コロナ後への期待

7月22日に Go To キャンペーンが始まってから、どこの地域もコロナ感染者数は、第2波と呼べるピークを迎えました。

ただ、そのピークの高さは地域によって異なります。
それはキャンペーンによって、どれだけ多くの人が移動したかを、反映しているようです。

幸い愛媛県では、第2波のピークは高くありませんでしたし、すぐに落ち着きました。

他の県でも、愛媛県と同じような所は多いようですが、後になってから、再び感染者数が増えて来ている県もあります。

愛媛県と同じ経過を、日本全体が迎えているわけではありません。

 ※新型コロナ国内発生状況(厚生労働省ホームページより)

東京や大阪などの大都市と、その周辺地域でも、第2波のピークは過ぎたようです。

しかし、感染者数は地方のようには下がりきらず、高止まりのまま推移しています。

それでも、諸外国の状況と比べると、国全体がパニックに陥るような数ではありません。

また、感染者数は多くても、重傷者数や死亡者数の割合は、減少傾向にあります。

これは多くの国民が、互いに感染しない、させないという配慮を、しているからだと思います。

コロナ騒ぎが始まった頃は、状況が全くわからず、不安ばかりが先行していました。

しかし、実態がわかって来た今、無闇に恐れる必要がないという印象を、みんなが持ち始めているような気がします。

それでも、日本人は警戒を怠りません。

国が警戒を緩める姿勢をみせても、それぞれが気をつけ続けているようです。

それだけでなく、お洒落なマスクを作ったり、家庭で子供たちと過ごす時間を楽しんだり、新しい仕事の在り方や、地方での暮らしを選択したりと、人々の価値観が大きく変化して来たと思います。

映画「鬼滅の刃」の大ヒットは、海外が驚くほどの興行成績で、コロナなどどこ吹く風といった感じです。

多くの人たち、特に若い人たちが、コロナへの不安ではなく、映画を通じて家族愛や勇気に、意識を向けるようになった事は、注目に値する事だと思います。

不安は、さらなる不安を呼び込みます。

不安から喜びに目を移す事で、希望への道が開けるのです。

もちろん、油断をしてはいけません。

でも、きっと日本は、このままの雰囲気で、進んで行くでしょう。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

コロナに苦しむ諸外国の様子は、ニュースでも報道され、コロナがいかに恐ろしい病気であるか、訴え続けています。

しかし、日本にいると、まるで別世界の話を、聞かされているように思えます。

それにニュースでは、コロナの恐ろしさが強調されていますが、本当の問題は、コロナ以外にあるように見えます。

以前からある問題が、露呈してしまったため、それをコロナのせいだと、言い逃れをしているようです。

もちろん、それは日本でも言えることです。

何でもかんでも、コロナのせいにしていては、いい世の中にはなりません。

コロナで発覚した問題は、本当の原因がどこにあるのかを、見極めないといけません。

コロナに感染しても、重症化する人は限定的と言えるでしょう。
感染しても回復する人が大半です。

しかし体力のない人や、持病がある人などが罹患すると、悪い結果になる事があります。

 ※truthseeker08さんによるPixabayからの画像です。

若い人でも、不摂生や過ぎたダイエットをしていたり、大きなストレスを抱えていたりすると、免疫力が落ちてしまいます。

そんな人がコロナに感染すると、やはり重症化する可能性はあると言えます。

でも、健全な体を持つ人は、それほどコロナを恐れる必要はないでしょう。

ただ、知らない間に感染したウィルスを、体の弱った人に移すかも知れないという、配慮は必要です。

つまり、健全な体と他者を思いやる心があれば、コロナをそれほど恐れる事はないのです。

経済を回す事は、社会を維持するためには、大切な事でしょう。

しかし、お金を動かす事だけを重視して、人々への思いやりを忘れた政策は、知恵に欠けていると言えます。

日本の被害が、この程度で済んでいるのは、政策のお陰ではなく、国民性の賜だと思います。

逆に言えば、どんなに素晴らしい政策を打ち出しても、国民同士が思いやりの気持ちを持てなければ、悪い結果に結びつくでしょう。

また、お金のない事が問題になるわけですから、国も国民も、お金ありきの発想を捨てて、新たな道を切り開くべきだと思います。

ボランティアの概念を超えた、助け合いを基本にした社会を、築くことができれば、コロナなどは恐れるに足らずです。

そして、真面目で思いやりのある日本人が、本気で考えれば、それは可能だと私は信じています。

 ※Anemone123さんによるPixabayからの画像です。

自分の味方は自分 その2

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

やってはいけない事をした。
誰かを深く傷つけてしまった。
本当の自分を見せられず、みんなを偽り続けて来た。

こんな人は、自分を人間として最低だと、考えるかも知れません。

でも、それは間違いです。

自分がよくない事をしたのであれば、その事は反省が必要でしょう。

傷つけた人がいるのなら、その人の気持ちを、思いやる必要があります。

しかし、自分を責めてはいけません。
反省する事と、自分を責める事とは別物です。

とてもひどい事をしたのであれば、深い反省は必要です。

しかし、自分を責めて追い詰めるのは、間違いです。

 ※Please Don’t sell My Artwork AS ISさんによるPixabayからの画像です。

たとえ世界中の人が責めたとしても、自分だけは、自分の味方でいるのです。

家族や友人に責められても、自分を見捨ててはいけません。

つらいかも知れませんが、それでも自分という存在を、嫌ってはいけません。

みんながどんなに怒っても、自分だけは味方だよと、自分自身に伝えて下さい。

これからどうすればいいのかを、一緒に考えようと、自分を励ましましょう。

つらい事があっても、自分だけはいつも一緒だからと、話しかけるのです。

自分で自分に話しかけるなんて、奇妙に思えるでしょう。

知らない人が見たら、頭がおかしくなったと、思われるかも知れません。

でも、私たちの中には、いくつもの人格が共存していると、考えて下さい。

子供の頃のままの自分もいれば、仕事一筋の自分もいます。
男性的な自分もいれば、女性的な自分もいます。
人に冷たい自分もいれば、人に優しい自分もいるのです。

自分を励まし、自分を力づける自分とは、たくさんある人格の中の、高度な意識を持った自分なのです。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

