願いが叶うとき

 ※(Joenomias) Menno de JongさんによるPixabayからの画像です。

自分一人の力で、何かを行える時、それを願いが叶ったとは言いません。

目玉焼きが食べたいと思い、自分で卵を焼いて、目玉焼きを作ったとしても、目玉焼きが食べたいという、願いが叶ったとは言わないでしょう。

何かを願うというのは、自分の力量を超えたところでの、望みや期待を持つということです。

目玉焼きが食べたいと思っても、家に卵がなく、卵を買うお金もなかったら、目玉焼きを作ることができません。

それでも、どうしても目玉焼きが食べたいと思った時、遊びに来た友だちが、差し入れだと言って、卵をくれたらどうでしょうか。

その卵で友だちが、目玉焼きを作ってくれれば、間違いなく願いが叶ったと言えるでしょう。

たとえ自分で目玉焼きを作ったとしても、やはり願いが叶ったと言っていいと思います。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。


願いが叶うとは、自分の力を超えた所で、自分の望みを叶えるような、思いがけない外部の動きが、あることを言うのです。

この目玉焼きの例では、自分の願いに、友だちの心が反応してくれた、ということです。

つまり、願いが叶う時には、誰かの心が反応を示し、願いが叶うように動いてくれるのです。

もちろん、動いてくれる人たちは、願いのことなど知りません。
何となく動いているだけです。

でも、それが結果的に、願いを叶えることに、つながっているのです。

人の心を無意識の領域で考えると、それぞれの人の無意識が、つながりを持っていると考えられます。

個人意識が、人類の意識の一部であるならば、人類の意識を通して、個人と個人の無意識が、つながりを持つのは、自然なことだと思います。

誰かの願いが、その人自身の無意識に届いた時、その願いは人類意識を介して、他の人たちの無意識へと、伝わるのです。

ただ、願いと言っても、表面的な願いと本音の願いでは、中身が異なる場合があります。

 ※jacqueline macouさんによるPixabayからの画像です。

宝くじを当てたい、と願ったとします。

その理由は、宝くじの賞金で、苦労した親に家を買ってあげたい、というものです。

結果として、宝くじが当たらなければ、願いは叶わなかったことになります。

しかし、借家ではあるけれど、便利で居心地のいい家が見つかり、親もその家をとても気に入ったとすれば、願いは叶ったと言えるでしょう。

この場合、本音の願いは、親にとって居心地のいい住処を、見つけたいということです。

そして、その願いを叶えるために、家を提供する人や、それを伝える人などが、自分では意図しないまま、動いたというわけです。

 ※◯○.hiromaru.○◯さんによる写真ACからの画像です。

願いが叶う場合、恐らく、その願いの規模に応じただけの、複数の人々の無意識が、関わっていると考えられます。

しかし、願いはしたけれど、やっぱり願いが叶うはずがないな、と考えていると、それは願いが外れた状況を、望んでいるのと同じになります。

それが本音として無意識に伝わると、願いが叶わないようにせよと、他の無意識たちに伝わります。

それで、誰も願いを叶えるための、動きを見せず、願いは叶わないこととなるのです。

また、自分が無意識とのつながりを否定していたり、他の人々との間に壁を作って、つながりを拒絶していると、やはり、その願いが叶うことはないでしょう。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像 です。

願いが叶うというのは、少なくとも自分自身の無意識と、つながっている必要があると思います。

つまり、無意識の声に耳を傾け、自分の本音を知るということです。

こういう人の願いは、自分の本音とつながっています。

それは無意識の指示に従っているのと、同じ事です。
通常の意識の願いと、無意識の本音が一致しているのです。

通常の意識の願いと、無意識の本音が一致していないと、願いは無意識に伝わらないかもしれません。

無意識を通して、願いを叶えるために、他の人たちの協力を得るには、無意識の本音と願いの方向が、同じであることが、重要だと思われます。

両者が一致すると、無意識は願いを実現するため、他の人たちの無意識に、情報を伝達します。

そして、思いがけない形で、願いが叶うという仕組みなのだと、私は考えています。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像 です。

