どう受け止めるか 2

 ※DivvyPixelさんによるPixabayからの画像です。

自分に憎んでいる相手が、いるとしましょう。
どうしても、その相手の事を許せないとします。

でも、相手に対する見方は、必ず変わります。

時間がかかるかも知れませんが、いつかは相手を許せる時が来るのです。

誰かを憎み続けるのは、疲れます。

それに、憎んでいる間は、楽しみを放棄しているわけで、損な事です。

しかし、憎い気持ちを無理に消す事は、むずかしいでしょう。

そういう時は、憎い気持ちは無理に抑えず、脇に置いておきましょう。

そして、他の事に意識を向けるのです。

なかなか向かないかも知れませんが、とにかく他の方を見続けるのです。

そのうち、憎しみの気持ちは、少しずつ鎮まって来ます。

そうなると、少し物事を冷静に考える事が、できるようになります。

冷静になれば、楽しい事に目を向けやすくなって来ます。

楽しい事を続けられるようになれば、憎しみはますます薄れて来ます。

そのうち憎んでいた相手の事など、どうでもよくなってしまいます。

憎んでいる状態と、楽しんでいる状態を、比較する事ができるようになるからです。

心は安定を求めます。
何かを楽しんでいる時は、心が安定していて楽なのです。

怒ったり悲しんだりしている時は、心が不安定な状態ですから、疲れるのです。

本音では、そんな状態を続けたくはないでしょう。

楽しみを取るか、怒りを取るか。

その選択によって、憎んでいた相手への、見方が変わります。

相手の事など、どうでもよくなって、楽しさを選ぶ事もあるでしょう。

逆に、楽しさを選ぶ事によって、相手の事を、どうでもいいと思うようにもなるのです。

 ※PexelsさんによるPixabayからの画像です。

ひどい相手への憎しみを忘れるなんて、したくないと言うのであれば、それは自由です。

でも、それは憎しみを忘れる事が、人間として許せない事だという、思い込みでしょう。

どこにも、そんなルールはありません。

そんな風に考えてしまうのは、人生は一回こっきりで、死んだら全てがおしまいだという、発想があるのだと思います。

でも、死んでも全てが、おしまいになるわけでないと、知ったらどうでしょうか。

幽霊や前世の記憶などの事実は、人が生前や死後にも、存在し続けている事を示しています。

生前や死後の世界が、どのようなものなのかは述べません。

しかし、人の存在が一つの人生に、限定されているわけではないと、言う事はできると思います。

人は死んでおしまい、というわけではありません。

ですから、この世に生まれ出るという事には、何らかの意味があるのに、違いありません。

知性体である人間が、知性を発達させる事は、人として自然な成長です。

だとすれば、人生における嫌な事も、何か意味があるのではないでしょうか。

その意味を知るには、出来事を表面的に見るのではなく、いろんな角度で見る必要があります。

今の角度で見ると、ただ憎しみが湧くだけの出来事でも、別の角度から見れば、相手への理解が生まれるかも知れません。

それは元の角度における、憎しみという見解を、否定するものではありません。

自分の立ち位置が違うから、眺める出来事が、異なったように見えるだけです。

いろんな角度から見た情報は、総合的な理解をもたらすでしょう。

それは単なる憎しみとはなりません。

相手を憎らしく思う気持ちは持ちながら、出来事そのものを、違う思いで受け止めるようになるのです。

物事に対する立ち位置を変える事で、受け止め方が変わるのです。

それは人としての成長です。

しかし、立ち位置を変えられるようになる前に、運悪く世を去る人もいます。

そんな方たちは、この世を離れてから、自分の人生を振り返り、何て無駄な時間を、過ごしてしまったのかと、後悔するかも知れません。

 ※OpenClipart-VectorsさんによるPixabayからの画像です。

繰り返しますが、物事をどのように受け止めるかは、自由なのです。

その代わり、その受け止め方によって、人生の質が決まります。

豊かな人生を送るためには、多くの英知を手にする必要があります。

今の自分がつまらない。
人生なんて、ちっとも面白くない。

そう感じてしまうなら、人生とは何なのかと、深く考えてみて下さい。

そうすれば、少しずつ人生は、それまでとは違ったものに、変わって行くと思います。

どう受け止めるか 1

 ※succoさんによるPixabayからの画像です。

世の中には、楽しい事も嫌な事もあります。
それは、私たちの世界観に、大きく関与します。

楽しい事ばかりだと、世界はとても楽しい所だと、思うでしょう。
でも、自分が楽しんでいる陰で、誰かが泣いているかも知れません。

嫌な事ばかりでは、世界はとても嫌な所だと、感じるに違いありません。
でも、悩む自分の後ろで、誰かが懸命に、支えてくれているかも知れないのです。

世界を楽しい所と考えるか、嫌な所だと受け止めるのか。

それは自分の意識の焦点を、どの部分に当てるかで、変わって来ます。

