三人の仲間
わたしはふわふわ浮かんでいた。目の前には女の人が一人立っている。わたしのお母さんになる人だ。とっても優しそうな人で、その温もりがわたしに伝わって来る。まるで早く生まれておいでねって言われてるみたい。
お母さん、わたしを産んでくれるお母さん。わたし、早くお母さんの子供に産まれたいよ。ねぇ、お母さん。いつ、わたしを産んでくれるの? わたし、待ってるよ。お母さんがわたしを産んでくれるの、待ってるからね。
わたしがお母さんの子供になったなら、わたし、お母さんのこと、いっぱいお手伝いするからね。お母さんのためだったら、わたし、どんなことだってしてあげる。約束だよ。
お母さんはわたしに気づいたように振り返り、にっこり微笑んでくれた。お母さん、わたしのこと、わかってくれたんだ。大好きだよ、お母さん。お母さん……。
「お母さん……」
半分目を覚ましながら、わたしはつぶやいた。母の優しそうな笑顔が、まだ閉じたまぶたの内側に見えている。
突然、部屋の扉をドンドンとたたく音がした。わたしはびくりとなって目を開けた。
「おい、まだ寝てんのか? 今日は休みじゃないんだぞ! 早く起きろ!」
「うるさいなぁ、起きてるよ!」
わたしは扉に枕を投げつけた。階段をトントンと下りて行く兄貴の足音が憎らしい。足音が聞こえなくなると、代わりに兄貴の大きな声がした。
「じゃあ、行って来るよ。急がないと、今日は遅刻だ!」
「気をつけて行ってらっしゃい。急いでも事故しちゃだめよ」
玄関で兄を見送る母の声だ。わたしは慌てて目覚まし時計を見た。七時四十分を回ってる。いつもならとっくに家を出ている時間だ! わたしはベッドから飛び降りた。
「もう、何で鳴らないのよ!」
わたしは着替えながら目覚まし時計に悪態をついた。時計は確かに七時に合わせてあったけど、鳴ったのには気がつかなかった。いや、きっと鳴ったのを消して二度寝をしたに違いない。それでも起きるまで鳴り続けろと、わたしは勝手な文句を時計に言った。
急いで着替えを済ませたわたしは、鞄をつかむとドタドタと階段を下りた。食堂にいた母が呆れた顔でわたしを見た。
「いくら呼んでも返事をしないと思ったら、ほんとに寝てたのね?」
わたしは何も答えず急いで顔を洗い、牛乳も飲まずに家を出た。母が後ろで文句を言ってたけど、そんなの聞いてる暇なんてない。今日は久実と待ち合わせをしてるんだ。
おはよう!――道角で待っていた久実に、わたしは大きく手を振って駆け寄った。
「ごめん、待たせちゃった」
息を弾ませるわたしに、はにかんだような笑みを浮かべた久実は、おはよう――と小さな声で言った。
「走って来たん?」
「朝寝坊しちゃってね。運動会より速く走ったよ」
二人で笑うと、わたしたちは並んで歩き出した。他の生徒たちはみんな先へ行ってしまったようで、わたしたちの近くには誰もいない。
「昨日はいろいろありがとね」
「どういたしまして。それより、お母さんの具合はどう? よくなったみたい?」
「もう、だいたいええみたい。今日から仕事に出るて言いよった」
昨日、わたしは久実の買い物に付き合った。そのあと、いったん別れてそれぞれの家に戻り、それから久美はもう一度遊びに来た。そのときに、久美はお母さんがわたしを今度家に連れて来るようにと言っていたと教えてくれた。わたしも久美の家に遊びに行きたいと思っていたので、久美のお母さんの言葉はとてもうれしかった。
また、そのときに久美は自分の家の話を、わたしにいろいろ聞かせてくれた。
うちと同じように久美の家も共働きで、お父さんは休みにも仕事をするほど忙しい人らしい。だから一人っ子の久美は鍵っ子で、家に帰っても独りぼっちのことが多いそうだ。