ただ、他の人を拒絶する習慣があると、せっかく自分の願いに従って、動いてくれる人がいても、その人たちを無視したり、拒絶するかもしれません。

そうなると、本来なら叶っているはずの願いを、自ら捨ててしまうことになるでしょう。

逆に考えれば、他の人たちのことも認め、その存在を受け入れるという姿勢が、願いを叶えるためには大切なのです。

繰り返しますと、まずは自分の心の声を聴き、自分の本音を知るということ。

それから、他の人たちとの間に、壁を作ったりしないで、その人たちの存在を受け入れ、感謝や思いやりの気持ちを、持つということです。

体で言えば、ある部分が痒みの信号を、発したとしましょう。

その信号は、全身に広がる神経ネットワークを通じ、痒みを解消してくれる部分の、動きを促します。

つまり、突然手が現れて、その部分の痒みを解消してくれるのです。

 ※hana73さんによる写真ACからの画像です。

それと同じで、私たちの意識は、人類の意識という、巨大な一つの意識を形成しています。

一人一人の無意識が、大きなネットワークを構築しているのです。

そのネットワークを通じて、個人意識の望みは、全体の意識へ伝わり、その望みに必要な者たちが、望みを叶える行動を取るのです。

痒い部分を掻く手は、自分の動きの意味は、わかりません。
そうしたくなったから、その部分を掻いただけなのです。

それと同じように、願いを叶えてくれた人たちは、個人的には自分の行動の意味を、理解していません。

無意識レベルでは理解しているでしょうが、通常の意識では、わからないのです。

そんな感じで、願いというものは、叶えられるのだと思います。

そのためには、自分を大切にし、他の人のことも大事に思うことが、必要なのです。

一番いいのは、全ての人が、本当は一つの存在なのだと、心から理解することでしょう。

自分たちは一つだと理解するほど、願い全体の無意識に伝わりやすくなり、叶えられる可能性が、高くなるに違いありません。

自己犠牲

 ※ちゃぁみいさんによる写真ACからの画像です。

自分の気持ちを抑えて、他の人のために動く。

そんな話は、よく美談として伝えられます。

本当はやりたいことがあるのに、辛抱して仕事をする。

本当は買いたい物があるのに、我慢してお金を他へ回す。

外国の事は、よく知りませんが、日本では自己犠牲が尊ばれる傾向が、あると思います。

大切な人を守るため、自らの命を犠牲にする。

こういう話は、多くの人の涙を誘います。

そして、自分を犠牲にした人は、人間の鏡とされます。

 ※S. Hermann & F. RichterさんによるPixabayからの画像です。

確かに、自分のことよりも、他人のことを考えて行動できる人は、素晴らしい感性を持っていると思います。

でも本人が、他人のために自分を犠牲にしたと、思ったかどうかは、本人に確かめてみなければ、わからないでしょう。

こういう方たちをお手本にして、人間とはこうでなくてはいけないと、思い込んでしまった人は、我が身を犠牲にして、他人を助けようとするかもしれません。

一方で、他人のために動くことが、自らの喜びだと感じる人は、咄嗟の場面で反射的に動いてしまいます。

その結果、自らの命を落としてしまうことも、有り得ますが、本人はそれを犠牲だとは、考えないに違いありません。

命を落とすのは結果であって、命を捨てたわけではないのです。

その行動の原動力は、ポジティブなエネルギーであり、その行動は、本人の意思に従ったものです。

それに対して、いい人間は自分を犠牲にするものだと、思い込んでいる人のエネルギーは、ネガティブです。

見た目は同じような行動であっても、エネルギー的には全然別物です。

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

親が子供に、人としての生き方を教える時、誰かのために行動する人を、お手本にすることは、よくあることです。

でも、そのお手本となる人が、他人のために自分を犠牲にしていると説明し、自己犠牲を美化してはいけません。

子供がそれを真に受けると、その子は将来、とても窮屈な人生を送ることになるでしょう。
場合によっては、悲惨な結末を迎えるかもしれません。

教えるのであれば、他人を助けることが自分の喜びであることの、素晴らしさを教えるべきなのです。

自分の喜びと、他人の喜びが一致する時が、最高の喜びであることを、教えないといけません。

 ※Free-PhotosさんによるPixabayからの画像です。

自分が喜ぶことは大切です。

そこに加えて、他人が喜んでくれれば、喜びは何倍にも膨らみます。

その経験は、自分の喜びは誰かの笑顔だ、という思いを創るでしょう。

誰かにつくすために、犠牲は必要ないのです。

犠牲を求める風潮は、ブラック企業をはびこらせます。

誰かを利用して、自分が得をしようという、ずる賢い者たちに、力を与えることになるのです。