自分を励まそうとする事で、数ある人格の中に埋もれている、高度な意識の自分が呼び出されます。

この高度な意識の自分というのは、無意識の自分、つまり本当の自分に近い存在だと、考えて下さい。

いけない事をして責められる自分は、何が本当に大切なのかを、理解できていない自分です。

過ちを犯した自分は、本来の自分とは、かけ離れた姿をしているかも知れません。

それでも自分は自分です。
見捨てるわけには、いきません。

ただ、落ち込んでいる自分に、全てを任せていたのでは、状況はどんどん悪くなるばかりです。

ですから、ここはコーチである、高度な意識の自分の出番なのです。

選手交代ではありません。
意識の主役は、落ち込んでいる自分です。

高度な意識の自分の役割は、そばに寄り添うコーチです。

落ち込む自分に考えさせ、行動を起こさせる事で、何が大切であるかを、理解させるのです。

落ち込む自分が、大切な事を理解できるようになれば、その意識は高度な意識と、融合できます。

そうやって、より多くの意識が成長し、高度な意識と融合すれば、自分という意識の中を、常に高度な意識が、占めるようになります。

これは一人の人間として、大きく成長するという事です。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

高度な自分を呼び出すのは、最悪の状況でなくても可能です。

何かで迷った時に、本当に大切な事は何かな、と自分に問いかければいいのです。

それだけで、高度な自分は登場します。

悩んでいる方の自分は、自分の問いに対して、大切なものはこれだと、回答します。
高度な意識の自分は、本当にそれが大切なのかと、繰り返し尋ねます。

あるいは、自分の選んだ答で、何が失われるのかを、確かめさせます。
そのうえで改めて、それが大切なのかと問いかけます。

悩んでいる自分は、初めは頭の中で、理屈で考えます。

でも次第に、感覚的に理解しようとするようになります。

損得で考えるのではなく、自分の選択で、傷つく人がいるかどうかを考慮します。

その結果、初めの選択を、取り止めるかも知れません。

あるいは、それでも選択せざるを得ないと、結論づける事もあるでしょう。

そんな時でも、できる限り、人を傷つけないような方法を、考えるはずです。

また、そこまでして選択する事の、重みを理解すると思います。

 ※Karin HenselerさんによるPixabayからの画像です。

誰の中にも、高度な意識の自分は存在します。

それは、その人が高貴な存在である証なのです。

どんなに苦境に陥っていても、どんなに最低に見える状況にあっても、その人の価値がなくなる事はありません。

その人は高貴な自分に、気づいていなかっただけなのです。

悩んでいなくても構いません。
自分に問いかけてみて下さい。
一番大切な事は、何なのかと。

あなたは何と答えるでしょうか。
その答が、あなたの生き様を示します。

そう考えると、あなたは思わず問い直すでしょう。
本当にそれでいいのかと。

何事もないうちから、こう問いかけていれば、あなたはいつでも幸せを、感じる事ができると思います。

自分の味方は自分 その1

 ※Alexandr IvanovさんによるPixabayからの画像です。

あなたは自分の事が、好きですか。

好きだと言える人は、幸せです。
好きだと言えない人は、不幸せを感じていると思います。

失敗ばかり繰り返す自分を、責める人。
絶対にやってはいけない事を、やってしまった人。
取り返しのつかない事をして、誰かを深く傷つけてしまった人。

何の取り柄もなくて、つまらない人間だと思っている人。
何でも人に合わせてしまい、本音を出せない人。
幸せじゃないくせに、幸せであるふりをしている人。

思い当たる方はいるでしょうか。
思い当たった方は、自分の事を、どう思われるのでしょうか。

自分を嫌いとは言わなくても、自分に自信がないと言う人は、いると思います。

言葉の違いはありますが、どちらも自分を否定している点では、同じです。

 ※Qu JiさんによるPixabayからの画像です。

自分を否定する理由など、本当はどこにもありません。
それでも否定したくなるのには、理由があるはずです。

それは、他の人と自分を比べて、優劣を考えてしまうからでしょう。

赤ちゃんの頃には、自分と他人の違いなど、気にしていなかったと思います。

でも、大きくなるにつれて、自分と他の人との違いが、わかるようになり、そこに優劣という価値観をすりこまれるのです。

たとえば、あなたは生まれつき体が不自由だとします。

当然、他の子供と同じようには、動けません。

その事で誰かから馬鹿にされたり、差別されたりすると、あなたは心が深く傷ついて、自分はみんなより劣っているのだと、考えるようになります。

あなたを慰めようとして、同情を寄せる人もいるでしょう。

しかし、同情というものは、高い位置にいる者が、低い位置に見せるものです。

表面的には同情する人は、あなたの味方になっているように、見えるかも知れません。

でも、あなたは同情される事で、自分のポジションが、人より低いのだと、再確認するのです。

実際は、体にハンディを背負っていても、すごい事をやってのける人は、いくらでもいます。

それにハンディを背負っていると言っても、本人にすれば、それが普通なのです。
