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自分が先

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我先に動く人は、日本では敬遠されます。

特に、みんなが困っている時などに、我先に助かろうとする人たちは、それが仕方がないことだったとしても、軽蔑の対象にされるでしょう。

いつでも他の人の事も考えて、行動するのが美徳であり、そんな人間になるように、子供たちは教育されます。

確かに、我先に助かろうとする者たちの姿よりも、互いを思いやる人々の姿の方が、美しく見えます。

ただ、その表面的な美しさだけを見て、それを子供たちに強いるのは、酷な場合があると思います。

と言うのは、誰かを思いやれる人というのは、心が成熟している人だからです。

 ※Ani_Banany_StyleさんによるPixabayからの画像です。

十分に愛を受けた人は、他の者に愛を与えることができます。

しかし、愛を十分に受けられなかった人や、愛が枯渇している人は、他の者に愛を与えることができません。

いい悪いの問題ではなく、これは仕方がないことなのです。

お金がなければ、誰かにお金を与えることが、できないのと同じです。

幸せを知らない人は、他人を幸せを教えることができません。

喜びを知らない人は、他の人を喜ばせることができません。

他の人たちとのつながりを、認識できない人は、他の人のことを考えることはできません。

助けてもらった記憶がなければ、誰かを助けようとは思いません。

全て経験の結果であり、本人がわざとやっていることでは、ないのです。

他の人のために、何かをするためには、まず自分が満足していないといけません。

これは大人にも、子供にも言えることです。

 ※Sammy-WilliamsさんによるPixabayからの画像です。

自分自身が満たされていないのに、他人を満たすよう求められると、何で自分がという、不満の籠もった疑問を持ちます。

反発だって、したくなるでしょう。

反発することすら許されずに、むりやり他人への奉仕をさせられていると、必ずおかしくなってしまいます。

これも大人にしても、子供にしても同じです。

表面的な美しさだけで、他人への奉仕を求めることは、正しいやり方とは言えません。

その前に、心を愛で満たしてやることと、他の人たちとのつながりに、喜びを感じるという経験を、させてやることが大切です。

十分満たされた状態で、他人への奉仕を経験することは、とてもいいことだと思います。

気をつけないといけないのは、子供は親や先生に何かを求められると、いい子供でいようとするということです。

それで、本音を隠して無理を続け、最終的には心が折れてしまいます。

そして、心が折れた自分を恥じ、親や先生の期待に応えられなかったことで、自分を責めたり、自信をなくしたりするのです。

 ※まぽさんによる写真ACからの画像です。

どんなに優れているように見えたとしても、所詮は子供です。

いろんなことを押しつけると、その子が潰れてしまいかねません。

大人は子供に何かを求める時、それが強要になっていないか、気を配る必要があります。

大人でも、新入社員は自分をよく見せようとして、無理をすることが多いでしょう。

「誰かのために」という美しい言葉を利用して、やりたくもないことを、強要されることがあると思います。

それができなければ、人として落第だと思わしめる、雰囲気を作られると、なかなか拒みにくいものです。

 ※まぽさんによる写真ACからの画像です。

しかし、やりたくなければ、やりたくないと拒否できるだけの、強い意志を持ちましょう。

ただ、やってみると、案外楽しかったり、思いがけない喜びが、見つかることもあります。

ですから、試しにやってみるのも、いいと思います。

大切なのは、選択の主導権は、常に自分が持っているということです。

やってみたけど、やはり自分には合わないと思えば、やめればいいのです。

一度やり始めたら、やめることができないというものは、初めから手を出さない方が、無難でしょう。

罪悪感を感じる必要はありません。

他人に何と言われようと、まずは、自分が十分に満たされることが、先決です。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。