うちの親が共働きをしているのは、兄貴の進学と家のローンのためだけど、久美の家では何のためにそんなに働いているのだろうと、わたしは思った。それとなくそれについて聞いてみると、新しい家を買うための資金を貯めるためだそうだ。
その話をするときの久美は、寂しさを無理に我慢しているように見えた。それはそうだろう。大人には大人の事情があるんだろうけど、子供にだって子供の望みがある。それを口にしたくてもそうできないのはつらいものだ。
特に兄弟がいない久美は本当に一人なんだから、そこは両親も考えてやればいいのにと思う。
せめて弟か妹でもいればいいのにねと言うと、久美は黙り込んで涙ぐんだ。やっぱり久美は必死に寂しさを我慢していたようだ。
わたしは久美を慰め、自分の父親の悪口を言った。久美の親のことは言えないからそうしたんだけど、久美は父親のことを悪く言ってはだめだと言った。
泣くほどつらい想いをしているのに、父親をかばおうとするなんて、久美はとても父親想いのようだ。それで、久美はお父さんが大好きなんだねと言うと、久美はうなずきながら涙をぽろぽろこぼした。
久美ってなんていい子なんだろうと思いながら、これからは二人でいっぱい楽しいことをしようとわたしは言った。
そのあと互いの祖父母の話になったけど、わたしはできれば祖父母の話はしたくなかった。
わたしの父の実家はそれほど遠くない。だから、たまに祖父母が訪ねて来る。でも、二人の関心は兄貴だけだ。いつも兄貴の学校の話や、大学受験の話ばかりする。
わたしのことは思い出した感じで、ちょっとだけ聞いて来る。それに答えると、またすぐに兄貴の話題だ。だから、わたしは父方の祖父母があまり好きじゃない。
一方、母の実家は北海道で、こっちの祖父母はわたしを可愛がってくれる。とは言っても、直接会ったのは小学校の一年か二年の頃に遊びに行ったときだ。遠いからめったに訪ねることはできないし、向こうから遊びに来ることもない。たまに電話で喋るぐらいがせいぜいだ。
お盆やお正月に訪ねるのは、いつも父の実家の方ばかりだ。どうして北海道へ行かないのかと母に尋ねると、お金がかかるし、自分はもう白鳥の人間だからというのが返事だった。母がそんなことを言うのは、絶対にこっちの祖父母のせいだと思う。普段の様子を見ていると、絶対そうに違いない。
そんな話をすると、久美はわたしや母を気の毒がった。
久美の方は、父方のおばあちゃんが一人いるだけだそうだ。母方のおじいちゃんとおばあちゃんは、久美が生まれる前に亡くなったらしい。
久美のお父さんは瀬戸内海の漁師町の人で、こちらのおばあちゃんは今もそこの家に暮らしているらしい。
おじいちゃんは漁師だったけど、二年前に事故で亡くなったそうだ。それからは、おばあちゃんは一人で暮らしているので、久美はおばあちゃんのことを心配していた。
おばあちゃんたちの子供は、久美のお父さんと伯母さんの二人だけだそうだけど、久美のお父さんは町に働きに出たので、おじいちゃんの後を継ぐ人はいなかったらしい。
おじいちゃんが亡くなったあと、お父さんがその家に戻るかという話があったそうだけど、そこにはお父さんの仕事がないので、戻ることにはならなかったそうだ。また、おばあちゃんもその町を出ることを望まなかったので、おばあちゃんは一人で暮らすことになったようだ。
それでも伯母さんという人が近くにいるそうだから、まったくの独りぼっちじゃないよねと言うと、久美は少しだけ笑って、ほうじゃねと言った。
おばあちゃんはどんな所に住んでいるのかと尋ねると、すぐ前が海だと、久美は懐かしそうに話してくれた。
