鏡の中のわたし
「今日はがんばったね。あなたがリレーに出るなんて、お母さん、鼻が高いわ」
スーパーで買ったお寿司をつまみながら、母はわたしを褒めてくれた。だけどわたしには、運動会を見に来るのが遅くなった言い訳をしているように聞こえた。
それでもリレーは見てもらえたのだ。文句を言うのはやめにしよう。正直、走る姿を母に見てもらえたことは、わたしもうれしかった。
驚いたのは、兄貴までもが駆けつけてくれたことだ。何でも、部活の練習が午前中で終わったので、同じ中学校の卒業生たちと一緒にのぞきに来たそうだ。
いつもの兄貴はわたしなんかに関心がない。だから来てくれるとはこれっぽっちも思っていなかった。だけど朝食のときに、わたしが午後の部でリレーに出ると母から聞かされて、絶対に見に行くと母には言ったらしい。
そんなこと、わたしはちっとも知らないから、リレーが終わってクラスの席に戻ったとき、兄貴が仲間と声をかけに来てくれたので、びっくりしたしうれしかった。
だけど家に帰って来ると、兄貴はいつもの素っ気ない兄貴に戻っていた。
兄貴は三つ目のマグロを口に放り込むと、口をもぐもぐさせながら言った。
「ほんと、大したもんだ。どん亀のお前がリレーに出るなんてな。それにしても、なんでお前なんかがリレー選手に選ばれたんだ?」
昼間の兄貴はどこへ行ってしまったんだろう? 自分が運動が得意だからって、偉そうに上から目線で言わないで欲しい。それにマグロは一人二つのはずだ。忘れているのか、わかった上で食べているのか。兄貴のことだから、絶対にわかって食べている。
わたしは急いで自分のマグロを確保すると、くじ引きだと言った。
口の中身を飲み込んだ兄貴は、驚いた顔をした。
「くじ引き? お前のクラス、みんな勝ちたくないの?」
兄貴の言い分は当然で、わたしだってそう思ってた。だけど、山田早紀以外は誰も手を上げなかったから仕方がない。それでも当たりくじを引いたときには、人生終わったと思ったほど気分は落ち込んだし、わたしに決まったことで、もうだめだと言うやつもいた。
だけど、走ってみたら楽しかった。あれだったら、もう一度走ってもいいくらいだ。それは走るのが好きになったということではない。楽しかったのには理由があった。
男女混合リレーは男女が交互に走る。選手は五人で、わたしは第四走者だった。
第一走者の男子は三位だったけど、第二走者の山田早紀の活躍で、第三走者の男子は、なんと一位で走って来た。だけどバトンを渡されたときに、わたしはバトンを落としてしまい、おまけに足が遅いから一番びりになった。
それでも、最後の走者である谷山健一郎が猛ダッシュで走り、二位の二組を追い抜いて、一位の三組とデッドヒートとなったのはすごかった。
結局、うちのクラスは二位に終わった。わたしがバトンを落としてなければ、一位になれたのにという非難の視線が、何人かの女子からわたしに向けられた。それで、とても肩身の狭い思いをしていたところに、兄貴が来てわたしをねぎらってくれたわけだ。お陰で女子たちの雰囲気もガラリと変わった。これについては兄貴に感謝するべきだろう。
だけど本当はそれほどには落ち込んではいなかった。
競技が終わったあと、谷山がわたしをかばって慰めてくれた。何人かの女子がわたしをにらんだのは、それに対するやきもちもあったのかもしれない。
もっとうれしかったのは、二組の第四走者が久実だったことだ。
足が遅い久実が一〇〇メートル走に出されたのは、二組の生徒からの嫌がらせだ。でも、リレーにわざわざ足の遅い者を選ぶとは思えなかった。
最初は久実もわたしみたいに、偶然くじ引きで決まったのだろうかと思っていた。だけど久実から話を聞くと、本当は別の子が出る予定になっていたらしい。ところが、その子が昼休み中に走り回って転んでしまい、足を挫いたために先生の指名で久美が急遽出場することになったと言う。
それにしても、先生までもが久実に恥をかかせようとしたのかと、わたしは心の中で憤慨した。でも事実はそうじゃなくて、急なことで誰も競技に出たがらず、困った先生が仕方なく、一〇〇メートル走に出場した久実に頼んだらしい。
もちろん久実は初めは辞退したそうだ。だけど、先生に何度も頭を下げられて断れなかったみたい。それで、負けても構わないという約束で出たところが、隣にわたしがいたというわけだ。