ハンディでも何でもありません。

 ※Torben StroemさんによるPixabayからの画像です。

空を飛ぶ鳥から見れば、人間は全員が、翼がないハンディ持ちです。

でも、誰もそんな風には、考えませんよね。
翼がないのが、人間にとっては普通だからです。

人間にとって、一番大切な事は、感謝と思いやりの気持ちを、持つ事です。
それが持てない人は、人間としては未成熟です。

他の人と比べて、外見が違うかどうかは、全くポイントではありません。

見た目の違いを馬鹿にする人も、何もわかってもいないのに、同情心を寄せる人も、中身は同じです。

そうする事で自分のポジションを、相対的に高く見せようとしているのです。

つまり、誰かを自分の引き立て役に、利用しようとしているだけなのです。

物事がわかっていて、自分に自信を持つ人は、見た目の違いを馬鹿にしないし、同情もしません。

体が不自由に見えたとしても、その人の才能が、どこにあるかを、瞬時で見抜く事でしょう。

 S. Hermann & F. RichterさんによるPixabayからの画像です。

誰かに自分の容姿の事で、心を傷つけられるというのは、無知な人の価値観で、自分自身を見てしまうという事です。

そんなのは馬鹿馬鹿しいですし、時間の無駄です。

嘆いている暇があるのなら、自分がやりたい事を、思う存分楽しんだ方がいいでしょう。

学校の勉強が苦手であったり、スポーツが苦手であったり、何をやっても不器用だ、という場合にも、同じ事が言えます。

苦手と思うのは、それに対して、好奇心を持てないというだけの事です。

好奇心があれば、上手にできなくても、上手になろうとするでしょう。

まだ、上手になれていない状態を、苦手だとは表現しません。

本当にやりたければ、人の何倍も練習をする事になっても、苦にはなりません。

やりたい事ができれば、それでいいのです。
できるまでに、どれだけ時間がかかったのかなんて、少しも問題ありません。

逆に、時間をかけさえすれば、何だってできるんだと、強い自信を持つようになるだけです。

でも、気をつけないと行けないのは、自分を馬鹿にした連中を、見返してやるんだ、という気持ちでやる事です。

それは楽しむという目的から、はずれています。

それでは練習が嫌になりますし、やろうとしている事の、本当の楽しさがわかりません。

誰が何を言おうと、そんな事は気にしないで、自分が楽しむ事に没頭する。
これが大事なのです。

自分で自分を、低く見るべきではありません。

自分は常に、自分の味方でいないといけないのです。

がんばれ 勝手につくば大使!

茨城県つくば市の市議会選挙で、とても個性的な方が当選しました。

モヒカン頭がトレードマークの、勝手につくば大使さんです。

得票数は 2,401票で、当選者 28 人中、19番目の得票でした。

元々は北海道の方で、子供の頃は何度も転校をしていたため、落ち着ける所がなかったそうです。

詳しくは、勝手につくば大使さんのホームページを、お読み下さい。
ここではポイントだけを、抜粋してお伝えします。

彼は筑波大学三年生の時、将来何をしようかと思案していたと言います。
その時に、大学の先輩から提案されたのが、勝手につくば大使なのだそうです。

その先輩という方が、どこまで真面目に話をされたのかは、定かでありません。
でも、この話に彼は食いついたのです。

つくばで暮らすようになった彼は、ようやく自分の居場所を見つけたと、実感したそうです。
その大好きなつくばのいい所を、内外に向けて発信する事は、彼にとって、とても魅力的に思えたようです。

勝手につくば大使になった彼は、地元にある見所の場所や、お勧めの店、イベントなどを、ブログやフリーペーパーで紹介しています。

そこでは単なる面白さだけでなく、つくばの人々の活き活きした様子や、魅力についても、しっかりと伝え続けています。

その活動は5年にも及び、今や地元の人たちにとって、勝手につくば大使さんは、とても信頼のおける好人物と、見られているのだと思います。

理屈ばかり述べる人よりも、普段から人々のために、わかる形で動き回っている人物の方が、好感度が高いのは当然でしょう。

今回の市議選の当選は、当たり前と言えば、当たり前の事だと言えます。

勝手につくば大使さんは、トレードマークのモヒカンの頭のまま、立候補しました。

お金もないので、バイトで稼いだお金を、選挙費用に使い、選挙カーもない状態で、地域を回ったと言います。

普段から地道に活動している方は、選挙にお金をかけなくても、当選できるという、いい見本だと思います。

選挙にはお金がかかると、まことしやかに語る人たちは、普段何をされているのかと、考えさせられますね。

勝手につくば大使さんは、まだ若干26才です。
普通だと当選なんて、考えられないような年齢です。

しかし、普段の人柄が認められた上での、若さは何よりも強い武器でしょう。
新しい発想や行動力が、人々の期待を集めているのだと思います。

面白いのは、彼のヘアスタイルです。
モヒカン頭は日本では、あまり馴染みがある、ヘアスタイルではありません。

それについて、勝手につくば大使さんは、ご自分でも見た目は悪いと、認めていらっしゃいます。
でも、見た目が悪くても、中身はとても素敵な人で、信頼できる人物となると、いい意味で人々の目を惹きます。