瀬戸内海を日本地図で確かめてみると、本州と四国、九州に囲まれた海だということはわかった。だけど地図では、そこがどんな所なのかは全然わからない。そこを知る久美から説明されて、わたしは初めて瀬戸内海という海を思い浮かべることができた。
青空の下、右から左へずっと広がる水平線。あちらこちらに浮かぶ島々と、のんびり動く船。広い空には、やっぱり白い雲がのんびりと流れている。
青に緑が交ざった色の海と、釣りを楽しむ人たち。その近くをカモメが飛んでいる。
後ろの山にはパラグライダーの乗り場があって、時々パラグライダーに乗った人が砂浜に降りて来る。
ここは水平線に沈む夕日が絶景で、その夕日を見るためだけに訪れる人も多いそうだ。もう話を聞いているだけで、よだれが出そうなほど行きたくなってしまう。
いつか必ず訪ねてみたいと言うわたしに、久美はおばあちゃんから聞かされたという言葉を教えてくれた。それがまた、とても素敵な言葉だった。
「ねぇ、久美。昨日教えてくれたおばあちゃんの言葉、もう一回言ってくれる?」
「え? もういっぺん言うん?」
「お願い。伊予弁で聞きたいの」
久実は少し照れていたけど、何度も頼むと、夕日を眺めるように前を見つめて言った。
「夕日見てきれいじゃて思うんはな、あんたの心がきれいなけんよ。花見て素敵じゃて思うんはな、あんたの心が素敵じゃてことなんよ」
「それよ、それ! やっぱり伊予弁じゃないとね。それに何べん聞いても、いい言葉!」
わたしはほんとにこの言葉が好きだった。久美は照れ笑いをしながらもうれしそうだ。
「何か、春花と一緒におったら、うち、自信が湧いて来るわ」
「わたしも久美のおばあちゃんに会ってみたいなぁ」
「ほうじゃね。会えたらええね」
久美は微笑んだけど、もう会えないと思っているのかもしれない。何だか笑顔が寂しげに見える。それで、わたしは話題を変えることにした。
「そう言えばさ、わたし、今朝変な夢を見たんだ」
実は、ずっと喋ろうかどうしようかと迷っていた。わたしが見た夢は、兄貴が借りた本の馬鹿馬鹿しい話と同じだ。まさか自分がそんなものを見るとは思わなかったし、話して笑われるのが心配だった。
「変な夢?」
「自分が産まれる前の夢なの」
「産まれる前の? へぇ、面白そうやね。どがぁな夢やったん?」
久美は目を輝かせて話を聞いてくれた。
真弓たちだったら馬鹿にされたと思うけど、やっぱり久実は違う。不思議な夢じゃねぇ――と首を捻りながら、夢の意味を一緒に考えてくれた。でも、いくら考えても答が出るわけがない。結局、わたしたちは夢の意味を見出すのは諦めた。
久実は残念そうにしながらも、これまでにも何か不思議なことはなかったかとわたしに尋ねた。別にそんな経験はないはずだけど、わたしも真面目に考えてみた。それで思い出したのは、まだ幼稚園に行ってた頃か、その前か、とにかくわたしがとても幼かった頃、わたしはスーパーの中で迷子になった。
覚えているのは、人がたくさんいる広いお店の中で、母の姿を見失ったことだ。わたしは心細くて半べそをかきながら、あっちこっちを走り回って母を探していた。
喋っていると、さらに思い出した。そもそも、そんなことになったのは兄貴のせいだった。お店の中で一緒に鬼ごっこをしていた兄貴が、わたしを置いていなくなったのだ。
母も兄貴も見つからず、わたしが声を出して泣きそうになったとき、こっち――と言う誰かの声が不意に聞こえた。でも、こっちと言われても、どっちなのかがわからない。
どっち?――と姿の見えない相手に尋ねると、後ろ――と声がする。
そっちへ行って商品棚の角まで行くと、そこから左だの右だのと声が続き、最後には兄貴がわたしを見つけてくれた。
何かに気を取られてわたしを見失った兄貴は、母にかなり叱られたみたいだった。わたしの所へ駆け寄って来ると、勝手にどこかへ行くなよと文句を言った。
