言ったらしい。
わたしはあのカラス天狗の主は、この仲田という生徒だったのかと理解した。聞けば、この生徒も小学校のときに他県から転校して来たそうで、独りぼっちでいることが多かったようだ。
それにしても、どうしてこの生徒は久美を貶めようとしたのだろう。わたしはそのことを尋ねたが、石田くんたちにも理由はわからないようだし、久美にもわからなかった。
だけど、わたしは思った。きっと仲田という生徒は、久美が仲間に合わせて本音を隠していることを、見抜いていたのではないだろうか。自分と同じ匂いを久美に感じたからこそ、久美に意地悪をしたくなったのだろう。それはこの生徒が自分自身にうんざりしていたということに違いない。
「そがぁなわけやけん、もういじめは起こらんと思うけんど、またあったら、今度こそわしらがやめさすけん。ほれと田中にも、お前が元気やったて伝えとこわい。あいつもお前のこと気にしよったけん」
「だんだん。ほれで、仲田くんはどがぁなったん?」
「そがぁなことしてしもたけんな。二学期なったら、どこぞへ転校してしもとった」
何とも後味の悪い話だけど、わたしはその仲田くんが新しい学校で、本当の友だちを見つけられるように祈った。
少し沈黙があったあと、石田くんは言った。
「兵頭はもうこっちへは戻らんのか?」
「そがぁに簡単に、あっち行ったりこっち行ったりはできんし。ほれに、うち、ようやっと自分の居場所見つけたけん」
久美は微笑みながら、ちらりとわたしを見た。
ほうかと石田くんたちは残念がった。でもすぐに気を取り直したように、今日はここに何をしに来たのかと尋ねた。
久美はわたしと兄貴を振り返り、親友の兄妹に松山を見せていると言った。それは久美が松山を悪くはとらえていないということになる。
石田くんたちはうれしそうに、松山のお勧めの所を口々にわたしたちに教えてくれた。また、わたしにメールアドレスやラインの話をするので、わたしはスマホを持っていないと言った。
もちろん久美にも尋ねたけど、やっぱり久美もスマホがない。石田くんたちはがっかりしていたけど、ないものはしょうがない。ほんじゃあ元気でなと、それぞれが明るく久美に声をかけ、わたしたちにも手を上げたり頭を下げたりしてくれた。
みんなもね――と返した久美は晴れ晴れとした笑顔だった。久美のお母さんもほんとにうれしそうだったけど、わたしだって最高の気分だ。久美が愛媛を訪れたのは、本当はこのためだったのではないかと思うほど、すべてが上手く動いているようだ。
天守閣の上から見た眺めは素晴らしかった。街が一望できるし、すぐそこに山や海がある。ここは松山で一番の観光スポットで、天守閣の中は多くの観光客で賑わっている。
それにしても、こんな近くに自然があるのは本当に羨ましい。それに自然が近いというのは、人にとって大切なことだと思う。だって、人間も自然の一部のはずだから。
わたしから少し離れた所で、兄貴が久美と久美のお母さんを相手に、道後温泉とか石手寺という有名な場所についての知識を披露している。自分が説明を聞く立場だってことを忘れているらしい。
二人ともそんなことは知っているって言ってやればいいのに、黙って話を聞いているから、兄貴の口はいつまでも止まらない。
久美はちらりとわたしの方を見るけど、兄貴が喋っているのを無視するわけにもいかないようだ。気にしなくていいからと微笑みで応じると、わたしは一人で景色を眺めながら考えた。それは、あの風船たちのおばあさんみたいな生き物が教えてくれたことだ。あの生き物が語ってくれた、三つの愛の話は今でもわたしの頭から離れない。
人が三つの愛から生まれるならば、他の生き物たちもみんな同じだろう。つまり、すべての生き物は愛から生まれ、愛で満たされているということだ。
みんな自分が何者かを覚えていないけど、誰もが愛の化身なんだ。悪いことをする人だって、その本当の姿は愛に違いない。だって、生まれて来たときは、みんな同じはずだから。悪いことをするようになるのは、自分が何者かがわからないまま、満たされない気持ちが積み重なるからだろう。
だけど、こんな話は誰にでもできるものじゃない。だって愛って言うだけで、みんな気恥ずかしい気持ちになって、真面目に話さなくなってしまうもの。
でも本当の愛っていうのは、みんなが思い浮かべるようなものじゃない。
わたしは自分が光の存在だったことを思い出したとき、愛が何かを知った。いや、正しく言えば、これも思い出したと言う方がいいだろう。
愛とは自分とすべてがつながっているという感覚的かつ感情的な理解だ。そう感じているときには、心の底から純粋な喜びが湧き上がって来て、心は最高の喜び一色になる。
人間の世界には男女の愛や家族愛、友情や人類愛など、いろんな形の愛がある。これらはみんな、純粋な愛が人間関係という形で制限されたものなのだと思う。
一番の基本的な愛っていうのは、無条件に相手を受け入れ、自分も受け入れられるというものだ。相手とのつながりを感じ、自分と相手が一つなんだって思い出すから、そこには嘘もなければ批判もない。相手や自分を高く見たり低く見ることもなく、互いのそのままを受け入れ合う。だから他人を悪く見なくなるし、自分が大好きになる。
そんな愛の中にずっといられたならば、どれほど幸せだろうと思う。それなのにわたしたちはわざわざそこを離れて、愛が見えにくいこの世界に生まれて来る。それにはどんな意味があるんだろう?