屋上で一緒にお弁当を食べたときには、お互い他の話に夢中だったので、午後のリレーに出ることを、わたしは久実には話していなかった。だから、久美もとても驚いていた。
競技前に入場門に集まったとき、お互いの存在を知ったわたしと久実は、手を取り合って喜んだ。それを見た周囲の他の子たちは、一様に妙な目をわたしたちに向けた。それでもわたしたちはそんなことは気にせず、一緒になれたことや、お互いに足が遅いことではしゃぎ続けた。
わたしはバトンを落としたけど、久実はバトンを落とさなかった。だけど、ちゃんと受け取るのに手間取ってしまい、わたしと久実は、ほとんど同じような位置関係で走ることになった。でも正確に言えば、久実の方がちょっとだけ速かった。それで、わたしはビリだったわけだ。
最終走者にバトンを渡したあと、わたしと久実は互いの健闘を讃え合った。走るのがこんなに楽しかったのは初めてだと久実は言ったけど、わたしもまったく同感だった。
でも、ライバルであるはずの久実とはしゃいでいたことは、他の選手たちには面白くなかったらしい。競技が終わったあと、もっと真面目にやれと早紀に文句を言われた。だからわたしは、久美が転校生でまだ新しい学校に馴染んでいないからと説明した。
すると、お前はいいやつだな――と谷山が褒めてくれた。谷山の方こそ、ほんとにいいやつだ。
そんな経緯は母にも兄貴にも話していない。でも二人とも見るものはしっかり見ていたらしい。わたしが親しくしていた紫色のズボンの生徒は誰なのかと、母は興味深げに聞いた。兄貴も寿司に手を伸ばすのをやめて、わたしの言葉を待った。
わたしは久実のことを説明し、二人で一緒に屋上でお弁当を食べた話もした。すると母は、これからも力になってあげるようにと言ってくれた。
兄貴もわたしを褒めてくれた。それはわたしたちが出入り禁止の屋上で、勝手にお弁当を食べたということに対してだ。さすがはオレの妹だと兄貴は言うんだけど、久美のことは褒めてもらうようなことじゃないから、まぁいいか。
ところでさ――と兄貴はわたしのマグロに手を伸ばしながら言った。わたしがマグロを避難させると、兄貴は隣にあったハマチを取った。それもわたしの取り分だ。
「ちょっと、お兄ちゃん。それ、わたしのハマチでしょ?」
「お前がマグロしか取らないから、いらないって思ったんだよ」
兄貴は惚けながらハマチを口に放り込んだ。そのままもぐもぐしている兄貴に、何がところでなの?――と母が言った。
兄貴はハマチを飲み込むと、にらんでいるわたしに言った。
「お前がバトンを渡した最終ランナーさ、あいつ、お前に気があるんじゃないのか?」
「え? なんで?」
「オレ、お前に声をかける前に見てたんだけど、あいつ、お前のことを慰めてただろ? 他のやつらがいる前であんな風に慰めるのって、そうはいないぜ。たぶん、あいつ、お前に惚れてるな。間違いない」
わたしは顔がカーッと熱くなった。熱は頭の中にも浸透し、焦げつきそうになった思考回路が、反射的にわたしに言い返させた。
「何があいつよ。そんな上から目線で言うなんて、谷山くんに失礼でしょ!」
「何、むきになってんだよ。もしかして、お前もあいつに惚れてるのか?」
「何でわたしが、あんなやつに惚れないといけないのよ。あいつはね、誰にだって優しいの。だから、クラスの女の子には一番人気があるし、わたしなんかが好きになったって、その――」
「お前、自分が何喋ってんのか、わかってる? 支離滅裂だぞ」
まあまあ、いいじゃないの――と母が二人の間に割って入った。
「いいわよね、青春って。そんな風にしてられるのも、今のうちだけよ。現実はきびしいんだって、大人になって社会に出たらわかるから」
母はもっと食べろとうながした。
それでわたしがハマチにしようか、サーモンにしようかと迷っていると、パッと兄貴がわたしのサーモンをつまんで口に放り込んだ。あっと思っていると、兄貴は頬を大きく膨らませたままハマチも取った。さっきも取ったから、もうわたしのハマチはない。
「もう怒った!」
わたしは立ち上がると、兄貴の前に残っていた寿司を、三つまとめてつかむと、そのまま口に詰め込んだ。もう何を食べてるのかわからない。これは戦争だ。
ところが兄貴はやり返さなかった。口の周りを飯粒だらけにして、ふぐみたいになったわたしを見て、腹を抱えて笑った。
「これがお年頃の娘かよ……、その顔……、谷山ってやつに見せてやれ……」
「二人とも好い加減になさいね!」
母が怒りながら噴き出した。ひどいよ、お母さんまで!