ある部分にだけ、焦点を当てるのか。
もっと広い範囲に、目を向けるのか。

自分に直接関係する所だけを、考慮するのか。
自分とは無縁に見える人たちの事も、考えるのか。

将来を、限定的に思うのか。
いろんな可能性が、秘められていると受け止めるのか。

何をどのように見て、どういう風に考えるのかで、世界は全く違ったように見えます。

 ※mohamed HassanによるPixabayからの画像です。

本来、物事に意味はありません。
いいも悪いもなく、中立です。

世界はニュートラルの状態であり、それをどのような立場で、どんな意味づけをするのかは、人によって様々です。

そのため、同じ状況にあっても、落ち込む人もいれば、笑う人もいるのです。

どちらが正しいという事ではありません。

それは、その人の受け止め方によるだけで、どう受け止めるかは、本人の自由です。

ただ、本人の自由という言葉の裏には、英知の度合い次第という、意味が隠されています。

要するに、物事を深く考える人と、軽く見る人とでは、同じ状況にあっても、判断が異なって来るという事です。

物事を広い視野でとらえ、深い洞察力を持つことは、人間としての成長を意味しています。

何故なら、人間は知性を発達させる存在だからです。

だから子供は、どんな事に対しても、何で何でと知りたがるのです。

好奇心は新たな発見につながり、新しい知識や情報、感情や感覚は、その人の世界観を、大きく広げてくれます。

それは人間の自然な姿であり、人としての成長過程なのです。

ただ、人によって成長過程はまちまちです。

同じ地域、あるいは同じ年齢であっても、一人一人成長速度や、成長度合いが異なります。

それは自然な事であり、成長速度が遅くても、いずれはちゃんと成長するわけです。

深い洞察力に基づいた英知を、他の人へ伝える事ができたなら、その人の成長を大きく促す事になるでしょう。

しかし、英知を受け取るためには、それなりの準備が必要です。

まだ準備が整っていない人は、英知を示しても、理解する事ができません。

それは、その人の成長度合いが、まだそれぐらいだという事なのです。

どんなに急かしたところで、どうにもなりません。
物事には順序があるのです。

 ※Thanks for your Like • donations welcomeさんによるPixabayからの画像です。

理解ができない相手に対しては、腹を立てがちになりますが、腹を立ててもどうにもなりません。

今、理解ができなくても、その時が来れば、必ず理解できるのです。

成長する植物が、いつかは花を咲かせるのと同じです。
それまでは待つしかありません。

待てないとすると、それは自分自身の中に、道理への無理解と、自分は優れているという傲慢さが、潜んでいるという事です。

相手を見下す気持ちが出て来るうちは、自分自身が英知を手に入れたとは、言えません。

本当の英知を持っている人は、どんな人も中身は自分と同じだと、理解しているからです。

昨日の自分 今日の私 その3

昨日の自分と、今日の自分が別だとすれば、どれが本物の自分でしょうか。

昨日と今日だけでなく、瞬間瞬間で違う自分がいるのであれば、自分というものが、無限に存在する事になります。

これでは、そもそも自分とは何なのか、という話になってしまいます。

 ※Clker-Free-Vector-ImagesさんによるPixabayからの画像です。

でも、ご安心下さい。
今から説明しましょう。

昨日と今日で異なる自分、あるいは、瞬間瞬間で違う自分というものは、一般的にみなさんが自分だと、認識している自分です。

しかし、その自分というのは、この世界に属した体に基づいて、この世界バージョンに構成された、自分なのです。

本来の自分というものは、この世界の外にあるのです。

この世界はパソコンの中にある、バーチャル世界のようなものだと、考えて下さい。

 ※Please Don’t sell My Artwork AS ISさんによるPixabayからの画像です。

パソコンのバーチャル世界の中に、あなたのキャラクターが存在します。

でも、本当のあなたは、パソコンの外でモニターを見ながら、自分のキャラクターを操作しています。

この世界で自分だと認識しているのは、バーチャル世界のキャラクターを、自分だと認識するのと、同じなのです。

パソコンのキャラクターは、アニメーションとして動きます。

つまり、一コマ一コマのキャラクター画像を、高速で置き換える事によって、実際に動いているかのように、見せているのです。

そこには無数のキャラクターである、自分が存在しています。

あなたは自分のキャラクターを、操作できます。

でもキャラクターは、バーチャル世界の中のルールに、従うように設定されています。

そのためキャラクターは、必ずしもあなたの指示に、従うわけではありません。

あなたの声が届きやすいのは、キャラクターの心が萎えている時です。