そんなこと、今の今まで忘れていたし、あのときは、あれが誰の声なのかなんて考えもしなかった。それほど、あのときのわたしは幼かったのだろう。
久実は興奮した様子で、他にはないかと言った。わたしは額に指を当てながら考えたけど、他には何も思い出せなかった。
「春花、今日は遅かったじゃない」
「ぎりぎりセーフってとこね」
真弓と百合子が寄って来て、わたしの様子をうかがった。じろじろ見られるので、何よと言うと、二人は口を揃えて、別に――と言った。
わたしが構わず自分の席に着くと、二人は後ろについて来てわたしの机の横に立った。
「ねぇ、春花は昨日は何をして過ごしたの?」
真弓が意味ありげな顔で聞いた。
「昨日? 別に何もしないよ」
「ふーん、じゃあ、何でうちのマンションに来たのに、そのまま帰っちゃったの?」
やばい。見られてたんだ。わたしは焦ったけど、できるだけ何でもない顔をした。
「見てたのか。だったら声をかけてくれたらよかったのに。あれはね。ちょっと家に忘れ物を取りに帰ったの。だけど見つからなかったから、もういいやって諦めたんだ」
「忘れ物って何よ?」
今度は百合子が言った。わたしの話なんか信用してないみたい。もしかして久実といるところを見られたのかと、ちょっと心配になった。でも、ここは強気で行くしかない。
「兄貴がね、日曜日の夜にクッキーを焼いたんだ。だから、それをお裾分けしようと思って出たのに、肝心のクッキーを忘れてしまったからさ」
「ほんとに? お兄さん、クッキーなんか焼くの?」
百合子の声に、他の女子生徒たちも集まって来た。真弓も身を乗り出して、ほんとに?――と迫って来た。どうしようと思ったけど、もう嘘をつき通すしかない。
「初めて焼いたの。それで真弓たちの分を取っておいたのに、帰って戸棚を見たら、置いてあったクッキーがなくってさ。あとで聞いたら、兄貴が学校へ持って行ったんだって」
「あんた、それはあたしたちにくれるクッキーだって、お兄さんに言ってなかったの?」
真弓は本気で怒ってるみたい。百合子も顔が引きつっている。
「ごめん。まさか、兄貴がわたしの分を持って行くとは思ってなかったから……」
「ごめんじゃ済まないよ。ああ、あたし、お兄さんの焼いたクッキー食べたかった」
「あたしも食べたかった」
二人して襟首を絞めるので、わたしは咳き込みながら、わかったからと言った。
「次は絶対に持って行くから。それでいいでしょ?」
「次って、いつよ?」
にらむ二人に、わたしは近いうちにと言った。だけど、それじゃあ許してもらえず、今度の日曜日に真弓の家に、クッキーを持って行くことになった。
本鈴が鳴った。先生が教室に入って来ると、みんな慌てて自分たちの席に戻った。
真弓と百合子は椅子に座ってからも、必ずだからね――と目で訴えて来た。わたしは小さくうなずいたあと、すぐに嘘をついてしまう自分を呪った。
よく考えれば、真弓の部屋の番号がわからなかったと、正直に言えばよかったのだ。それを咄嗟に嘘をついてしまったのは、真弓たちとは遊ばず久美と遊んだことの、後ろめたさがあったからに違いない。わたしは嘘をついた後悔と今後の不安でいっぱいになった。
休憩時間になっても真弓たちの目が気になって、わたしは久美に会いに行けなかった。すると、廊下に出て来た久美が、窓越しにわたしを探す姿が見えた。
すぐに出ようと思ったけど、真弓たちに引き留められて、わたしは教室を出ることができなかった。久美は残念そうにしながら、自分の教室へ戻って行った。
次の休み時間も、久美がわたしの方を見ながら廊下を歩いて行くのが見えたので、わたしはトイレに行くと言って教室を出ようとした。そしたら真弓たちもついて来たので、久美には小さく手を振るしかできなかった。