わたしは二人の前から逃げて洗面所へ行った。だけど、口に入れた物を吐き出すわけにはいかず、そのまま鏡を見ながらもぐもぐ食べた。急いで飲み込みたいけど、喉に詰まりそうになるから、少しずつしか飲み込めない。
鏡に映った自分を見ると、確かにおかしい。自分でも笑いそうになったり泣きそうになったりしながら、わたしは何とか口の中の物を飲み込み終えた。
わたしが洗面所にいる間に、笑いが収まった兄貴は母と喋っていた。兄貴は父と母がどこで知り合ったのかと聞き、お見合いをしたと母は言った。
「こっちで暮らしてた伯母が世話好きな人でね、この人なら絶対に間違いないからって言うから、あんまり深く考えないままお見合いして、その流れで結婚したのよ。その頃は、周囲の人たちが次々にお見合い結婚してさ。そうするのが普通なんだって思ってたの」
わたしが洗面所から戻っても、兄貴は関心がないみたいに母との会話を続けた。
「その結果は? 伯母さんの言うとおりだった?」
母は質問に答える前に、わたしにお寿司は一つずつ食べるようにと釘を刺した。
わたしの前には、兄貴に取られたはずのハマチとサーモンがあった。母が自分の分を置いてくれたようだ。
「お母さん――」
「いいから食べなさい。これは、がんばったあなたへのご褒美よ。だけど、一つずつよ」
もう一度母が念を押すと、さっきのわたしの顔を思い出したのか、兄貴がまた笑い出した。
わたしは兄貴をにらんだあと、お見合いの話?――と母に尋ねた。
うなずいた母は兄貴に顔を向け、伯母さんの言うとおりだったと言った。
「あなたたちのお父さんは、ほんとにいい人よ。あなたたちのために、身を粉にして働いてくれてるでしょ?」
この言い方が少しわたしを刺激した。あなたたちのためにじゃなくて、兄貴のためなのに。わたしはちょっと皮肉を込めて母に聞いた。
「ねぇ、お兄ちゃんは大学へ行くんでしょ? わたしも大学に行ってもいい?」
「何言ってんのよ。まだ高校も入ってないのに、なんで大学なの? その前に高校へ入んないといけないでしょ? ちゃんと勉強してるの?」
兄貴が一緒になって偉そうに言った。
「そうだぞ。お前の成績だと入れる高校だって限られるぞ。て言うか、入れないかもな」
「あ、お兄ちゃんまでそんなこと言う?」
「お兄ちゃんだから言ってんの!」
母は笑いながら、わたしたちをなだめた。
「まあ、学校がすべてじゃないからね。大学なんか行かなくたって、生きて行く道はいくらでもあるから」
「それって、わたしなんか大学へ行かなくてもいいってこと?」
「無理に行く必要はないって言ってるの。大学に入るのは大変でしょ?」
「そうそう。他に好きなことができるかもしれないし、好きな男ができるかも――」
あ、もう好きな男はいたか――と兄貴はわざとらしく自分の頭をたたいて笑った。
わたしは兄貴をにらみつけ、兄貴の前にあった寿司を二つ取った。それは兄貴の好物のイカとウニだ。
「あ、やりやがったな!」
イカとウニを続けて口に入れたわたしは、兄貴を挑発した。
「だまぁみど、ブヮーカ!」
「ちょっと、春ちゃん。女の子なのに下品よ」
「母さん、これはそういう問題じゃない!」
兄貴がこちらの寿司に手を伸ばそうとするのを、わたしは両手でブロックした。
「何だよ、こいつ。ダイエットしてたんじゃねぇのかよ!」
はっとしたけど、もう遅い。でも、たまにお寿司ぐらい、たくさん食べたって大丈夫だろう。それに今日はめでたい日だ。久美という親友ができたのだから。久美は今、どうしてるんだろう? お母さんの熱は下がったのかな?