それでも、心が萎え過ぎると、かえって声が届きにくくなってしまいます。

キャラクターの思考や行動は、全て自動的に行われます。
これは自我と呼ばれるものです。

この自我を、私たちは自分だと認識しているのです。

 ※trajanerさんによるPixabayからの画像です。

自我は、自分と自分ではないものを、区別する能力です。

そのため、どうしても体を基本にして、自分という認識が生まれるのです。

しかし、自我が存在できるのは、無意識があるからです。

いわば、自我は無意識の先端が、この世界に合わせて、変化したものなのです。

この世界バージョンに変化したため、無意識とは違う形を持った自我意識は、それだけで独立した意識存在となっています。

それでも無意識とのつながりが、なくなったわけではありません。

自我意識の中心にあるのは、やはり無意識なのです。

言い換えれば、自我意識は無意識に着せられた、衣装のようなものです。

その衣装は、この世界で生きて行くために、必要なものです。

その衣装によって、その人の性格、つまりキャラクターが作られます。

しかし衣装には、無意識に似合ったものと、そうでないものがあるのです。

あなたはキャラクターを操作しますが、それは直接的な操作ではありません。

キャラクターの自我が納得する形にしなければ、あなたの指示はうまく伝わりません。

バーチャル世界で設定されたルールや、経験を通して、キャラクターが独自に作ったルールが、あなたの指示の邪魔をする事があるのです。

それでも、あなたが根気強く指示を出し続けると、いずれはあなたの指示が、最も影響力を持つようになります。

あなたが指示を伝える事に成功すると、キャラクターはその指示に基づいた、思考や行動を自動で行うようになるのです。

この世界に存在する私たちは、この自動的・反射的に行動するキャラクターと同じです。

通常の自我意識は、この世界にはびこる常識や、自信のなさ、不安などに、縛られています。

本来の自分である、無意識からの指示を、受け取る余裕がありません。

目先の出来事や、経済的な状況に、右往左往させられるのです。

 ※Elias Sch.さんによるPixabayからの画像です。

しかし、とことん落ち込み、自分を嘆きながら、自分自身に目を向けるようになると、そこに無意識の存在を、見つける事があります。

自分は本当は何がしたかったのか。
本当の自分の姿は、どんな風なのか。
今からでも遅くない、本当の自分になろう。

そんな開き直りにも似た思いが、湧いて来るかも知れません。
それは、無意識からのメッセージを、受け取れたという事です。

無意識の自分は、この世界の外にあります。
その思考は一瞬の中に、全てが織り込まれています。

この世界の思考のように、時の流れに合わせて、順序よく並べて行くような、思考ではありません。

無意識の自分は、昨日も今日も同じです。
時の流れを超越しているのです。

無意識の声に耳を傾けないと、世の中の流れに翻弄されます。

それは帆や羅針盤のない船で、嵐の海を当てもなく、流されるようなものです。

無意識の声は、あなたにどちらへ進むのかを、教えてくれます。
進むための力も、与えてくれます。

その方向にあるのは、喜びです。

 ※PezibearさんによるPixabayからの画像です。

人生とは喜びです。

喜びがなければ、人生が無意味になってしまいます。

それでも、無意味になるという、意味があるとは言えますが、できればそうではない意味を、持たせたいものです。

どれほど長く生きたか、どれだけお金を稼げたか、どんなに人気者になれたのか。
そんな事は、喜びとは関係ありません。

本当の自分は、人生の中に意味を見つけ、それを喜びに変えます。

本当の自分の指示に、耳を傾けましょう。

見かけの自分ではなく、この世界の外にいる、本当の自分に意識を合わせるのです。

どんなにつらい状況の中でも、あなたが喜びを見つけられるよう、本当の自分は教えてくれます。

あなたが小さな事に喜びを見つけた時、あなたの意識は本当の自分と、ぴったり重なっているのです。

昨日の自分 今日の私 その2

 ※SemeventさんによるPixabayからの画像です。

レゴというブロックの、オモチャをご存知でしょうか。

上の写真のように、ブロックの上に丸い突起が付いていて、ブロックの下にその突起物がはまる、穴があるのです。

ブロックには、いろんな大きさや色の物があり、それらを組み合わせる事で、様々な物を作る事ができます。

難点はちょっと値段が高い事です。
大きな物を作ろうと思うと、かなり出費してしまいます。

下の写真は、レゴブロックで作ったアヒルです。

 ※Andrew MartinさんによるPixabayからの画像です。

これと全く同じ物を、作ったとしましょう。
そして、元のアヒルと入れ替えるのです。

きっと誰も気づきませんね。

このアヒルのくちばしの先には、一部黒い所がありますね。

この黒いブロックを、茶色に変えたアヒルなら、どうでしょうか。
それなら気がつきますか?