その次の休み時間になると、わたしはすぐさま教室を飛び出した。二組の前に行くと久美の姿が見えたので、わたしは外にいると手で合図した。
校舎の玄関へ行くには、もう一度一組の前を通らなければならない。でも、それでは真弓たちに見られてしまうから、わたしは三組の前を通り過ぎ、そのまま突き当たりの戸口から外へ出た。本当は上履きで出てはいけないのだけど、そんなことは言ってられない。
すぐに久美がやって来たので、わたしは手招きして久美を外へ出した。
怪訝そうな久美にわたしは言い訳をした。
「いつもわたしをつかまえて放さないのがいるから、ここまで逃げて来ちゃった。私に会いに来てくれてたのに、ごめんね」
「ほれは構んけんど、春花、人気者なんじゃね」
「いや、人気者っていうんじゃなくって……」
わたしが言葉を濁すと、久美は一度は見せた笑みを引っ込めた。
「じゃあ、何?」
「人気者の下っ端」
「何ほれ?」
「だから言ったでしょ? わたし、相手に合わせてばかりだったって。ほんとはそうしたくなくっても、相手の言うことになかなか逆らえなくってさ。向こうは人気者だし」
「春花も大変なんじゃねぇ」
苦笑する久美に、わたしはきっぱり言った。
「だけどね、それはこれまでの話。わたしには久美がいるから、今までの自分とはおさらばするんだ」
「ほやけど、大丈夫なん? うちのせいで春花が気まずいことになったら、うち困るし」
「大丈夫だって。でも、あんまり突然なこともできないから、またさっきみたいなことになるかもしんないけど、そのときはごめんね」
久美は笑顔で手を振った。
「構ん構ん。うちのことやったら気にせんでや。うち、春花に会えんでも、うちには春花がおるて思うぎりで元気出るけん」
「ありがとう! 久美、大好き!」
わたしは久美の両手を握ると、久美を抱きしめた。
「ところで、今日は誰かに意地悪されなかった?」
「まだ、そがぁにはされとらんよ」
「もしひどいことされたら、わたしに言ってね。わたし、クラスは違うけど、怒鳴り込みに行くから」
「だんだん。ほやけど、大丈夫。今も言うたけんど、前と違て、うちには春花がおる。そがぁ思たら、他の誰かに何ぞ言われたかて平気やけん」
何とうれしいことを言ってくれるのだろう。わたしはもう一度久美を抱きしめた。
昼休みになると、わたしは急いで昼食を済ませて外へ出ようとした。もたもたしていたら、真弓たちがついて来る。
まだ食べ終わっていない真弓と百合子は、そんなに急いでどこへ行くのかとわたしに声をかけた。わたしは部活の準備だとだけ言うと、教室を出て二階にある美術教室へ向かった。そこは誰もいないし、わたしは美術部だから誰にも不審に思われない。
教室の中で待っていると、しばらくして久美がやって来た。久美もこの教室は知っているはずだけど、こんな時間に入るのは初めてだった。きょろきょろしながら、秘密基地みたいだと言って喜んでいた。
わたしは昨日見せられなかった自分の作品を久美に見せた。久美はそれらを眺めて感心しながら、自分も美術部に入ればよかったと言った。
久美はテニス部だけど、ほんとはテニス部でなくてもよかったらしい。前の学校でテニスをしていたと言ったら、担任の先生にテニス部へ入れられたと久美はぼやいた。入部はつい先日のことだったそうで、わたしともう少し早く知り合っていれば、絶対に美術部にしていたと久美は残念がった。それはわたしにしても、とても残念なことだった。
放課後、部活動の時間になると、わたしは美術教室の窓際に陣取った。そこからだとテニスコートが見える。