勝手につくば大使さんが、モヒカン頭のままで市議になった事で、彼の存在は日本中に知られる事になりました。

その結果、人を外見だけで判断する事が、これからの日本では、少なくなるのではないかと思うのです。

また、勝手につくば大使さんのように、枠に囚われない形で、自分の思ったように行動し、みんなに喜んでもらおうと考える、若い人たちが増えて来るように思います。

日常の暮らしの中でも、そんな人が、どんどん現れて来ることでしょう。

政治の世界にも、期待できる若い人が、増えて行くと思われます。

選挙の時だけ、お金をばらまき、選挙カーで騒ぎ回る人ではなく、普段の活動を通じて、広く顔を知ってもらう人が、選ばれるようになるでしょう。

それは芸能人ではなく、日常の中で、みんなのために動き回っている人たちです。

今後の日本中の議員の中に、真剣に市民のことを考えられる、若い人がどんどん参入する事を、勝手につくば大使さんは教えてくれているような気がします。

四国から遠く離れた茨城県のことですが、とても嬉しく、また頼もしく感じました。
今後の勝手につくば大使さんの活動を、応援したいと思います。

これからの日本が、どうなるのか。

勝手につくば大使さんを見ていると、わくわくした気持ちにさせられます。

存在する価値 その3

 ※Enrique MeseguerさんによるPixabayからの画像です。

自分の価値で悩む時、全体的に共通して言える事は、こうでなければならない、こうに決まっているという、決めつけた思い込みです。

何かをする以上、トップを目指さなければならない。
男である以上、弱音を吐いてはいけない。
女である以上、家庭を守るのが当たり前である。

一つでも汚点がついた者は、人間として失格だ。
学歴がない自分の人生が、花開く事はない。
ちやほやされても、本当の自分は無能だ。

他にもいろいろあるでしょう。
いずれにしても、根拠のない価値観で、自分を縛りつけて、心を窒息状態にしているのです。

心が辛うじて息ができているうちは、不安を感じているだけです。

しかし窒息状態になると、心はパニックになって、発作的に人を傷つけたり、自分自身を傷つけたりするのです。

でも、いきなり窒息状態になるのではありません。

そうなる前に、自分を苦しめている価値観が、偽りの価値観である事を、見極めるのです。

そういった価値観というのは、誰かが誰かを支配するために、作られたものなのです。

相手から自由を奪い、不安を起こさせる事で、自分を有利にしようと考えた者が、作ったものなのです。

 ※Ulrike MaiさんによるPixabayからの画像です。

裏切られた、見捨てられた、無視された、恥をかかされた。

いろんな事で、深く心が傷つく事はあるでしょう。

それが何年経っても、心の奥底に棘のように、突き刺さったままのように、感じるかも知れません。

だけど、これにしたって、やはり支配者による価値観で、束縛されているのです。

そうでなければ、苦しむ事などありません。

誰かと上手く行かないのは、先に述べましたように、波長が合わない。
それだけの事です。

たとえ、それが家族であっても、親友であっても、先生であっても、関係ありません。

みんな一人の人間であり、それぞれの波長を持っているのです。

波長が合わなくなったのなら、離れるだけの事です。

相手がその事を、どう思うのかは関係ありません。

自分がどう受け止めるのかと、いう事だけです。

 ※上原淳也さんによる写真ACからの画像です。

人間関係で上手く行かない経験があった時、その事で自信を失うのは、小学校の体育で、跳び箱が跳べなかった事を、大人になっても悔やみ続けているようなものです。

だから、何?
それが、どうしたの?