中には気がつく人が、いるかも知れません。
でも、恐らく大半の人は、気がつかないでしょう。

その部分に、特別注視していなければ、明らかに違っている事でも、案外見落としてしまうものだからです。

では、アヒルの顔の緑色の部分のブロックを、少しずつ青色のブロックに、変えて行きましょう。

薄い緑色の所を薄い青色に、濃い緑色の所を濃い青色に、毎日少しずつ色を変えた、アヒルに交換するのです。

それでも多分、その変化に気づく人は、少ないでしょう。

しばらくしたら、気づくかも知れません。
でも、あまり気に留めたりは、しないと思います。

アヒルの頭が完全に青になると、アヒルの色が変化したと、気づく人がいるでしょう。

でも、色が変わったと思うだけで、アヒル自体が別のアヒルだとは、考えないに違いありません。

 ※Andrew MartinさんによるPixabayからの画像です。

ある日突然、アヒルがイソシギになっていれば、誰かが置き換えたと思うでしょう。

しかし、同じ形のアヒルが、少しずつ色を変えた場合は、アヒルが置き換えられたとは、考えないと思います。

それは、時間とともに変化している、この世界でも言える事です。

世の中は、全てが一瞬一瞬、変化しています。
私たちの思考や感情も、そうです。

もし一つも変化がなければ、写真のように、永遠に時が止まったままに、なってしまうでしょう。
思考も停止状態です。

しかし、日々の変化を認めても、私たちは世界や自分自身が、瞬間瞬間に置き換えられているとは、考えません。

ちょっと話がそれますが、時の流れというものは、世界が変化する様を、意味しているのかも知れません。

この世界に暮らす私たちは、言語を用います。

文章を書くにも、言葉として喋るにも、順を追っての行動です。

それは時間と共に変化する、この世界の流れに沿ったものです。

頭の中で、ああだ、こうだと考えるのは、言語的思考です。

やはり時間の流れに沿って、思考が動いているのです。

さて、一瞬一瞬の変化に、話を戻しましょう。

世界は常に、一瞬一瞬変化しています。

と言う事は、一瞬前の世界と今の世界は、別ものだと考える事ができるわけです。

見た目はほとんど同じですが、わずかでも変化があるわけですから、別のものなのです。

 ※Jeong Eun LeeさんによるPixabayからの画像です。

机の上に置いたカップは、じっと眺めていても、何も変わりません。

でも、カップを構成している原子の中では、電子はひっきりなしに状態を変えています。

原子核を構成している素粒子も、じっとしているわけではありません。

つまり、見た目は何も変わらないカップですが、原子レベルで考えると、常に変化しているのです。

ですから、一瞬前と今とでは、同じカップではないのです。

私たちの体も、言語的思考を司る、表面的な意識も、一瞬前と今とでは異なると、考えられます。

これを単なる連続的な動きだと、とらえるのが普通でしょう。

でも、無限にある一瞬一瞬の世界を、パラパラ漫画のように取り込む事で、連続した世界を感じ取っているとも、考えられます。

要は変化というものを、どのようにとらえるかの問題です。

 ※OpenClipart-VectorsさんによるPixabayからの画像です。

私たちが認識できるのは、今という、この一瞬だけです。
過去や未来を、同時に観測しているのでは、ありません。

それは、高速に置き換えられる、画面を眺めているのと、同じ事です。

あらゆる動き、あらゆる変化は、高速に置き換えられた、瞬間の世界によって、創り出されているのです。

一瞬一瞬の世界が別物だとすれば、昨日と今日では、世界も自分も、全く別ものだと言えます。

ましてや、一年前と今とでは、全てが全然違うわけです。

それなのに、世界は変わっていないと、人は考えます。

一年前に心が傷ついた人が、未だにその傷を抱き続けている事は、少なくないでしょう。

でも、本当は一年前とは、全く違う自分なのです。
全然違う自分になっても、何も問題はないのです。

それは昨日と今日の自分でも同じです。

 ※Ryan McGuireさんによるPixabayからの画像です。

昨日、嫌な事があったからと言って、今日も嫌な気分でいる必要はありません。

連続して同じ自分だと思うから、同じ気分でいないといけないと、感じてしまうのです。

でも、昨日と今日は違う自分だと考えれば、昨日とは違った気分を、誰にも遠慮する事なく、味わう事ができます。

今日は明るい自分で行こうと、自分で決めればいいのです。

昨日の自分と今日の私は、別人なのですから。

昨日の自分 今日の私 その1

 ※Nicola GiordanoさんによるPixabayからの画像です。

私たちは昨日と今日の自分が、同じ自分だと認識しています。

そんなの当たり前じゃないかと、誰もが思うでしょう。

それはそうなのですが、どうしてそう思うのかを、検討してみたいと思います。

まずは、記憶の保持ですね。

昨日までの記憶が、今日になっても、そのまま残っている事がポイントです。

それによって、昨日の世界と今日の世界が、連続していると認識されるのです。

もし朝目覚めた時に、昨日までとは違う記憶を、持っていたらどうなるでしょう。

恐らく、まだ夢を見ていると考えるか、違う世界に迷い込んだと、受け止めるのではないでしょうか。

この場合、自分は何も変わっていないと、いう事が前提になっています。

 ※PublicDomainPicturesさんによるPixabayからの画像です。

夢の世界は、現実世界とは違います。
迷い込んだ世界は、慣れ親しんだ現実世界とは、別の世界です。

つまり、自分は何も変わっていなくて、世界の方が変わったという認識です。

自分の記憶が変わったとは、普通は思わないでしょう。
記憶とは変化しないものと、理解しているからです。


記憶とは別に、昨日と今日の自分が、同じだと考える理由は、自分の性格です。

性格とは、その人の思考パターンと、言い換える事ができます。

ある出来事や状況に遭遇したり、何かの対象物などを目にした時に、どのような反応を示すかは、その人の思考パターンによって違って来ます。

 ※631372さんによるPixabayからの画像です。