自己犠牲が当然のものとして強いられ、それを拒絶できない人には、悲劇が待っています。

自己犠牲を称賛したくなる時、自分はブラック企業や、ずる賢い者たちを応援しているのだと、考えて下さい。

自己犠牲はいらないのです。

まず、自分を大切にする。

自分を大切にできない人に、他人を大切にすることはできません。

そのためにも、まず自分を大切にするのです。

それを維持しながら、他人へも気持ちを向けると、自分を犠牲にしなくても、他人のために動けるようになります。

自分が満足し、世の中が喜びに満ちたものになるためにも、自分を大切にしなければなりません。

権利と義務

権利とは何か。

辞書によると、「ある物事を自分の意志によって自由に行ったり、他人に要求したりすることのできる資格・能力」とありました。

また、「一定の利益を自分のために主張し、また、これを享受することができる法律上の能力」とも書かれていました。

これに対して、義務の意味は次のとおりです。

「人がそれぞれの立場に応じて当然しなければならない務め」
「倫理学で、人が道徳上、普遍的・必然的になすべきこと」
「法律によって人に課せられる拘束」

要するに、権利とは、やりたいことを自由気ままに行うことを、当然のものとして認めてもらうことですね。

一方で、義務とは、やらなければならないことです。

権利にしても義務にしても、自分以外の存在が必要です。

権利を行使するにも、義務を果たすにも、相手がいなくては、どうにもしようがありません。

山に向かって、土地の所有権を叫んだところで、土砂崩れで埋もれてしまえば、おしまいの話です。

絶滅に瀕している生物がいた時に、その生物を救うか、その生物の遺伝子情報を残すのは、人間の義務であると、考える人がいるかもしれません。

でも、それは義務ではなく、その人が勝手に信じている、使命感でしょう。

 ※Linus SchützさんによるPixabayからの画像です。

権利にしても義務にしても、人間が安心して暮らして行くために、人間によって作られた決まり事です。

それが通用するのは、人間社会の中だけです。

それも、共通の理念を持った者で、構成された社会の中だけです。

国や民族、宗教によって、理念が異なる場合、互いが主張する権利や義務は、噛み合わないことがあります。

その場合、大抵相手が間違っているという結論になり、相手を非難するか、時には暴力的な争いが生じます。

つまり、権利にしても義務にしても、その効能があるのは、地域限定の社会の中においてだけなのです。

それを他の地域に行って、そこで自分の権利を主張すると、トラブルになるのは当然です。

また、その地域における義務を、不本意だと憤慨するのも、間違っています。

こういう問題には、時々いろんな所で遭遇します。

トラブルを避けたいのであれば、あらかじめその地域の風習や、慣習などを調べておき、自分に合う場所か、確かめておけばいいのです。

しかし、元々いる地域でも、差別や無関心が絡んで来ると、権利が平等でなく、一部の者に偏っていたり、その人の事情に関係なく、これは義務だからと言って、無理難題を押しつけるということが、あるでしょう。

結局、社会を安定させるための権利や義務は、力の強い者にとって、有利な内容になってしまうのです。

そもそも、権利や義務という言葉が存在するのは、そういうものがなければ、社会がまとまらないという事情があるからでしょう。

権利や義務が、しっかりしている所は、進んだ社会であるように思われがちです。

しかし、裏を返せば、そんなことを明記しなければ、成り立たない貧弱な社会だとも、言えるでしょう。

無益な争いや、虐げられた者が存在するから、権利や義務という言葉が、生まれるのです。

 ※ねんど130さんによる写真ACからの画像です。

たとえば、育児放棄をする親がいます。

こんな親には、子供を育てるのは、親の義務だと説教が必要になります。

でも、本当は子供は義務で育てるのではなく、愛情で育てるものでしょう。

子供に対する愛情を、感じられないというところが問題なのです。

義務だからと言って、無理に育児をさせようとしても、こういう親は、他の人が見ていない所で、何をするかはわかりません。

そして、それは子供の心に、深い傷を負わせることになるのです。

子供の立場から言えば、ちゃんと育ててもらう権利が、自分にはあるということでしょう。

でも、そんな事を訴えられる、子供なんていません。

訴える力があったとしても、子供が求めるのは権利ではなく、愛情のはずです。

相手への思いやりや配慮が、十分になされる社会であれば、権利や義務について、一々明記しなくても、何も問題は起こらないでしょう。

逆に明記するから、これは書かれていないぞ、という論法で、好き勝手をする者が出てくるのです。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