わかっているのは、忘れていたことを思い出すときに、感動するということだ。きっとこの世界には、愛が様々な所に様々な形で散りばめられているのだと思う。
それをわたしたちは一つ一つ確かめ、愛を見つけて回りながら、最後には純粋な愛の世界に戻って行くのだろう。
おそらくそれは、愛の世界にずっといたのではわからない喜びの発見に違いない。自分が暮らしている所の本当のよさは、そこから離れてみないとわからないというけれど、それと同じだろう。ただ愛の世界にいただけでは、愛の本当の価値は理解しにくいのかもしれない。
そう考えると、光の存在の自分よりも、何もできない今の自分の方がすごいような気がしないでもない。何だかこそばゆいような誇らしさが、わたしの鼻を通り抜けている。
「逃げて来てしもた」
久美がわたしの隣に来て舌をぺろりと出した。向こうでは兄貴が久美を気にしながら、まだ久美のお母さん相手に喋っている。久美のお母さんも気の毒だけど、お願いします。もう少し辛抱して、わたしと久美の時間を作ってね。
「ごめんね。うちの兄貴、空気読めないから」
「ええんよ。ほれより、あそこ見てみ。海の左側を陸地がずっと伸びとろ? あの辺が伊予灘でな、あのずっと先が佐田岬なんよ」
へぇと言って、わたしは久美が指差す辺りを眺めながら、昨日のことをいろいろと思い出していた。
兄貴と列車で伊予灘駅へ向かったことや、伊予灘郵便局を訪ねたこと、中村さんに軽トラックで海沿いの道をぶっ飛ばしてもらったこと、そして警察に追われながら、夕闇の中で久美を探して涙の再会を果たしたこと。そんなことが走馬灯のように頭に浮かぶけど、今は本当にそんなことがあったのかと思うほど、遠い昔のことのように思えてしまう。
「うち、あがぁな所まで行きよったんじゃね」
遠くにかすんで見える佐田岬半島を眺めながら、久美がぽつりと言った。
「春花が来てくれんかったら、今ここにうちはおらんかった。ほれを考えたら、怖い気持ちになるけんど、えらい不思議なことでもあったて思えるで」
「わたしもね、普通だったらこんなことできないよなって思ったよ」
「じゃろ?」
「だけど、こうしてできたんだもんね。だから、久美が言うように不思議に思えるけど、でもこれは全部こうなるように決まってたんじゃないかとも思うんだ」
「全部決まってた?」
わたしはうなずくと、だってさ――と言った。
「わたしが学校にいられなくなって肺炎で死にかけたから、わたしは光の存在にも会えたし、風船たちのこともわかったんだよ」
「あぁ、光の存在に風船。早よ、その話聞かせて欲しい」
焦れったそうな久美をなだめて、わたしは話を続けた。
「もし、わたしが真弓たちと揉めなかったら、あるいは、わたしが肺炎で死にかけたりしなかったら、わたしは久美を助けることができなかったんだよ」
「うちの居場所を光の存在とか、風船が教えてくれたけん?」
「そう。だからね、今回のことはたまたまこうなったんじゃなくて、こうなるべくしてなったんだと思うんだ」
久美は少し考えて言った。
「うちにこれまで起こったことも対?」
「そうだよ。全部が必然的に起こったんだよ。お互いにつらいことが多かったけどね。でも、二人ともそこからいろんなことを学んで強くなったの」
ふーんと久美は言った。わたしの話を受け入れるには、時間が必要なのかもしれない。久美が経験して来たことは、それだけつらいものだから。
「強なってどがぁするん?」
「それが人間の成長ってやつだよ。それにさ、強くなったら苦しんでる人とか、悩んでる人に手を差し伸べられるじゃない」
「まぁ、ほれはほうじゃね」
久美はうなずいた。ちょっとはわかってもらえたかな。
「わたし思うんだけどさ。この手を差し伸べるっていうのは、結局は喜びを伝えるって言うか、喜びを広げるってことなのよ」
「喜びを広げる? 何かええね」
久美の顔に笑みが見えた。わたしも思わず微笑んだ。
「でしょ? わたしね、久美と一緒にそんなことができたらいいなって思ったんだ」
「春花と一緒に喜びを広げるん?」
「そ」
久美はまた伊予灘の方を眺めると、明るい声で言った。
「うち、なんか自分の道が見えて来たような気がすらい」
「ほんと? うれしい!」
わたしが喜ぶと、久美の笑顔が振り返った。わたしたちをそよ風が撫でて行く。気分は爽快だ。
「ところでな、風船の神さまとか光の存在の話やけど、ちらっと触りぎりでも言うてくれん? うち、話聞くの東京まで待ち切れんけん」