クモを見たら跳び上がるほど、クモ嫌いな人が、何の前触れもなく、ある日突然、クモ好きになる事はありません。

自動車に全く興味がなかった人が、何のきっかけもなく、急に自動車マニアになる事もないでしょう。

一般的に性格は、自分自身を表しているものと、考えられていると思います。

だから、昨日も今日も同じ性格である事は、昨日と今日の自分が同じだと、判断する大きな理由になります。

特別な何かが起こらない限り、昨日楽天的だった人は、今日も楽天的でしょう。

同じように、昨日悲観的だった人は、今日も悲観的です。

その程度に差はあるかも知れません。
でも、根本的な部分は、昨日も今日も同じです。

変わらない記憶と、変わらない性格。

この二つが、昨日も今日も、同じ自分が同じ世界にいると、判断する根拠になっていると言えるでしょう。

責任より思いやり 期待より感謝2

 ※Brad DorseyさんによるPixabayからの画像です。

親は子供に、期待をかけます。
それは大抵の場合、子供の幸せを願ってのことです。

将来、立派になって、人から信頼される人間になって欲しい。
世の中が不景気になっても、上手く立ち回る力を、身に着けて欲しい。
子供が選んだ世界で、トップになれるよう頑張って欲しい。

これらの期待は、そうなる事が子供自身の、幸せに結びつくと考えてのものです。

でも、中には歪んだ期待を、子供に押しつける親もいるようです。

自分たちの、老後の面倒を見てもらおう。
子供が立派になれば、自分たちも鼻が高い。
早く結婚して、孫を産んでもらえば、家も安泰だ。

こんな考え方は時代遅れであり、こんな風に考える親は、少なくなっているとは思います。

しかし、一部の親たちは、未だにこのような古い考え方を、抱いているようです。

こんな期待は親の自分勝手であり、子供を自分の道具のように、考えたものです。

期待をかけられた子供にしたら、迷惑とは言わないまでも、プレッシャー以外の何物でもないでしょう。

 ※RUANSHUNYIさんによるPixabayからの画像です。

親に反発できる人は、まだいいです。

親元を離れて、親から自立することで、自分を保つことができるからです。

親の世話になりながら、反発だけする人は、いずれ大きな問題を起こすでしょう。

真面目で親に逆らわないタイプの人は、親の期待に応えられないと、自分を情けない人間だと、思い込むかも知れません。

自分を追い詰めて、自殺を図る人もいるでしょう。

あるいは、ずっと従順だった親に対して、ある日突然、大爆発をする人もいます。

自分勝手ではなく、純粋に子供を想っての期待でさえも、子供の状況によっては、大きな負担になる可能性があります。

順調に行っている時には、いいのですが、壁にぶち当たったような時に、下手に期待をかけられると、パニックになるかも知れません。

とにかく期待はほどほどにして、どんな結果になろうとも、子供を温かく見守ってやるように、するのが大切だと思います。

 ※Keith JohnstonさんによるPixabayからの画像です。

そもそも期待するという事は、期待の先にある状況をいいものとし、そこから外れる状況を悪いものとする、価値観が絡んでいます。

でも、何がよくて何が悪いのかは、絶対的な意味では言えません。

どんな状況であっても、見る立場によっては、いいか悪いかが逆転する事もあるのです。

つまり、どんな結果になろうとも、それがいいか悪いかの判断をするのは、本人なのです。

また、悪いと思えることを、よかったと見られるようになることは、人間としての成長です。

そう考えると、期待すべきは結果ではなく、人間として成長することだと言えます。

そして、そんな姿を見せてもらえる事に、親は感謝をすればいいのです。

我が子に巡り会えた事。
我が子の成長を、見せてもらえた事。
我が子の笑顔が見られた事。

その事への感謝です。

 ※Ramadhan NotonegoroさんによるPixabayからの画像です。

これは学校の先生たちも、同じでしょう。

自分が産んだわけでもないのに、多くの子供たちと出会えるのです。
その喜びを、感謝の気持ちに変えれば、素晴らしい教育ができるでしょう。


企業を経営する人たちも、従業員を家族としてみれば、その対応の仕方も、また違ったものになると思います。

雇ってやっているのではなく、働いてもらっているのだという、気持ちを持たねばなりません。

どんなに威厳を示した所で、従業員が全員やめると言えば、どんな企業であっても、たちまち潰れてしまうでしょう。

会社が潰れるだけでなく、経営者たちの個人的な暮らしさえもが、崩れ去ってしまいます。

自分がいい暮らしができるのも、みんなが働いてくれているからだという、感謝の気持ちを忘れてはいけないのです。

 ※Clker-Free-Vector-ImagesさんによるPixabayからの画像です。

一方で、従業員の方も、会社への期待ばかり持つのではなく、感謝の気持ちを持つようにしないとだめです。

子供も親に甘えてばかりいるのではなく、親への感謝を忘れないよう、心がけねばなりません。

雇用主と従業員、親と子、そして教師と生徒。

双方の間で、互いへの思いやりと感謝の気持ちを、持つようにしていれば、どれほど素晴らしい世の中が、築けることでしょうか。

責任より思いやり 期待より感謝1

 ※チョコラテさんによる写真ACからの画像です。

今の世の中は、管理社会です。

学校でも職場でも、こういう人間であるべきとばかりに、決められた枠にはまる事を、求められます。

枠にはまろうとしない者や、はまろうと努力はしても、どうしてもはまらない者は、役立たずだとか、協調性がないやつという風に、見られてしまいます。

本当は優れた感性を持っていたり、他人にはない面白さを、持っていても、枠にはまる事の方が、優先されがちです。

先生や上司など、上に立つ人が理解のある人で、枠からはみ出ていても、本人のよさを伸ばそうとしてくれたならば、その人はラッキーです。

でも、大半の場合、枠にはまらないと、悪く見られてしまいます。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