これだけ人間の数が増え、様々な主義主張が、飛び交う世の中ですから、権利や義務を規定しないといけない事情は、理解できます。

しかし、権利や義務という言葉があるうちは、人間はまだまだなのです。

現に、起こらなくてもいいはずの争いが、様々な場面で起こっています。

自分の権利を主張するがあまり、憎まなくてもいい人のことまでも、憎むようになっています。

自分が何かを主張したい時は、必ず相手の事情を、考慮するという、思いやりを持つべきでしょう。

主張するにも言葉を選び、相手の気持ちも考えて、どうすればいいのかを、共に考えて行くという社会を、作らなくてはなりません。

義務と言われることも、自ら進んで行えば、義務とはなりません。

互いを思いやり、みんなでやろうという思いがあれば、義務など必要ないでしょう。

そんな中でも、参加できない人には、それなりの事情があるはずです。

それを強制的に参加させるのは、思いやりがあるとは言えません。

今の世の中は、自分の権利を守ろうと固執する人が、とても目立ちます。

自分勝手と思えるほどの、権利への固執は、人々を不快な思いにさせるかもしれません。

でも、権利への固執にも理由があるのです。

恐らく、権利を失えば、大きな損失により、不便かつ不愉快な人生を、強いられるという不安があるのでしょう。

でも、損失と思えるものよりも、よくなったと思えるものの方が、大きいと理解できれば、権利に固執する必要はなくなります。

互いを思いやれる世の中になり、何かを失うことを、恐れる必要がなくなれば、権利に固執することはなくなるでしょう。

 ※Daniel RecheさんによるPixabayからの画像です。

人は誰もが自由です。

自分が自由でいるためには、他の人の自由も、尊重しなければなりません。

自由の多様性と協調を、楽しめるようになれるのが、一番いいのです。

権利も義務も、あとから作られたものであって、最初からあったわけではありません。

権利や義務は、社会を安定させるための、一つの方策ではあります。

しかし、もっと優れた安定方法を、人類は求めて行かなくてはならないと思います。

意識と時間

 ※Stefan KellerさんによるPixabayからの画像です。

意識と時間は、切っても切れない関係にあります。

意識の活動には、必ず時間という要素が、必要となります。

時間が凍りついた状態では、意識も凍りついて、活動ができません。

時間の変化なしに、何かを思考できるか、確かめてみて下さい。

あなたが何かを考えたり、何かを感じたりしている間、時間は必ず過ぎて行きます。

この時間とは、時計の針の動きのことではありません。

心の中にある時間です。

たとえば、ほんのわずかな時間、うたた寝をした時に見た夢で、1時間以上の時間が経ったと思っていたのに、目座覚めてみると、5分ほどしか経っていないということが、あると思います。