周りの観光客を気にしながら、久美が小声で言った。
「ここで話すの?」
久美は目を輝かせてうなずいた。わたしは隣にいる観光客をちらりと見てから、久美に顔を寄せた。
「わたしを助けてくれた光の存在はね」
やはりわたしに顔を近づけた久美は、うんうんとうなずいた。
「実は、わたしたちだったの」
え?――と久美が思わず大きな声を出したので、わたしは慌てて人差し指を口の前に立てた。久美は自分の口を手で押さえると、どういうことかと言った。
「わたしたちは元々一つの光の存在だったの。その光の存在がね、わたしたちを助けてくれたんだよ」
「自分が自分を助けたってこと?」
「えっと、そういうことになるのかな」
わからんと言いながら、久美は額に手を当てた。でも、すぐに気を取り直したように言った。
「まぁ、ええわ。ほれについては、向こうに戻んてから聞かせてもらお。じゃあ、今度は風船や。風船の神さまて何のこと?」
「風船のって言うか、風船以外にもいろいろいるんだけどさ」
「何が?」
「手毬とか、ビーチボールとか……、いや、ビーチボールじゃなくてクラゲか」
わたしが喋っている間に、久美の眉根がどんどん寄っていく。
「また、訳のわからんことぎり言うて!」
「いや、だってほんとなんだよ。他にもね、山よりでっかい大蛇とか、枯れ草みたいなのとか、大きな舌でべろって舐めるのとか……」
あぁと言いながら、久美は首を大きく横に振った。
「もう、さっぱりわからん」
「とにかくさ、そんな生き物たちの神さまがね、わたしや久美なんだよ」
久美がため息をついていると、兄貴が久美のお母さんと一緒にやって来た。この話もおしまいだ。
「二人で何喋ってんだ?」
お邪魔虫の兄貴が、わたしたちの間に割り込んだ。むっとしたわたしは言った。
「お兄ちゃんの噂」
「え? オレの噂? 何だよ、それは」
顔を赤らめる兄貴を、わたしはからかいたくなった。兄貴の程度を確かめてやるんだ。
「お兄ちゃん、今回のことで何が一番大切かわかった?」
「何が一番かって?」
冒険することだって、兄貴は答えるに決まってる。それはそれで面白いけど、わたしの正解はそれじゃない。
兄貴はちらりと久美を見てから、そんなのは決まってるだろうと言った。
「何?」
「愛だ」
えぇ?――とわたしが大声を出したので、周りの人たちがびっくりして振り返った。わたしは恥じ入りながら、ごめんなさいとみんなに頭を下げた。それにしても、何だって正解を言うわけ? 兄貴は馬鹿だと思ってたけど、やっぱり頭がいいのかな?
「お兄さんてロマンチストなんですね」
久美がお愛想を言うと、ほんまじゃねと久美のお母さんもおかしそうにうなずいた。素直な兄貴が照れまくって、それほどでもと言ったら久美たちが笑ったので、兄貴もよくわからない様子で一緒に笑った。
「あ、風船!」
観光客の一人が叫んだ。見ると、窓の外を赤い風船が一つ、すーっと空へ昇って行く。下の広場で子供が手放してしまったらしい。風船が!――と叫びながら風船を見上げる子供が見えた。
目を風船に戻すと、風船の向こうにある白い雲が目に入った。真っ青な空をのんびりぷかぷかと浮かんでいる。わたしはその雲と心が通じ合った気がした。
うれしくなったわたしは、思わずみんなを振り返った。
「ねぇ、今ね、雲が笑ったよ。あそこの雲がね、わたしたちを見て笑ったんだよ」
兄貴と久美のお母さんはもちろん、久美までもが眉間に皺を寄せている。
わたしは久美の手を引いて青空を見せた。久美にだけはわかって欲しかった。でも、さっきの雲がどれだったのかがわからない。
うろたえるわたしを見て、久美は笑った。
「構ん構ん。春花はうちをびっくりさせてばっかしやけん、うちは春花を信じよわい。ほれにうちにもな、雲も青空も全部が笑とるみたいに見えるで」
「ほんとに?」
久美はうなずくと、今自分は生きているんだという実感があると言って、一つの雲を指差した。
「なんかな、おばあちゃんがあの雲に乗って、うちに話しかけとるような気ぃするんよ」
「へぇ。それでおばあちゃん、何て言ってるの?」
久美はうれしそうな顔でわたしに言った。
「雲が笑ろとるように見えるんはな、あんたの心が笑顔やけんよ――て」
きっと久美の言うとおり、あの雲には久美のおばあちゃんがいて、久美に話しかけたのだろう。おばあちゃん、今の久美を見て喜んでいるんだろうな。
そして、わたしもまた最高に幸せに違いない。だって、青空も白い雲も全部が笑ってるもの。
(了)