下手をすれば家庭でさえも、躾の名の下に、子供たちが厳しい管理下に、置かれることもあります。

その躾が本当に社会的に、要求されている事柄であればともかく、大概の場合は、親の勝手な考え方や、ただの虐待である事も、多いと思います。

しかし、その親もまた、同様の管理下で育てられていたという事も、少なくないようです。

まともに子供を育てている家庭でも、幼い兄弟の上の子に、下の子の面倒を頼む場面が、あると思います。

ところが、上の子と言っても、幼い子供ですから、言われたようには、面倒が見られないこともあります。

その時に、その子を叱ってしまうのは、幼い子供に頼まれた事への、責任を求めているわけです。

でも、幼い子供に責任なんてことは、なかなか理解できないでしょう。

そういう事は、成長していく過程で、少しずつ覚えて行くことです。

親である自分も、子供の頃には同じ状況だったはずです。

しかし、大人になってしまうと、子供の頃の事なんて、忘れがちになってしまいます。

その結果、自分の都合で子供たちを、利用しようとしてしまうわけです。

相手の都合や状態など、考慮していないのですから、学校や会社が人を管理しようとするのと、同じですね。

つまり、誰かを管理しようとする時には、自分の都合を優先させて、相手の都合を考慮していないのです。

逆に言えば、相手の都合を考慮する時は、その人を管理するとは言いません。

 ※oldtakasuさんによる写真ACからの画像です。

話を初めに戻しますと、この世の中は管理社会ですが、それは社会が一人一人の都合など、考慮しないという事なのです。

みんな、それが当たり前だと、受け止めていると思います。

管理社会という言葉だけを聞いて、わかったつもりでいるのです。

でも、管理社会の本当の意味を理解したならば、どれだけ暮らしにくい環境に、自分たちが置かれているかがわかるでしょう。

企業や世の中への、奉仕ばかりが求められ、自分たちは誰にも、気に留めてもらえません。

これでは、頑張ろうという気持ちも、萎えてしまいます。

逆に、誰かにねぎらってもらったり、具体的な支援を受けることがあれば、感謝の気持ちが生まれ、それが新たな動きの原動力となります。

普段でもそうなのですが、今のように大変な時は特に、上に立つ者は、自分の事ばかり考えずに、下にいる者たちをねぎらう気持ちを、持ってもらいたいものです。

それは他人に対する、思いやりを持つということです。

 ※まっきぃぃさんによる写真ACからの画像です。

学校の勉強も同じです。

子供たちは勉強を強いられ、試験でいい点を取ることを、求められます。

それが将来のためだと言われても、どうして将来のためになるのかを、ちゃんと説明してくれる先生はいません。

説明するとすれば、就職の時に有利になるからだとしか、言えないでしょう。

その子にどんな仕事に向いているかなんて、まだわかっていないのに、就職の話を持ち出しても、意味がありません。

でも、就職の話以外に、好成績を収めなければならない理由を、誰が説明できるでしょうか。

それに、学校で求められているように、全員が好成績を収めたとしましょう。

みんなが好成績になれば、差がつきませんから、誰も有利になりません。

ほとんど違いがないのに、一方は認められて、他方は認められなかったとなると、それこそ何のための勉強だったのかと、いう事になるでしょう。

学校の勉強は、本来子供の好奇心を、伸ばしてやるためのものなのです。

就職のためなどではなく、人間としての成長を、促すためにあるのです。

競争は楽しむものであり、科目による得手不得手は、その子の個性に過ぎません。

競争に勝っても天狗にならず、負けても腐らない。
自分も楽しみながら、他の子も楽しめる気遣いを覚える。

他の子の喜びや悲しみを、自分のものとできるようにする。
自分と他の子の違いを認め、それが楽しい事なのだと理解する。

世界の不思議を見つけ、それを探求する心を養う。
自分を表現する方法が、一つではない事を知る。

こういった事を、子供たちに学ばせる事が、学校の役割でしょう。

その子の成長具合や理解の度合い、好奇心の方向などを考慮し、その子に本当に必要な事を、その子のペースに合わせて教える。

それが学校に求められる、教育の姿勢だと思います。

それは社会の宝である、子供たちへの思いやりです。

 ※Halit AkkayaさんによるPixabayからの画像です。

仕事を頑張ってくれている人々や、懸命に成長しようとしている子供たち。

彼らに対する、思いやりの心こそが、今の世の中に、求められているのだと思います。

大人になってから読んだ本

中学生の頃からは、読むとなったらマンガでした。
小説などの本は、ほとんど読んだ記憶がありません。

大学生になると、不思議な事が書かれた本は読みました。
でも、物語のような本は、やはり読まなかったですね。

たまに本屋さんで、話題になっているような本を、手に取ることはありました。

でも少し読むと、自分には向いていないと思って、元に戻しました。

何度かそんな経験をすると、大人が読む本なんて、面白くないものばかりだと、勝手に決めつけるようになりました。

それで、社会人になってからも、小説を読むことはありませんでした。