 ※Rhonda JenkinsさんによるPixabayからの画像です。

嫌な仕事をしている時は、時間がなかなか流れないような気がします。

でも、好きな仕事をしている時は、知らない間にかなりの時間が、経っているということがあります。

心の外の世界と、心の中の世界とでは、時間の流れ方が、異なることがあるのです。

私がここで述べている時間とは、意識の活動が関わる時間です。

覚醒している時には、基本的に外の世界と同じ、時間の流れになります。

外の世界の時間に、心の時間を同調させるのですね。

しかし、ぼんやりしていたり、夢を見ている時など、意識が外の世界から遮断されている状態では、意識は外の世界とは、違う時間の流れにいるのです。

いずれにしても意識の活動に、時間の流れはつきものです。
時間の流れがなければ、意識は活動できません。

でも、これは意識と時間を、別物と考えての話です。

実は、時間というものは、意識の一つの側面なのです。

意識と時間とは別々にあるのではなく、意識の変化を時間という言葉で、表現しているだけなす。

意識は変化がなければ、存在していないのと同じです。

何らかの変化が生じるからこそ、それを活動と呼ぶことができるのです。

そして、その変化は時間に応じて起こるのではなく、変化する状態を、時間の流れという言葉で、表現しているのです。

意識がなければ、時間も存在しません。

でも、私がこの世を去ったとしても、この世界は残り続け、この世界の時間は流れ続けるでしょう。

それは、この世界自体が、大きな意識だからだと言えます。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

世界の意識は、私たち人間がイメージするような、意識ではないでしょう。

でも、世界の本質は精神エネルギーだと理解すると、時の流れが存在していることに、納得が行くと思います。

私たちの意識は、直接この物質世界に、存在しているのではありません。

物質で構成された肉体を介して、この世界を体験しているだけであり、この世界に直接関わっているわけではないのです。

目覚めている間は、肉体を通して認識する、この世界独特の時間の流れに、自分の意識を合わせています。

しかし、ぼんやりしたり眠ったりして、この世界とのつながりがなくなると、本来の自分の意識の持つ、時間の流れで思考するのです。

それは、私たちの意識が、直接には物質世界に、関わっていないからなのです。

意識と時間は、別物ではありません。

意識のあるところに、時間は存在します。

また、時間が存在しているところには、意識が存在しているのです。

未来を思い出そう

 ※Michal JarmolukさんによるPixabayからの画像です。

過去を懐かしんで、思い出すことって、ありますよね。

あるいは、思い出したくもない過去も、あるかもしれません。

過去とは文字通り、過ぎ去ったことで、自分が経験あるいは認識したものです。

それは記憶として残り、私たちは記憶を探ることで、過去を思い出すことができます。

それに対して、未来というものは、これも文字通り、未だ来ないことであり、まだ経験も認識もできていないものです。

一寸先は闇という言葉があるように、次の瞬間のことでさえ、私たちは何が起こるのかがわかりません。

わからないから、ただ世の中の流れに流されたり、手探り状態で身動きが取れなくなったり、するのでしょう。

でも、過去と同じく、未来もすでに存在していて、それがどんなものかを、知ることができればどうでしょうか。

私たちは、未来はまだ未確定で、確かなものは何も存在していないと、受け止めがちです。

しかし、過去に対する記憶障害のように、未来についての情報を、すっかり忘れているとすれば、どうでしょうか。

人は何かを学ぶために、この世界に生まれて来るのだと、私は理解しています。

それが何であるのかを、今を生きる私たちは、覚えていません。

しかし、目的を持って生まれて来るということは、どういう未来に向かって進むべきなのかということが、すでに決められていると言えるでしょう。

それがわからないというのは、未来に対する記憶喪失ということになります。

 ※ShlomasterさんによるPixabayからの画像です。

でも、何かを学ぶためには、記憶がない方が好ましいのかもしれません。

何も知らないまま、ある状況において、どのような選択をするのか。

そこが重要なのだと思います。

ただ、本当に何も知らないというのではなく、大切な情報は無意識領域にあります。

ですから、目の前で起こっている状況に振り回されず、心の声を聞き取ることができれば、自分が進むべき道が、見えて来るでしょう。

過去のことを思い出す時と同じように、未来の記憶も、初めのうちはぼんやりした感じだと思います。

何となく、こっちかな、という具合でしょう。

しかし次第に、こっちだこっちだと、はっきり自分の進む道が見えて来ると、それは自分の道を、思い出して来たということです。

 ※Herbert BieserさんによるPixabayからの画像です。

将来、どのような自分であるのか、どんな所で、どのような事をしているのか。

そういうヴィジョンが、具体的に目に映るようになって来た時、それを単なる想像や妄想だと、受け止めるかもしれません。

でも、本当はそうではなく、目指すべき未来像の記憶が、蘇ったと見た方がいいでしょう。

ああ、こうなる予定だったんだなと、未来の記憶を思い出したということです。

ただの妄想だととらえていると、せっかくヴィジョンが見えても、それを役立てることができません。

せいぜい、こうなれたらいいのになと、考えるにとどまってしまうでしょう。

でも、未来の記憶を思い出したと、受け止めるならば、そうだったと言いながら、すでにその未来像の自分になったつもりで、行動を取るに違いありません。

 ※Jill WellingtonさんによるPixabayからの画像です。

自分が何に興味を持っているのか、何を大切に思っているのか。

そういう想いは、未来の記憶を思い出していなくても、ぼんやりと進むべき方向を、示してくれます。

逆に、こんな事は絶対に嫌だ、こんなのは自分に合わない、と感じることは、進むべき道はそちらではないと、教えてくれます。

初めはこれらの方向指示器に従って、人生を進むことになりますが、そうしているうちに、自分が何を求めているのかが、明確に見えて来るようになります。