これで、いいのです。
大した問題ではありません。

その事であなたに同情する人は、同情する事で、無意識かも知れませんが、自分の立場を有利にしようとしているのです。

同情という言葉は、聞こえはいいのですが、相手を低く見る行為です。

それはつまり、自分の相対的な地位を、高める行為なのです。

共感はいいと思います。

でも、同情はするべきではありませんし、されるべきでもありません。

同情されると、自分の位置は低いものだと、無意識に受け止めるようになってしまいます。

その思いは心の奥にとどまり続け、どんなに状況がよくなっても、お前になんか価値はないんだぞと、囁き続けるのです。

同情されていなくても、世間一般のそういう考え方を、何の疑いもなく受け入れてしまうと、やはり同じ事になってしまいます。

世間が同情するような、境遇に陥ったとしても、自分を哀れんではいけません。

自分を哀れむ事は、自分は価値がないと、自分に呪いをかけているのと同じです。

哀れまないで、ただそこから立ち上がる事だけ、考えましょう。

そして、同じ境遇の人たちに、共感してあげて下さい。

ある価値観に縛られて、苦しんでいる時は、自分はハメられていると、受け止めましょう。

そして、その価値観に従う事が、どれだけ愚かで、馬鹿馬鹿しい事なのかを知るのです。

大切な事は、自然な人間の姿を考え、本来の自分がどういうものなのかを、理解する事です。

自然に咲く花たちは、自分がこうあるべきだなんて、考えていないと思いますよ。

 ※Selling of my photos with StockAgencies is not permittedさんによるPixabayからの画像です。

世の中に存在するものに、無駄なものは一つもありません。

人間も宇宙の一部です。
どんな人間にも、存在するだけで価値があるのです。

本当に存在価値がないのであれば、初めから存在していません。

自分が存在しているという事は、それだけで不思議な事ですし、素晴らしい事なのです。

考えるのであれば、存在価値ではなく、存在する意味を考えるべきです。

わからなければ、追求すればいいのです。

自分が今、この時代に、今の家族に、この状況にあるというのは、必ず意味があるのです。

そして、その意味がわかるのは、自分だけなのです。
他の人にはわかりません。

わからない連中が何を言った所で、それこそ意味がありません。

わかっていない者たちの価値観など、放って置けばいいのです。

自分がどうして、この時代、この世界に生きる事を選んだのか。

それを探って欲しいと思います。

存在する価値 その2

 ※StockSnapさんによるPixabayからの画像です。

自分はもう、世の中から必要とされては、いないんじゃないか。

そう考える時は、世の中の状況、あるいは自分の周辺の雰囲気が、自分の期待と大きく違っているのだと思います。

別の言い方をすれば、世の中の流れから、自分一人が取り残されているような、気がするという事でしょう。

でもそれは、こういう見方をする事ができます。

自分の波長と、世の中の波長に、ずれが生じて来たという事なのです。

その波長のずれを感じ取り、不安になってしまうのでしょう。

 ※pさんによる写真ACからの画像です。

しかし、それは自分が異常だと、いう意味ではありません。

自分だけが、取り残されたという事でもありません。

それまで周囲と同じ波長でいたのに、それがずれたのだとすれば、それは自分が、次のステージへ行く時期が来たという事なのです。

次のステージと言うと、ゲームのように聞こえますが、ゲームみたいなものだと、考えても構いません。

それぐらい軽く考えていて、いいものなのです。

それを深刻にとらえてしまうので、不安がどんどん膨らむのです。

そして自分でも、どうにもできなくなってしまうのです。

今まで続けていた仕事なのに、最近、何か違うと思うようになって来た。
何の気苦労もなしに来たけど、このままでいいのだろうかと、考えるようになった。

夫婦や友人、あるいは職場の人たちと、ずっと仲よくしていたつもりだった。
それなのに、この頃何か雰囲気が、おかしく感じるようになった。

自分の考え方や価値観に、修正すべき所があるのであれば、それを直すだけで、波長のずれはなくなるでしょう。

でも、そんな事をすれば、自分が自分でなくなってしまう、と思うならば、それは自分の波長に合う場所へ、移動しなさいというサインなのです。

ただ、それだけの事です。
それ以上、余計な事を考える必要はありません。

 ※Mabel AmberさんによるPixabayからの画像です。

そこを離れたくても、結婚しているから動けない。
親の介護があるから、どうにもならない。
他へ行っても、生活できない。

いろいろ動けない理由は、あるかも知れません。

でも、それは全部、自分の思い込みです。
こうでなければならないという、束縛的な価値観です。

無理をして、波長が合わない所に、とどまり続けても、何の解決にもなりません。
いずれ病気になったり、大きな問題が起こって来ます。

誰かに傷つくような事を、言われたとします。

それにしたって、自分と相手の波長が、合わないのです。

無理に一緒にいたら、喧嘩になってしまいます。

喧嘩は嫌だからと、ぐっと我慢していても、いつかは爆発するでしょう。

この場合も、この人とは波長が合わないから、離れているのがいいな、というだけの事です。

波長が合わない事で、悩んだり傷ついたりする、必要はありません。

そこから離れればいいのです。

そこが職場であるならば、別の部署へ移してもらう事を、相談するのです。

それがだめなら、職場自体を変えるのがいいでしょう。

そもそも、人を傷つけるような人物を、放置している職場にも、問題があるのです。

新たな職場を見つけるのには、苦労をするかも知れません。

それでも、自分の波長に従って動いたならば、必ず新天地が開けます。

移動する事には、合わない波長から逃れるという、意味があるだけではありません。

自分に合った、自分が活き活きできる場を、見つけるという意味もあるのです。

そんなの無理だと思うのであれば、それも構いません。

それも一つの価値観ですし、誰がどの価値観を選ぶのかは、その人の自由です。

ただ、自分が辛い時には、価値観を変えてみるのが、一番の方法なのです。

その事は、自分が辛くなる前から、理解しておいてもらえたらと思います。

存在する価値 その1

自分なんかに価値はない。

そう思う人は、意外に多いのではないでしょうか。

今はそうは思っていないけど、かつて、そう考えた事がある。

そんな人も、結構いると思います。

これまで一度も、そんな風に考えたことが、ない人もいるでしょう。

しかし、思いもしなかった挫折感や、孤独感を味わうと、どうでしょうか。

自分には価値がないかも知れないと、考えるかも知れません。

 ※StockSnapさんによるPixabayからの画像です。