しかし、三十代に入ってから、何となく古本屋で、手に取った本を読んだ時、私は衝撃を受けました。

冒頭に記述された、物語の舞台の情景が、本当にそこにいるかのように、目に浮かんだのです。

思わず読み進めて行くと、主人公が登場するのですが、その暮らし様が、また目に浮かびます。

これは絶対に買うべきだと思い、すぐさまその本を購入しました。

それは藤沢周平氏が書いた、「蝉しぐれ」という時代小説です。

文庫本でしたが、他の文庫本と比べると、かなり分厚い本でした。

それでも話の展開が面白くて、二日かけて読み切りました。

その後も、藤沢氏の他の作品も読みたくなって、次々に購入しました。

むさぼるようにして読んだ本は、全部当たりでした。

私は、どうしてこの人の本は、こんなに心に響くのだろうと考えました。

そして、わかったのが、どの作品にも、著者の人柄が滲み出ているという事でした。

藤沢氏の作品に共通しているのは、一生懸命に生きている人の姿を、一生懸命に書き表している事です。

それは、懸命に生きる人々への、共感と励ましなのです。

藤沢氏は、ご自身が大変な苦労をされた方で、とても優しい人なのだなと思いました。

また、ユーモアもあって、読む者の心の緊張を、ふっと解いてくれるような、話し上手な方です。

作家は誰もが話し上手だと、思われるかも知れませんが、そうではありません。

作家によって、文章の文体は違いますが、そこには作家の人柄が表れています。

わかりにくい文体を、特徴とする作家もいるのです。

藤沢周平氏が登場人物たちを見る眼差しは、とても優しいのです。

また、この藤沢氏は山形の方なのですが、山形をとても愛しているのだという事も、読んでいて伝わって来ます。

作品に描かれた登場人物も舞台も、全て藤沢氏の心の中にあるもので、どの作品も藤沢氏自身の分身だと言えるでしょう。

だからこそ、藤沢氏の作品は心に響き、夕日が沈んだ後も紅く染まったままの空のように、読み終わってからも、心の中に深い余韻を残すのだと思います。

そんなわけで藤沢氏の作品は、私に読書の面白さを、思い出させてくれました。

それから藤沢氏以外の作品も、いろいろ読むようになりました。

しかし、読後に感動が胸に残る作品は、案外少ないと感じました。

藤沢氏以外で、私が心を惹かれた作家は、浅田次郎氏です。

とても有名な方ですが、とにかく泣かせるような物語を作るのが、得意な方です。

男とは、人とは、こういうものなのだと、訴えているような作品が、多いような気がします。

今の人たちは、本よりもネットゲームやネット動画に、夢中になっているようですが、何かのきっかけで読書も面白いと、思うようになるかも知れません。

ぜひ、そうなってもらいたいと思います。

全ての本が面白いとは、私は思いません。

自分に合う作家とは、滅多に巡り会えないかも知れません。

それでも、もし素敵な作家と出会えたなら、必ずや人生観が大きく広がるに違いありません。

本なんかつまらないやと、頭から決めてかからずに、機会があれば、本を手に取ってみるのも、いいと思います。

子供の頃に読んだ本

 ※PexelsさんによるPixabayからの画像です。

若者の読書離れが言われ始めて、もう30年になるそうです。

紙の本を読む人は、加速度的に減っていますし、電子書籍もその穴埋めをするには、至っていないようです。

今の人たちは、本を読むよりも、ネットゲームやネット動画の方が、面白いと言います。

私も若い頃は、読書をするよりも、マンガの方が面白いと思いました。

その理由を考えますと、マンガですから絵が描かれているので、わかりやすくて目を惹かれたのでしょうね。

子供用のマンガは、子供が喜ぶようなストーリーになっています。
それに本の話と違って、いきなり面白い展開が、始まったりします。

登場するキャラクターたちも、性格が一目瞭然で、すぐに好き嫌いの判断ができます。

本の場合は、しばらく読まないと、話の状況がわかりません。

登場人物についても、そうですし、ストーリーそのものも、読み進めて行かないと、気に入るかどうかの判断ができません。

よくわからないまま読み続けると、読むのに疲れて、もういいやとなってしまいます。

私が小学生の頃、小学館が出版した「世界の名作文学全集」というものがありました。

一冊が百科事典のように分厚い本で、一冊の中にいくつかの話が収録されています。

そんな本が、全50巻もあるシリーズで、それを私の父が購入しました。
もちろん、自分の子供に読ませるためです。

その子供とは、私と兄と弟の三人です。

しかし、兄も弟も読みません。
それで私が、読むしかありませんでした。

 ※Sofía López OlaldeさんによるPixabayからの画像です。

一冊を全部読んだと言えば、親に喜んでもらえるし、読まなければ、がっかりされてしまいます。

親の期待に応えるために、私は本を必死に読みました。

それでも一冊全部を読むのは、かなり骨が折れました。

子供向きの面白い話は、すいすい読めました。

でも、ちょっとむずかしい話だと、読んだというより、文章を目で追ったという感じでした。