それが、未来の記憶が蘇って来た、ということなのです。

過去の記憶と同じように、思い出そうとして思い出せるものではありません。

でも、何かの瞬間、何かをきっかけにして、過去の記憶が蘇るように、ある瞬間、何かがきっかけとなって、未来の記憶も蘇ります。

何かが思い浮かんだ時、それが自分の未来の記憶かもしれないと、感じたならば、疑うことなく、その方向へ進むことをお勧めします。

それは必ずしも、現代社会で憧れとされるようなものでは、ないかもしれません。

でも、自分の未来の価値は、自分にしかわかりません。

自分がそこに心惹かれたなら、そこを目指して進むことが、あなたの取るべき行動なのだと思います。

子供たちの心

とても素敵な記事がありました。

難病で視力を失った男性を、小学生の子供たちが、助け続けていたという話です。

和歌山市職員の山崎浩敬さんは、網膜色素変性症のため視力を失い、2005年から白杖を使いながら、通勤するようになったと言います。

初めは家族が付き添ってくれていましたが、2008年からは一人でのバス通勤になりました。

しかし、目が見えないため、バスの乗り口を探すのも、大変苦労されたようです。

ところが、一人でのバス通勤を始めて、一年ほど過ぎた頃、「バスが来ましたよ」と女の子の声がしたそうです。

「乗り口は右です。階段があります」と言いながら、山崎さんを座席に案内してくれた女の子は、それから毎日、学校を卒業するまで、山崎さんを助けてくれました。

女の子は、和歌山大付属小学校の児童で、山崎さんと同じバスで通学し、降りる停留所も同じだったそうです。

女の子が学校を卒業したあとも、別の女の子が山崎さんを助けてくれるようになり、その子が卒業しても、また別の子が助けてくれました。

子供たちの間で、山崎さんの力になるということが受け継がれ、また、子供たちとのお喋りが、山崎さんの楽しみとなりました。

それは、誰かに助けてもらったということ以上の、大きな喜びとなったでしょう。

その喜びは山崎さんにとって、思いがけない贈り物になったと思います。

喜びは相手にも広がります。

そのことは子供たちにとっても、思いもしなかった、お返しとなったに違いありません。


山崎さんは、自分を助けてくれた女の子たちが、全部で四人だと思っていました。

しかし、和歌山大付属小学校で、女の子たちに再会した時に、山崎さんが知らされた話では、他にも山崎さんを、助けてくれていた子供たちが、いたということでした。

そのことに山崎さんが、気がつかなかったのは、その子供たちが、そっと山崎さんを助けていたからでしょう。

自分が知らないところで、たくさんの子供たちが、助けてくれていたのだと知り、山崎さんはとても感激した様子でした。


思い切って行動を示す優しさもあれば、目立たないところで、そっと向けられた優しさもあります。

どちらも本当に素敵なことです。

そのような優しさを示すことができたのは、子供の心が素直で、純真だからなのかもしれません。

こういう子供たちに恥じないように、大人である私たちも、人に優しい気持ちを、持ち続けたいと思います。

そして、目に見える優しさ、目に見えない優しさの双方に、これからもしっかりと、目を向けて行きましょう。

自分の中の自分 その2

バルーンアートで使う長い風船の、端っこの部分をひねって、小さく区切ります。

その区切られた部分が、今の自分だと考えて下さい。

この時、長い風船の残った部分は、無意識と呼ばれる意識領域です。

何故、無意識と呼ばれるのかと言うと、通常の意識活動のように、表に出て来ない意識だからです。

しかし無意識こそが、心の本体なのです。

私たちが何かを思いついたりするのも、無意識からの情報が、具現化されるからです。

私たちの通常の暮らしの中では、その名の通り、無意識がその存在を認識されることは、まずありません。

本当は存在しているのですが、完全に無視された状態です。

でも、私たちが眠りにつくか、あるいは死んでこの世界を離れた時、風船のひねられた部分は元に戻され、私たちの意識は無意識と一体化します。

夢から目覚めた時に、夢の中の人格が保持されるように、私たちの個人意識も、無意識と一体化した後でも、保持されます。

しかし、どちらが本当の自分かと考えると、やはり全体の方を、本当の自分だと言わざるを得ないでしょう。

つまり、初めに述べたように、無意識こそが本当の自分であり、私たちが考えている自分というものは、あくまでも仮の自分なのです。

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

元の意識である長い風船の中に、区切られた部分が、一ヶ所ではなく複数あったとしましょう。

すると、今の自分と同じような、元の自分の分身が、多く存在していることになります。

私たちは一度に多くのキャラクターを、イメージすることができます。

実生活の中においても、子供の頃の自分や、親としての自分、職業人としての自分や、男あるいは女としての自分など、多くの自分が入り交じっています。

それと同じように、私たちの本体である無意識の領域にも、私たち以外の分身が、多く存在していたと考えても、矛盾はないでしょう。

私たちには、自分の兄弟のような分身が、多く存在しているのです。

それぞれの自分たちは、違うパラレルワールドに、いるのかもしれません。

でも、今のこの世界を、別の立場から体験している、可能性もあるでしょう。

とにかく、いろんな自分の存在がいるということは、十分に考えられることです。

ここで、また違う状況を、想定してみましょう。

私たちの本体、本当の自分である長い風船が、実はもっと大きく長い風船の、一部が区切られたものだったとします。

また、そこには同じように区切られた部分が、たくさんあるのです。

そこの区切りがなくなると、私たちの無意識領域、つまり本当の自分は、さらに大きな存在である自分の一部であると、気がつくのです。

他の区切りの存在たちも同様で、区切りをなくすと、それだけ多くの存在が、互いに兄弟であることを、理解するのです。

そして、この大きく長い風船もまた、さらに大きな風船の一部であり、それが延々と繰り返されて行くのです。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