もし今あなたが、自分には価値がないと感じていたならば、ちょっと考えてみて下さい。

その価値というものは、何を基準に決めているのかという事を。

価値を決める時には、必ず何らかの基準が、必要となります。

たとえば、一等地と呼ばれる、土地の値段が高いのは、その土地の需要度が高いからです。

しかし、その地域が一等地でなくなれば、同じ土地なのに、一気に価格が下がるでしょう。

つまり、土地の価値が下がったわけです。

この場合、価値の基準は、土地の需要度にあります。

でも、その場所で何かをしたい、その土地が欲しい、という人にとっては、その土地はとても価値があるわけです。

一等地を前提にした需要ではなく、個人的な需要が、この場合の価値の基準になるのです。

 ※Free-PhotosさんによるPixabayからの画像です。

コロナ騒ぎで仕事を失ったり、活躍の場がなくなった人たちが、自分にはもう価値がないのではないかと、考えているようです。

公の場所で活躍できるからこそ、自分に価値がある。
お金を稼げるからこそ、自分に価値がある。

そう考えてしまうと、それができなくなった時に、自分には価値がないと思います。

また、こういう価値観に従えば、コロナ騒ぎがなかったとしても、病気や怪我で仕事ができなくなれば、やはり自分に価値がないと考えます。

世の中には、お金を稼げない人や、人々の注目を浴びる事がない人が、たくさんいます。

そういう人たちが、世の中の人間の、大半を占めているのでは、ないでしょうか。

もし、そういう人たちに、自分には価値がないのだと訴えられたら、何と答えるでしょうか。

ほんとですね、あなたには価値がないですね、と答えますか。
そうではないですよね。

その人に、どんな価値があるのかを、懸命に見つけて、教えてあげようとするでしょう。

それなのに、自分の心が同じ訴えをした時には、そんなことないよとは、言いませんよね。

でも、同じ事なのです。

そんな事ないよ、あなたには十分価値があるんだよ、と自信を失くした自分を、励ませばいいのです。

他の人にしてあげるように、どれほど自分に価値があるのか、自分に寄り添う気持ちで、考えてみましょう。

そうすれば、それまでの自分が気がつかなかった、本当の自分の価値というものが、見えて来るはずです。

それは、活動を再開できるようになってからも、自分にとっての宝物になるでしょう。

宇宙の果て その2

前回の記事で、ワープでもしなければ、宇宙の果ては確かめようがないと、書きました。

その時に使った図が、下の図です。

 ※地球から見たGN-z11の動き。

この図は、地球からGN-z11を眺めた様子です。
しかし、同じことがGN-z11からも、言えるわけです。

地球からGN-z11が見えたのですから、GN-z11でも地球が属する、銀河系の光が見えたはずです。

つまり、GN-z11からは、誕生直後の銀河系が見えたのです。

しかし、GN-z11でその光を確認できた今、銀河系本体は、もっと先へ移動しています。

その位置は、GN-z11から 320億光年離れています。
ですから、今の銀河系をGN-z11から、確かめることはできません。

その様子を描いたのが、下の図です。
GN-z11と銀河系(地球)の立場を、入れ替えました。

ここでは地球ではなく、銀河系という言葉を使っています。
その理由は、地球は自らは光っていないし、確認するには小さ過ぎるからです。

 ※GN-z11から見た銀河系の動き。
  GN-z11から見える銀河系の姿は、130億年前のものかも知れません。

この図で見ると、現在の銀河系の位置は、赤い直線と黄色い円の交点です。

青い円が宇宙の端ですから、宇宙の果てはすぐ近くという事になります。

グラフの小さな目盛りが、20億光年ですから、宇宙の果てまで、せいぜい100億光年ですね。

ところで、この図で見ると、現在の地球の位置は、宇宙の中心から、およそ 350億光年ほど離れた所にあるようです。

この位置からでは、GN-z11の放つ光を、どんなに過去にさかのぼっても、見ることはできません。

しかし、現実には確認されているのです。

これは、どういう事なのでしょうか。

そもそも初めの図では、地球の位置は宇宙の中心から、160億光年ほどの位置にありました。

でも、二つ目の図では、中心から350億光年ほどの所にあります。

これは大きな矛盾です。

これは宇宙空間が、光速を遥かに超えた速さで広がったという、ややこしい設定があるからではないかと思います。

つまり、ビッグバンによって宇宙が生じたという、前提自体が間違っているのではないか、という事です。

私は天文学者でも数学者でもありませんから、難しい計算や理屈はわかりません。

しかし、宇宙の創成について、ビッグバン以外の発想が必要ではないか、と思うのです。

ビッグバンという発想が生まれた理由として、宇宙の星々が互いに離れて行くように見えるという、観察結果があります。

互いに離れて行くということは、時間を逆に動かすと、全ては一点に凝縮されるだろうというのが、ビッグバン理論の始まりです。

宇宙はどんどん膨張した後、いつかは膨張をやめて収縮し始め、かなり縮んだ所で、再び膨張するという事を、延々と繰り返すという考え方もあります。

しかし、全体を風船のように見るのではなく、宇宙の様々な所で、宇宙を構成する物質エネルギーが、火山の噴火のように、噴き出していると見ることも、できると思います。

 ※Pete LinforthさんによるPixabayからの画像です。

実際、現在観察されている宇宙は、銀河集団が集まった超銀河団が、全体で網目のような構造、もしくは泡が集まったような構造を、形成しているそうです。

つまり、宇宙に存在する星々は、均一に散らばっているのではないのです。

超銀河団は、いくつもある泡の縁を形成するように、泡の周辺部に長細い形で、集まっています。

一方で、泡の中の部分には、光を発する天体が、ほとんどありません。

しかし、何故こういう構造になっているのかは、まだ結論が出ていないようです。


宇宙には質量を持ちながら、物質としての形を持たない、ダークマターというものが、満ちていると言われています。

この宇宙の泡構造の泡の中は、このダークマターが噴き出しているのではないかと、私は考えています。

それぞれの噴出口から、噴き出したダークマターは、他の噴出口から出たダークマターと、ぶつかり合います。

ぶつかり合ったダークマターは、新しい星を創るエネルギーと、なるのでしょう。
それで、泡の縁に銀河が集まっているのだと思います。

また、あちこちで噴き出されたダークマターが、その領域を広げて行くと、その周辺にある銀河は、互いに離れる方向に動きます。

すぐ近くにある銀河同士は、引力で引き寄せ合うでしょうが、離れた所にある銀河と銀河は、互いに遠ざかるように動くでしょう。

あちこちでダークマターが、噴き出していると考えれば、ビッグバン理論のように、宇宙の始まりを規定する必要がありません。

始まりがなければ、終わりもないわけで、宇宙の果てを考える必要もないのです。