ただ、あとでどんな話だったのかと聞かれるので、物語の要所要所は、押さえるようにしていました。

そうやって、五十巻全部を読み切ったのに、頭に残っている話は、ほとんどありません。
ただ、読んだというだけです。

この話はよかったなとか、また読みたいなと思ったものは、一つもありませんでした。

でも、学校の図書館で、自分で選んで読んだ本は、とても気に入り、何度も同じ本を借りて、読みました。

それは「うりんこの山」という、三匹のイノシシの子供たちの話でした。

やいば、いぶき、すずか、という名の三匹のうり坊たちが、成長して行く話です。

 ※北村けんじさんの「うりんこの山」

子供の本なので、挿絵がありました。
この絵も、何だかとても魅力的でした。

私は次男だったので、同じく二番目のうり坊、いぶきがお気に入りでした。

懐かしく思って、インターネットで調べてみると、すでに廃刊となっているようで、古本屋でも手に入らないみたいです。

私と同じように、子供の頃にこの本を読んで感動し、大人になってから探し求めている人が、何人かいらっしゃるようなので、何だか嬉しい気持ちになりました。

そうそう、思い出しました。
「世界の名作文学全集」の中にも、一つだけ印象の強かった話がありました。

それは「子鹿物語」です。
話の内容は、ここには書きませんが、有名な話なので、ご存知の方も多いと思います。

私はこの本を読んで、人間がとても嫌いになりました。

人間が自分の都合で、生き物の命を奪うのです。

それが生きる事だと、作者は伝えたかったのかも知れません。

でも、それこそ大人の勝手な考えでしょう。

その怒りは今でも、胸の奥に残っています。
ですから、この物語は繰り返して読んだりしていません。

ただ、「うりんこの山」にしても、「子鹿物語」にしても、子供だった私の心に、強い印象を残した点では、同じです。

そういう意味で、二つの物語は、どちらも優れた話なのだと思います。

そして本とは、そういうものでなければならないと、思うのです。

世界は変わるもの2

 ※Squirrel_photosさんによるPixabayからの画像です。

足下の地面、あるいは波が揺れ動くならば、それに合わせて動きます。
揺れに逆らうのではなく、揺れに合わせるのです。

転んだら、もう一度起き上がって、動く地面や波をつかまえます。

つまり、どんな状況になろうとも、その状況に応じた動きを、するように心掛けるのです。

これまでと同じ安定を、求めてはいけません。
同じ事を求めるから、上手く行かず落胆するのです。

安定など初めからないと思って、いろんな事に固執するのをやめましょう。

せっかくの仕事を、やめる事になるかも知れません。

苦労して購入した家を、手放す事もあるでしょう。

家族が離れて暮らす事を、余儀なくされる場合もあります。

それでも、その事自体には抗わず、新たな暮らしを模索するのです。

こうでないといけないとか、自分が情けないとか、本当はこんなはずではなかった、などという考えは捨てましょう。

絶望的に見える事にも、新たな展開のチャンスが、潜んでいるものです。

要は絶望的な事を、単に絶望的だと受け止めるかどうかの、問題なのです。

つまづいて転んだ石に、腹を立てる人もいれば、その石が金塊だと気づく人もいるのです。

 ※Csaba NagyさんによるPixabayからの画像です。

どうしていいかわからない時には、誰かの助言を仰ぎましょう。

一度や二度、助言が得られなくても、諦めてはいけません。

本当に次のステップへ進みたいのであれば、歩みを止めてはいけないのです。

また、どちらへ進んでいいのかわからない時は、自分が行きたいと思った方へ、進めばいいのです。

どうせ何をやってもだめであるなら、自分がやりたいと思っていた事、興味が持てる事に向かって、進んでみるべきでしょう。

すると、そこから新たな道が、見つかるものなのです。

諦めて動くのをやめたり、どうせだめだと思いながら動いていたのでは、絶対に上手く行きません。

どんな状況の中でも、楽しさを追い求めて動く事が、肝要なのです。

 ※Ryan McGuireさんによるPixabayからの画像です。

楽しさがあると、まず自分の気分が、よくなります。

また、楽しさは人を呼び、自然に人とのつながりが生まれます。

初めは小さなつながりでしょうが、そのつながりが、やがては大きなつながりに、なるのです。

嘘だと思う人もいるでしょう。

でも、どうせ上手く行かないのであれば、楽しさを追い求めてみても、損はないと思います。

落ち込んでいると、嫌な事ばかり考えてしまいます。

その気分を解消できるだけでも、やってみる価値はあるでしょう。

とにかく、自然も世の中も、変化するものなのです。
変化を嘆いても、仕方がありません。

どんな変化が起ころうと、その中にチャンスを見つける気持ちを、持つ事が大事だと思います。

ポイントは、感謝と思いやりです。

人々を喜びに導く事であれば、それがどんな事であっても、上手く行きます。

自分だけが生き延びようとか、自分だけが儲けよう、などという思いがあると、必ず失敗するでしょう。

変化の中で生きて行くためには、楽しい気持ちが欠かせません。

でも絶対に、他の人たちとの絆を、忘れてはいけないのです。