これが意味するところは、どんなに見た目が違っていても、全ての存在は兄弟であり、分身なのだということです。

考えると、頭がおかしくなりそうに、なるかもしれませんね。

だけど、少なくとも私たち人間は、性別や民族の違いを超えて、一つの存在であり、同じ存在の分身なのだということだけは、理解して欲しいと思います。

知識として知るのも大切ですが、感覚的に理解することが、最も重要です。

そして、その感覚こそが、愛と呼ばれるものなのです。

自分の中の自分 その1

 ※ぶぶちゃんさんによる写真ACからの画像です。

バルーンアートって、ありますよね。

細長い風船を膨らませ、一部をキュッキュッとひねることで、一本だった風船をいくつかのソーセージみたいに、区切って行くのです。

いろんな大きさの区切り部分を作り、それをねじ曲げたり、合わせたりして、全体で犬や花や剣など、様々な形にします。

あんなことをすれば、きっと割れてしまうと怖くなるので、私はバルーンアートが苦手です。

でも、ソーセージみたいな所を、さらにひねって、もっと小さくしても、案外割れないもののようで、バルーンアートを作る人が、風船を割るところを、見た事はありません。

とは言っても、自分がやるのは、やっぱり怖い気がします。
別に割れたところで、怪我をするわけでは、ないのですけどね。

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

ところで、あの長い一本の風船が、一つの意識であると考えてみて下さい。

そして、意識である長い風船の端っこの方を、摘まんでひねってみるのです。

完全にひねるのではなく、そっとゆっくりひねりながら、その時の長い風船の意識を、思い浮かべて下さい。

一つであるはずの意識が、二つに分離しようとしているのです。

それが、どんな状態であるのか、風船の意識に、自分の意識を置き換えてみて下さい。

でも、自分の意識が分離すると言われても、想像ができないかもしれませんね。

では、心の中に、ある人物をイメージして下さい。

実際にいる人物ではなく、自分のオリジナルのキャラクターです。

映画やドラマに登場する主人公や、脇役のようなものを、思い浮かべればいいのです。

勇者のような英雄でもいいですし、悪役でも構いません。

頭がいい学者タイプや、自分に自信が持てない臆病者、疑い深いくせに寂しがり屋。

何でもいいですから、オリジナルのキャラクターを思い浮かべて下さい。

そのキャラクターは、あなたがイメージしているのですから、あなたの一部です。

 ※klimkinさんによるPixabayからの画像です。

あなたがキャラクターを、思い浮かべている状態が、風船の意識をひねって、小さな部分を区切ろうと、しているところなのです。

自分の中に、特定のキャラクターを創り出すことが、意識を分離させるということなのです。

でも、単にキャラクターをイメージしている間は、完全に意識が分離したわけではありません。

風船を区切るためのひねりは、中途半端な状態です。
まだ、完全には区切られていません。

頭の中で、キャラクターが活動するのを想像している間は、キャラクターと同時に、想像している自分を自覚しています。

キャラクターがどんな状況で、どんな風に考え、どう感じるのかを、あなたは体験できますが、元の自分の意識も、同時に認識されています。

この時、キャラクターの行動は、自分が想像したとおりに、変化させることができます。

それは、あなたの想いがキャラクターに、反映されるということです。

ここで、あなたがキャラクターに意識を集中して、他のことを何も考えず、キャラクターになりきったとしましょう。

キャラクターになりきっていますから、キャラクターを自分が創り出したという、認識はありません。

いわば、妄想の世界に入り込むか、夢の世界に入っているようなものです。

この状態の時、元の自分は意識されていません。

これが風船の端を、完全にひねって区切った状態です。

でも、どんなにしっかり区切ったところで、その部分が全体の一部であることには、違いがありません。

ひねった所を元に戻せば、区切られた部分は、自分が全体の一部であることを、思い出します。

夢から目が覚めて、今のは夢だったのか、と気づくのと同じです。

キャラクターになりきった妄想の白昼夢から、はっと我に返るのも、同じ状況です。

白昼夢よりも夢の方が、馴染みがあるでしょうから、ここからは夢で話を続けます。

 ※Marfa BogdanovskayaさんによるPixabayからの画像です。

夢から目覚めた後、夢の中の自分が、どうだったのかという記憶は残っています。
夢の中で感じた、感情も残ります。

つまり、覚醒後の意識でありながら、夢の中の人格も、そのまま保ち続けることができるのです。

この時、夢を思い出して、夢の中の人格を再現しても、そこには同時に、目覚めている自分の意識も存在しています。

両者の区別は、はっきりしたものではなく、その境界は曖昧です。

しかし、どこに意識の主体があるのかは、明らかです。

夢の中では、自分だと認識していたはずの人格も、目覚めてからは、元の意識の一部であることが、理解されます。

さて、次は少し条件を変えて、考えてみたいと思います。

核兵器禁止条約

核兵器禁止条約が発効されました。

50カ国と地域が批准した条約ですが、米露などの核保有国や、日本など核の傘下にある国は拒否しています。

世界で唯一の戦争被爆国である日本には、この条約に加わって欲しかったと、多くの日本国民が考えていることでしょう。

核が戦争の抑止力になっているという論理がありますが、その論理を認めた人であっても、核兵器がない方がいいと、思っているに違いありません。

結局、核兵器というものは、誰もが知っているとおり、究極の大量破壊兵器です。

いかに効率よく大量の人々の命を奪うのか、という観点で造られた兵器なのです。

人の命は尊いものだと、本気で考える人であるならば、核兵器どころか、あらゆる武器の廃絶を願うはずです。

人を殺してはいけないと、教えられた子供であれば、いろいろ理屈をつけて核兵器を持ち続けることに、大きな疑問を抱くでしょう。

核兵器に限らず、相手を殺す武器を持つということは、相手を信用していないということです。

世の中に、信じられる人しか存在しなければ、人を殺す道具など、持つ必要はありません。

と言うことは、互いを信頼し合うことができたなら、核兵器などいらないということです。

核兵器以外の武器も、いらなくなるのです。

そして、そういう道を歩むのだと、大国あるいは大国に従う国を除いた、多くの国々が、核兵器禁止条約を通して宣言したのです。

この条約に法的な拘束力があるのか、ということは問題になりません。

ほとんどの国が非力かもしれません。