わたしは兄貴を警戒しながら、ゆっくりと口の中身を飲み込み考えた。
もし久美のお母さんの熱が下がっていなければ、せっかくの日なのに久美たちはコンビニ弁当かもしれない。それでも久実はきっと、運動会が楽しかったとお母さんに報告しているだろう。そのことは、何よりお母さんを喜ばせたに違いない。
ダイエットなんかするもんじゃない。この夜は食べ過ぎて具合が悪かった。だって、母の分まで食べてしまったのだから。いくらご褒美だからって、母への配慮が欠けていた。それでバチが当たったのだろう。
わたしは布団の中でお腹をさすりながら、何度も身体の向きを変えた。
どうしても眠れないので、わたしはベッドの上に起きると、枕元の電気をつけた。すぐ横の机の上に、小さな鏡が置いてある。それを手に取り、わたしは自分の顔を映した。
薄暗い部屋の中に、ぼんやりと浮かび上がった顔。痩せたようでも、やっぱり丸い。もしかしたら、お寿司を食べすぎたから、顔が元に戻ってしまったのだろうか?
こんなことでは、真弓たちに何を言われるかわからない。それに谷山だって、やっぱりスラッとしたきれいな子がいいんだろうな。
久美と友だちになれたことや、谷山と一緒に二人三脚とリレーに出られたことで、少し有頂天になっていた。よく考えてみれば、わたしは何も変わっていない。
わたしはちっとも可愛くないし、勉強も運動もだめだ。
兄貴も谷山もイケメンで女の子たちから人気だし、真弓も百合子も美人だから、何をやっても許される。だけど、わたしはそうじゃない。
わたしは顔の角度を変えながら、鏡に映った顔を眺め続けた。下から照らす明かりのせいで、鼻や顔の窪みが大きな影を作り、昼間見ても変な顔が余計に変に見えて来る。もう口にお寿司は詰め込んでいないのに、あのときと同じみたいな顔だ。
「ブス」
わたしは鏡の中の自分に悪態をついた。
――あなた、わたしが嫌いなの?
悲しそうな顔をした鏡の中のわたしが言った。本当は自分の独り言だ。
「嫌いだよ、お前なんか。何で、もっと可愛く産まれて来なかったのさ。可愛かったら、勉強ができなくたって、運動が苦手だって、みんなが優しくしてくれるのに」
――本当にそう思ってるの?
一瞬怒ったように見えた鏡の中の顔が、泣き出しそうな顔になった。
ただの鏡遊びのはずなのに、胸の中に悲しみが込み上げて来る。それで却ってわたしは意地になり、鏡の中の自分に文句を言い続けた。
「本当だよ。お前なんか嫌いだよ。ブスだったらブスなりに、何か取り柄があればよかったんだよ。だけど、何もないじゃん。もっと勉強できるとか、運動神経がいいとか、何か人より優れたものがあればいいのにさ。お前なんか、いいとこ一つもないじゃんか!」
鏡に怒りをぶつけながら、わたしは悲しくなって下を向いた。
――ごめんね。でもね、あなたはこの世でたった一人の、わたしの神さまなのよ。
え?――わたしはギクリとして顔を上げた。鏡の中の自分も驚いた顔をしている。
「今のは何? 今の、わたしが自分で喋ったんだよね?」
自分の問いに自分でうなずきながら、何だかすっきりしない。確かに、今のは自分で喋ってたとは思う。だけど、自分で考えて出て来た言葉じゃない。まるで、誰かがわたしの口を借りて喋ったみたいだ。いや、本当にこの口が喋ったのだろうか?
それに、神さまと言う言葉が引っかかる。前にも誰かに言われたような、そんな気がするんだけど、それがいつのことなのか思い出せない。
もしかしたら、これって魔法の鏡なのだろうか? そう思って、わたしは鏡をひっくり返したり、透かしたりして調べてみた。だけど、別に気になる所は見当たらない。そもそも百円ショップで買った鏡だから、魔法の鏡であるわけがない。
もう一度鏡の中をのぞいてみたけど、そこに映っているわたしは、何も喋ってくれなかった。
「わたし、あなたの神さまなの?」
尋ねてみたけど、やっぱり何も答えてくれない。いろいろ変な顔をしてみたら、鏡の中でも同じことをやっている。結局、全部わたしの一人芝居で、思わず出て来た言葉はただの妄想なのだろう。
わたしは鏡を机に戻すと、枕元の電気を消した。
今日はいろいろとうれしかった一日だったのに、締めくくりは切ないものになってしまった。