では、果てがなければ、この宇宙は無限なのでしょうか。

 ※Youssef JheirさんによるPixabayからの画像です。

この世界が平面だと信じられていた頃、海をどんどん進んで行くと、出発点に戻って来るとは、誰も考えていませんでした。

それと同じように、宇宙の果てを目指して、どんどん進んで行くと、その先に地球が待っているのかも知れません。

私たちは宇宙を、三次元空間ととらえています。

しかし、実際の宇宙の構造が、別の形態であったなら、そういう事も有り得るでしょう。

また、パワレルワールドとして、別次元の宇宙がいくつもあると考えれば、この宇宙は有限と言えます。

それでも、次々に湧き出るダークマターが、創り出す世界に制限はありません。

そういう意味では、この宇宙は無限の姿を秘めていると、言えるでしょう。

 ※BessiさんによるPixabayからの画像です。

ところで、人が見る夢にも、空間があります。

もし、空間の果てを目指して、どんどん移動したとしても、果てなど見つからないでしょう。

それは夢が、その人の心を表現したものだからです。

心が果てを規定しない限り、どこまで行っても、果ては見つかりません。

それは夢でなく、目覚めている時の、イメージでも言える事です。

果てを想定しない限り、イメージの世界に果てはありません。

つまり、心の中に広がる世界は、無限なのです。

 ※bBearさんによる写真ACからの写真です。

また、少し話がそれますが、心霊写真などで、オーブと呼ばれる、小さな光点が写っている事がありますね。

あの小さな光点の一つが、一つの意識だとすると、あの光点の中には、無限の世界が広がっているという事になります。

話を戻しますと、この世界の実体は、宇宙という大きな意識が見ている、夢なのかも知れません。

私たちは宇宙の夢の一つを、のぞいているのでしょう。

そして、オーブが一つの意識であるように、宇宙も実は、一つの点のような存在だと考えることもできます。

きっと私たちが知る世界は、一点がビッグバンを起こして、できたのではないと思います。

一つの意識の点の中に、すでに広がっている、宇宙の心の世界に違いありません。

宇宙の果て その1

 ※skeezeさんによるPixabayからの画像です。

宇宙は138億年前に、ビッグバンによって生まれたと、考えられています。

最近の計算では、宇宙の年齢はもう少し若く、114億年という話もあるようですが、ここでは138億年としておきます。

実際に宇宙が、一点から爆発的に拡大してできたのか、あるいは膨張と収縮を繰り返しているのかは、わかりません。

宇宙の起源の話はさておき、宇宙の果ては、どうなっているのでしょうか。

138億年前に宇宙が誕生した時の光が、到達できる距離は、文字通り、138億光年です。
一方、138億年の間にも、宇宙は拡大し続けています。

その結果、宇宙誕生から138億年が経った今現在、宇宙の端は中心から464億光年の所にあるそうです。

光や時空間が、均一に広がる事を前提にしますと、その関係は下の図のようなものです。

 ※青い円が、現在の宇宙の広さを示している。
  赤い円は、宇宙誕生の光が届く距離。

ビッグバンが起こった瞬間は、星は存在しません。
形を持たない高エネルギーが広がり、その途中で元素が作られ、星々が生まれたとされています。

星という形を持つと、光と同じような速度では、移動できません。

初めは全てが一緒に広がったとしても、形を持つようになったエネルギーの速度は、やがて落ちて行きます。

光から取り残される格好になりますから、全ての星は宇宙の中心から広がった、半径 138億光年の球体の中に、収まっているはずです。

しかし、宇宙空間は138億年の間も広がり続け、半径 464億光年の球体になっているのです。

単純に考えれば、上の図の赤い円と青い円の間には、星もなければ光もない、ただの暗黒の空間が、広がっているだけになります。


ところで、おおぐま座(北斗七星)の方向にある、GN-z11という銀河は、地球からの距離が約320億光年だそうです。

これでは半径 138億光年の球体の中に、収まりません。
地球かGN-z11のどちらかが、球体の外に出てしまいます。

でも、そこには星も光もないはずなのです。
これは矛盾しますね。

と言うことは、広がる時空間に乗って、星も光も本来の速度以上の、すさまじい速度で移動しているのでしょう。

138億年前に、宇宙の中心から発せられた光は、広がる時空間に乗って、実際には 464億光年先に到達していると、考えられます。

そうすると単純計算では、光の速度は本来の 3.5倍ほどになっているようです。

しかし、拡張する同じ空間にいる者から見れば、光の速度は通常どおりなのでしょう。
何故なら、その人たちも同じ速度で、移動しているからです。

実際、人類の観測で、通常の3.5倍の速度の光を、見つけたという報告はありません。

話をGN-z11に戻しますが、地球で観測したこの銀河の光は、134億年前のものだそうです。

つまり、この星は宇宙誕生の 4億年後には、存在していたということです。

先の図で見ますと、その時のGN-z11の位置は、宇宙の中心のすぐ近くにあったことになります。

それが現在は、地球もGN-z11も互いに離れてしまい、今の実際の距離は、約320億光年と言われています。

ちなみに、太陽系が属している銀河系には、HE 1523-0901という、推定年齢 132億年の星があります。

その位置は、てんびん座の方向に 7500光年離れた所で、地球から比較的近い所と言えます。

この星の存在を考えると、銀河系の年齢も同じぐらいと、見ることができるでしょう。

つまり、宇宙誕生から 6億年後には、銀河系の卵が生まれていたということです。

この事からGN-z11も銀河系も、ほぼ同じ頃に誕生したと考えられます。

 ※赤い点は、現在の地球(銀河系)の位置。座標軸の交点は、宇宙の中心。
  地球とGN-z11が宇宙の中心から、同速度で真逆に移動したら、両者は水色の円周上で向かい合う。
  GN-z11の移動方向や移動速度が別の場合、現在GN-z11は黄色の円周上にある。

宇宙誕生後、互いに真逆の方向に、同速度で移動したとすれば、地球とGN-z11はどちらも、上の図の水色の円周上にあるはずです。

この円の直径は 320億光年なので、お互いに中心を挟んで、向かい合った位置にあります。

しかし、GN-z11が地球と同じ速度で移動しなかったり、別の方向へ移動したとすると、どうなるでしょうか。

それが黄色の円です。

黄色の円は、現在の地球の位置を中心にした、半径320億光年の円です。

現在のGN-z11は、この黄色の円周上のどこかにあるはずです。

ただし、宇宙の端である青い線を、超えていない所です。

 ※赤い直線がGN-z11の動きを示す。
  今の地球が見ているGN-z11は、緑の円との交点にあった時のもの。
  現在のGN-z11は、黄色の円との交点にある。