テニス部は男子と女子に分かれていて、隣り合ったコートで練習する。テニス服に着替えた生徒たちが、ぞくぞくとコートに集まって行く。その中にみんなと違う紫色のズボンの女子生徒がいた。久美だ。
久美が前の学校のズボンをはいているのは、注文した新しい体操服とズボンが、業者の手違いでまだ届かないからだそうだ。テニス服については、まだ入部して間もないから買ってないと久美は言っていた。
前の学校で使っていたテニス服はないのかと尋ねたら、松山では一年生部員は全員が、体操服で練習をしていたらしい。
テニス服をまだ購入していないのなら、テニス部をやめて美術部に鞍替えするチャンスだけど、そんなことはなかなか言い出せるものではない。それでも、いずれは久美が美術部に移って来ると期待して、わたしはテニスコートを眺めていた。
遠いから一人一人の顔まではわからないけど、体型や大きさなどから谷山健一郎はわかる。クラスが違うのに、久美に向かって手を上げている。なんだ、谷山のやつ、久美のことを知ってたんじゃないか。
ちょっと複雑な気持ちで眺めていると、白鳥!――と先生の声が飛んで来た。
「さっきからよそ見ばかりして。いつになったら始めるんだ?」
すみませんと頭をすくめると、わたしは体を前に向けた。そこにはデッサン用の彫像が置かれてある。他の部員たちは、すでにデッサンを始めている。今日は気が乗らないが、やるしかない。
わたしはデッサンをしながら、時々先生や他の部員たちの様子をうかがった。
これまでもみんなを眺めているときに、何かが目に浮かんだことは一度もない。こうして改めて眺めてみても、やっぱり何も浮かんで来ない。目に見えるのは、みんなの普段どおりの姿だけだ。
昨日、久美の絵を描いたときに見えたものは、気分がとても高揚したために思い浮かんだだけに違いない。それでも、久美があれだけ感激してくれたから、ちょうどよかったと言うか、あんな絵が描けてラッキーだったと思う。もう一度描けと言われても、描ける自信はない。
それにしても、あのとき久美はどうして泣いたんだろう? まだ理由は聞かせてもらっていないけど、とにかくこれからも久美の力になってあげなくっちゃ。
夕方になり、壁の時計を見ると、五時になるところだ。
「そろそろ終わりにしよう」
先生が声をかけると、みんなは道具を片づけ始めた。
ちらちらとテニスコートを見ていたので、今日のデッサンはまるでだめ。のぞきに来た先生も、何も言わなかったけど渋い顔をしていた。絵に集中できていなかったのは、ばればれに違いない。
窓から外を見ると、テニス部はまだ練習を続けている。片づけを終えたあとも、久実たちの様子を眺めていると、高橋早苗が声をかけて来た。
「白鳥さん、帰らないの?」
早苗は美術部員であると同時に、クラスメイトでもある。将来は漫画家になりたいそうで、教室にいるときはノートに落書きをして楽しんでいることが多い。
この落書きが可愛らしくて本当に上手い。わたしなんかと違って、早苗には絶対に絵の才能があると思う。
だけど、早苗は引っ込み思案で目立つことが好きじゃない。運動会でも百合子と同じ理由で、選んだ競技はダルマ競争だった。それで、百合子と同じように素っ転んでしまい、思いきり目立ってしまった。そのことを早苗は今日も大いに恥じていた。
早苗は真弓たちと同じ小学校にいたけれど、昔から真弓や百合子が苦手だったと言う。だから真弓たちと仲よくしているわたしに、敬意を払ってくれているようだった。
そのせいなのか、早苗がわたしを呼ぶときは、名前で呼ばずに白鳥さんという言い方をする。でもわたしは逆に早苗のことを、サッチーと愛称で呼んでいる。ちなみに、早苗をサッチーと呼ぶのはわたしだけだ。
うん、帰るよ――と言いながら、わたしの目はテニスコートに向いたままだった。