しかし、大半の国が賛同したということに、意味があるのです。

表現が悪いかも知れませんが、マフィアやヤクザの抗争に、我慢ができなくなった一般の人々が、ノーを突きつけたというような格好でしょうか。

条約に加わっていようがいまいが、問われているのは人間性であり、その国の国民性です。

核兵器廃絶の動きを、平気で無視するような国があれば、世界中の多くの人々の心は、その国から離れてしまうことでしょう。

これまで非力で貧しい国に対して、大国はお金で文句を、言わせないようにして来ました。

それは札束で相手の頬を、叩くのと同じです。

文句を言いたくても、お金が必要な国は、文句が言えません。

それをいい事に、これまで大国は好き放題をして来たのです。

しかし、ついに世界中が大国に対して、注文をつけるようになったのです。

これまでも、クラスター爆弾や化学兵器などの禁止条約も、非力な国々の力で成立して来ました。

もちろん大国は加わりませんが、そういった武器は使われなくなっています。

それは、非力であろうとも、多くの国々の声は、無視できないということなのです。

どの国も、平和と平等を求めています。

もし、力のある国が、どこか一つでも、貧しい国々のために立ち上がったならば、その国は世界中から称賛されるでしょう。

力があるのに、いつまでも立ち上がらない国は、世界中から軽蔑されます。

軽蔑は屈辱でしょうから、そういう国も渋々ながら、重い腰を上げることになるでしょう。

でも、どうせ腰を上げるのならば、一番先に自ら立ち上がる方が、かっこいいに決まっています。

その一番の役柄を、日本がするべきだと、私は強く思いますし、また願っています。

いつまでもアメリカの顔色を窺うのではなく、アメリカをも動かすほどの、リーダーシップを持つ国であって欲しいです。

また、そうなれるだけの資質が、日本にはあると思います。

政治家たちの中にも、有能な人はいるでしょう。

でも、一部の有力者の顔色を窺い、力を発揮できていないような気がします。

今の日本とアメリカの関係と、全く同じですね。

政治の世界が、世代交代を果たせたならば、コロナ騒ぎも落ち着くでしょうし、核兵器廃絶や本当の平和への先導役を、日本が果たせると思います。

混乱の意味

物事が思い通りに進んでいるうちは、心は安定しています。

刺激的なことがなくても、特に生活を脅かすようなものがなければ、心はそれなりに安定しています。

ところが、病気や怪我、事件や事故、あるいは今のような、社会全体の問題が起こると、それまでとは同じ状態を、維持できなくなると思って、混乱に陥ってしまいます。

何かの問題が起きても、個人個人の状況や状態が異なりますから、ある人は混乱していても、別の人は全く平気、ということもあるでしょう。

しかし、混乱の規模が大きくなると、そんな人たちをも巻き込むことになります。

 ※fujiwaraさんによる写真ACからの画像です。

混乱すると、人はパニック状態になります。

思考や行動を制御できず、何をどうすればいいのかが、わかりません。

何もできず動けなくなる人もいれば、思いがけない行動に出る人もいます。

それは生物として生き残ろうとする、本能的な側面が強いのですが、他の人とのつながりを考慮するという、人間的な側面も関わって来ます。

つまり、混乱の最中にどのような行動を取るかは、本能的な側面と人間的な側面が、どれほど強いかということで、決まると言えるでしょう。

普段は理性によって、精神状態をコントロールし、本来の自分とは別の自分を、装うことができます。

しかし混乱していると、理性が麻痺して、精神状態のコントロールができません。

その時の精神状態が、そのまま表に現れるのです。

 ※Olya AdamovichさんによるPixabayからの画像です。

貧富の差に関係なく、自分のことしか考えられない人と、他人への配慮ができる人では、取る行動が全く別のものになるでしょう。

身の回りのことが自分でできる人と、そうでない人の態度にも、大きな差が出るに違いありません。

臆病な人と、臆病でない人も、その違いは一目瞭然です。

普段の心の中には、本音以外に、いろんな要素が混じり合っています。

場合によっては、自分でもどれが本音なのかが、わからなくなるほどです。

それは、いろんな大きさの砂や石が、混ざり合っているような状態です。

ぱっと見た目には、砂が多いのか石が多いのか、よくわかりません。

 ※Engin AkyurtさんによるPixabayからの画像です。

混乱というのは、この砂や石の集まり全体を、大きな力で揺さぶるのと、同じです。

揺さぶられると、それまでまんべんなく混ざっていたものが、それぞれの大きさや重さによって、層をなしながら分離して行きます。

粉のような砂粒から、砂利のような石まで、きれいに分かれて行きます。

表面を見ただけでは、よくわからなかった、砂や石の構成割合が、分離することで一目瞭然になります。

そんな感じで、本音がよくわからない心の中も、混乱に陥ることで、どれが本音なのかが、露わになるのです。

これは個人的な混乱でも、社会的な混乱でも、同じことです。

混乱は自分でもわからなかった本音を、わかるように浮き彫りにしてくれます。

本音がわかれば、あとはそれに従うだけですが、本音の内容によっては、争いが起こるかもしれません。

争いを避けるためには、本音が違う者同士が、お互いの本音を尊重し合うか、別々に離れて暮らすかの、どちらかでしょう。

つまり、多様性を受け入れるか、受け入れないかの違いです。

そこは人間が優れた知性を、備えているかどうかが、試されるところでしょう。

いずれにしても、混乱とは本音を導き出す、一つのきっかけであり手段でもあります。

 ※Nikola BelopitovさんによるPixabayからの画像です。

もし、同じような砂粒しかないものを、大きく揺さぶると、どうなるでしょうか。

砂粒しかなければ、どんなに揺さぶられようと、その中身は変わりません。

それと同じように、自分というものがしっかりしている人は、どんなに混乱している状況に追いやられても、他の人のように混乱することがありません。

揺さぶられはしても、心の中は常に一定の状態が、保たれているからです。

と言うことは、普段から自分の本音と向き合い、本音を大切にして、余計なものは捨て去るようにしていれば、世の中で何が起ころうとも、混乱しないと言えるでしょう。

このような人は経済社会を超えた、もっと大きな視点に立っています。

その視点に基づいた本音ですから、経済社会が揺らいでも、この人の本音が揺らぐことはありません。

では、経済社会を超えた視点に立つには、どうすればいいのでしょうか。

そのためには、生きるということ、自分という存在、宇宙や世界などについて、深く考える習慣を持つことが、大切だと思います。