上の図の緑の円は、現在の地球から、134億光年の距離を示しています。

GN-z11は宇宙の中心を離れて、過去にこの緑の円と接したはずです。

その時の光が現在の地球に、134億年前の光として、届いたのです。

宇宙の中心から、緑の円に接する直線が、GN-z11の軌跡を示しています。

中心からの円の接線は、二つ描けますので、直線は2本あります。

宇宙には前後左右がありませんから、どちらを選んでも構いません。

実際には、緑色の円は球体であり、2本の赤い直線は、緑の球体に接する円錐の一部です。

平面図に投影しているので、円錐が2本の線となって、描かれているだけです。

そして、GN-z11はこの赤い直線(本当は赤い円錐)の上を、移動するのです。

緑の円に接した時の光が、地球に届くまでの間も、GN-z11はさらに移動します。

そして今現在は、地球との距離が 320億光年ですから、赤の直線と黄色の円の交点に、GN-z11はあるというわけです。

この図からわかるのは、GN-z11が宇宙の中心から、緑の円に到達するまで、138 - 134= 4 で、4億年かかっていること。

そして、緑の円から黄色の円まで移動するのに、134億年かかっていることです。

その距離は、中心から緑の円までの距離の、3倍近くです。

しかし、その距離を移動するのに要した時間は、134億 ÷ 4 = 約34億倍です。

それは空間の広がる速度が、それだけ落ちたということですね。

逆に考えると、ビッグバン直後は、まさにすさまじい速度での、広がりだったと言えます。

それはさておき、こうして見ると、かなり宇宙の果てに近い所に、GN-z11はあるようです。

しかし、現在のGN-z11が発している光は、しばらくの間、地球には届きません。

何故なら、宇宙が誕生してから、138億年しか経っていないからです。

そのため、138億光年を超える距離にある所の光は、まだ旅の途中で、地球には到達していません。

今の地球の科学では、138億光年の距離を超えた所の事は、確かめようがありません。

ですから、実際に 中心から464億光年離れた所に、宇宙の果てがあるのかは、ワープでもできない限り、直接確かめることは、できないようです。

 ※GentyさんによるPixabayからの画像です。

記録的ヒットのアニメ映画

「鬼滅の刃」というアニメ映画が、空前のヒットだと、NHK ニュースが取り上げていました。

元は少年ジャンプという、週刊漫画雑誌に連載されていた、漫画作品だそうです。

アニメ化されてテレビでも放映していたようです。
今回映画館で上映されたのは、テレビ版の続編だと言います。

私はこの作品を知らないので、何故、これほどの人気が出たのかと、興味が湧きました。

ニュースによると、映画を鑑賞した人たちは、家族愛がよかったとか、敵の鬼も元は人間で、切なさを感じさせられたなどと、語っていました。

また、いろんなキャラクターが登場して、観る人によって、それぞれご贔屓のキャラクターがあるようでした。

そこで、この作品の大まかな話の流れを調べると、時代背景は大正時代で、人を喰らう鬼たちと戦う人たちを、描いた作品でした。

ざっとしか内容を知りませんから、物語そのものについては、私は何も語れません。
それは作品を読んだり、観たりした人でないと、語れるものではありませんから。

私が知りたかったのは、人々がこの作品の、どんな部分に感動したのかという事です。

主人公は、鬼に家族を惨殺され、一人生き残った妹も、鬼に変化させられました。

家族の仇討ちと、妹を人間に戻すため、主人公は鬼と戦う決意をします。

そこには家族のため、妹のために、必死な主人公の姿があります。

ある人が語っていましたが、戦いを主体とした漫画の主人公は、大概がマイペースなタイプだそうです。

しかし、この主人公はとても優しくて、相手が鬼であっても、思いやる心を持っているのだそうです。

また、鬼と戦う人々にも、一人一人の事情や人生があり、悪である鬼でさえ、人間として生きていた頃の、思い出を持っているのです。

単に正義が悪をやっつけるという、勧善懲悪のストーリーではありません。
悪と思える者でさえ、哀れみを感じさせる存在のようです。

そして、敵も味方も、男も女も、次々に死んで行きます。

死というものは、できれば避けたい事です。

漫画やアニメとは言え、自分が好きなキャラクターには、死んで欲しくはないものです。

それをあえて、死なせてしまう事で、嫌でも読者や観客は、死と対峙させれられます。

そして、死と向き合う事で、生きるという事が、強く浮かび上がります。

人は誰でも、いつか死を迎えます。

しかし、死を自分とは関係のないものと考えて、何となく生きているのではないでしょうか。

そんな中、「鬼滅の刃」で生きるという事を、考えさせられた人が、たくさんいたと思います。

これまで、真剣に向き合って来なかった生。

それをどのように生きるのか、という事を、この物語のキャラクターたちは、様々な手本となって、示してくれているのでしょう。

鬼たちでさえ、一つの手本です。

愛を抱いて生きるのか、愛を捨てて生きるのか。

しかし、愛を捨てたはずの者たちにも、実は愛を求める想いがあった。

世の中には、白けている人や、諦めている人、投げやりになっている人、自暴自棄になっている人がいます。

そんな人たちも、自分の本当の気持ちを、突きつけられたと、感じたのではないでしょうか。

本来ならば、男の子に人気が出るジャンルだったようです。

それなのに、女の子にも人気が出て、子供だけでなく、大人までもが夢中になったと言います。

コロナ騒ぎの影響で、敬遠されていた映画館なのに、これほど多くの人が訪れ、何度も繰り返して観ているのです。

この映画には、何か特別なものがあると感じるのは、私だけではないでしょう。

もちろん「鬼滅の刃」が大ヒットしたのは、この作品が奥が深く、質が高いからだとは思います。

でも、ヒットの理由は、それだけではありません。

ヒットした一番の理由は、その作品が描いて訴えていた事が、今の世の中の人たちが、まさに求めていた事だからです。

どんなにいいもの、どんなに優れたものを提供しても、相手がそれを求めていなければ、大ヒットには至りません。

みんな、何かを追い求めていたけれど、それが何であるのか、自分たちでも、よくわかっていなかったのでは、ないでしょうか。

そこに「鬼滅の刃」を示されて、そうだ、これだ、これを探し求めていたんだ、という感じになったのだと思います。

この作品は、これからの生き方を示す、標識や案内板になってくれたに違いありません。

自分が何を求めていたのかを、理解した人たちは、きっと暮らしの中に、それを取り込もうとするでしょう。

躊躇している人も、自分の生き方を見つけた人が、周囲に増えてくれば、新しい生き方に飛び込む勇気が、湧いて来るはずです。

この作品の人気が広がった事は、決して偶然ではないと思います。

「鬼滅の刃」の爆発的な人気は、この世界がこれから、どの方向へ向かうのかを、示してくれています。

そして、それはとても期待のできる、強く優しく思いやりのある、世界に違いありません。