テニス部はようやく練習が終わったようだ。部員たちがコートに集合して、先生の話を聞いている。あれではいつ解散するかわからない。
解散したあと、部員たちは汗を拭いたり、服を着替えたりしないといけないから、久実が解放されるのはまだまだ先だ。
早苗の家は久実のマンションより、もう少し離れた所にある。だから、早苗は自転車で通学している。朝の登校は一緒じゃないけれど、部活が終わったあとは、わたしと別れる所まで自転車を押しながら一緒に帰るのがいつものパターンだ。
わたしは窓辺から離れると、部室の入り口で待つ早苗の傍へ行った。
早苗と一緒に校門を出たあとも、わたしは久美のことが気になった。部活のあとに一緒に帰るという約束はしていないけど、きっと久美はそのつもりに違いない。
何度も後ろを振り返っていると、どうかしたの?――と早苗が尋ねた。
わたしは迷いながらも、久実のことを話してみた。すると早苗は、久美が出て来るのを待っていようと言ってくれた。
わたしは早苗のことを見直した。これまでは同じ部活動をしているクラスメイトぐらいの感覚しかなかった。でもこのときから、早苗はとても近い存在になった。
久実を待つ間、わたしは早苗にも今朝見た夢の話をしてみた。すると、早苗もとても興味を持ってくれた。そして、自分も母親のお腹の中にいたときのことを覚えている気がすると、早苗は言った。
驚くわたしに早苗が語ってくれたのは、ザーザーという心地よい音が聞こえていて、時々誰かの話し声がしたり、温かい気持ちが伝わって来た記憶があるという話だった。
まだ言葉なんかわからないはずなのに、話し声が自分にかけられたものであることや、大好きだよとか、早く産まれておいでねと言われているのが、早苗にはわかったそうだ。
こんな話をすれば頭がおかしいと思われるだろうから、誰かに聞いてもらいたくても話せなかったと、早苗は言った。それで、わたしと話ができたことを喜んでくれた。
しばらくすると、運動部の生徒たちがぞろぞろと校門から出て来た。帰る方向が別の者たちは、ここで互いに別れの声をかけ、それぞれ同じ方へ帰る者同士で行ってしまう。
中にはうちのクラスの者もいて、校門にいるわたしと早苗を見ると、こんな所で何をしているのかと言った。どうでもいいお喋りだと答えると、大概がふーんと訝しげにしながら帰って行った。でも谷山は違った。
谷山はわたしたちに声をかけると、絵のことを聞いて来た。早苗は恥ずかしがって喋らないので、仕方なくわたしが谷山の話相手になった。
そこでわたしは久実のことを知っていたのかと、少し責めるようにして谷山に確かめてみた。谷山はどぎまぎした様子で、まぁなと言って笑った。その笑顔は何だかわたしの胸に突き刺さった。
そろそろ久実も出て来る頃だと思っていると、真弓と百合子が現れた。それで谷山が、じゃあな――と帰って行ったので、わたしは真弓たちが憎らしくなった。
二人とも運動が苦手なくせに、自分たちだけでバトミントン部を立ち上げた。でも、ほとんど遊びみたいな練習で、堂々と体育館を使わせてもらうほどではない。運動場の隅っこで、二人で羽根を打ち合う程度だ。
そんな二人だから、運動部員としては全然目立たない。それでわたしの頭の中から、二人の存在がすっぽり抜け落ちていた。
突然の二人の登場に早苗もひどく驚いたようで、早苗はそっとわたしの後ろに隠れた。
何を喋っているのかと尋ねられ、わたしは絵の話だと答えた。真弓たちが早苗を見て、漫画ね――と言うと、早苗が困ってわたしを見た。
文化祭で展示する絵のことだと、早苗に代わって話しながら、わたしは校門の中に目を遣った。すると、服に着替えた久実が一人でとぼとぼやって来る。このまま久実がここへ来たら、面倒なことになりそうだ。
わたしは、そうだ!――とわざと大きな声を出した。
「わたしね、ちょっと忘れ物して来ちゃった」
「な、何を……?」
一人置いて行かれると思ったのか、早苗は不安げな目をわたしに向けた。
「ちょっとね。でも、すぐ戻って来るから待ってて」
泣きそうな早苗を残し、わたしは走ってその場を離れた。すると、久実がわたしに気がついて手を上げた。
わたしは口の前に指を立て、校舎へ戻るよう指で示した。久実はきょとんとしていたけど、わたしが横を走り抜けると、黙って後をついて来た。
校舎の中に入ると、わたしは早苗と二人で久実を待っていたことを告げた。ただ、ちょっと話が合わない者もいるので、その人たちがいなくなるまで待って欲しいと頼んだ。
人気者の人たちかと久美が聞くので、そうだと答えると、久美は笑って、わかったと言った。そして、わたしが呼ぶまで校舎に隠れていることになった。
わたしは急いで早苗の所へ戻った。早苗は小さくなって真弓たちと喋っていたが、わたしに気づくと怒ったような目を向けた。
「ごめん、ごめん」
「あんたってほんとに忘れんぼだね。今度は何を忘れたの?」
百合子が呆れ顔で言った。隣の真弓も渋い顔だ。
だけど、部活中に描いたクッキーのデザインだと言うと、途端に二人は目を輝かせた。
見せて欲しいとせがまれたけど、そんな物などあるはずがない。わたしはまた適当な説明をして、部室は鍵がかかっていたから、描いた用紙を取り戻すのは明日だと言った。
それは自分たちがもらえるクッキーかと真弓が言った。もちろんと答えると、真弓たちは残念がりながらも、兄貴のクッキーをもらえることを早苗に自慢した。だけど早苗がきょとんとしているのでつまらなくなったのか、そろそろ帰ると言った。
二人が行ってしまうと、早苗はわたしに文句を言った。
「ひどいよ、白鳥さん。わたしを一人にするなんて!」
「ごめん。さっき、そこまで久実が来てたのよ。でも、真弓たちは久実のこと、よく思ってないみたいだからさ。わたしが呼ぶまで校舎で待ってるよう、久実に伝えて来たの」
「そうだったの。でもね、嘘をつくのはよくないと思うよ」
「嘘って?」
「さっき、あの二人に嘘ついたでしょ?」
「ああ、そのことか。でも仕方がなかったんだ。勘弁して」
いつもは引っ込み思案で、自分の意見をなかなか言わないのに、このときの早苗は違っていた。それでも、それ以上は何も言わなかった。
わたしは校舎へ戻って久実を連れて来た。紹介された早苗はがちがち状態で、久実にぺこりと頭を下げた。久実の方も少し緊張してるようだった。
でも、早苗は漫画家になる予定だと教えると、久実は興味深げに早苗に話しかけた。それで二人はすぐに打ち解けたようだったので、わたしはほっと安堵した。
三人であれこれ喋っているうちに、実は自分で描いた漫画の作品が家にあると、早苗が言った。そんな話はクラスの誰も知らない。
わたしと久実が見たい見たいとせがむと、早苗は恥ずかしそうに笑って、今度家に来てくれたときに見せると言った。
早苗は絵を描くことではクラスの人気者だった。でも、それ以外では影が薄くて目立たない。部活のあとにわたしと一緒に帰るときだって、こんなに話で盛り上がることはなかった。
早苗ってこんなに笑顔を見せるのかと思うほど、早苗はとてもうれしそうだった。家に人を呼ぶのも初めてらしい。わたしも久実も、その光栄に大はしゃぎをし、今度部活がない日の放課後に、そのまま早苗の家にお邪魔すると約束をした。
早苗が加わったことで、久美に新たな仲間ができた。早苗の家にお邪魔できるのもうれしいけど、わたしには久美に仲間が増えたことが何よりうれしかった。