ベーシックインカム その後

コロナ惨禍の中、スペインは貧困者に限っての、ベーシックインカムを導入しました。

それでも、まだコロナ騒ぎは落ち着かず、失業率も高いまま続いていると言います。

しかし、この状況はベーシックインカムを、否定的に見る理由にはなりません。

国や企業が混乱している状況の中で、これまでどおりの仕事を求めることは、むずかしいのです。

重要なことは、そんな状況の中においてでも、貧困者の生活が保障され、将来への希望を夢見るチャンスが、与えられているということです。

仕事というものは、世の中の需要に対して、必要なものを供給できるもの、でなければなりません。

需要に対して、供給が過剰になると、その業界では、潰れる会社が出て来ます。

資金のある所、力の強い所が生き残るわけですが、そういう大きな会社でさえ、市場そのものが縮小すれば、やがては行き詰まってしまいます。

どの時代もそうでしょうが、本当に生き残れる企業というのは、世の中の新たな需要を見出し、それに対する供給を、提供できる所なのです。

コロナウィルスをきっかけにして、世界中の様子が変わりました。

人々の価値観も大きく変化しており、もはやコロナ騒ぎ以前に、戻ることは不可能でしょう。

それはつまり、人々の需要が大きく変わったことを、意味しています。

既存の企業の価値観では、それに応えることはできません。

そういう企業は、人員を整理して人件費を削り、それで何とかしのごうとするでしょう。

そんな企業を頼って、失業率を改善させようという考えは、間違っています。

今、3密を避けたり、移動をしなくて済む、IT関連のシステムが、もてはやされています。

IT関連企業以外の会社は、ダメージからの回復が、困難なように言われています。

それは世の中の変化に、それらの会社が、ついて行けていないということです。

いつの世も、潰れる企業や、だめになる仕事はあるものです。

今回、潰れる企業が多数出て、失業者が増えたとしても、それは仕方がないことでしょう。

しかし、ここは嘆くところではありません。
新たな仕事を創り出す時なのです。

自分たちが困っているのなら、どういうサービスが求められているかが、わかりやすいはずです。

そして、できる範囲で、人々の求めに応じる仕事を、新たに生み出して行くのです。

生活に困窮しているのであれば、仕事は生活費の確保が、目的になるでしょう。

しかし、ベーシックインカムなどで、最低限の生活が保障されるのであれば、純粋に人々の求めに応じた仕事、自分の性に合った仕事を、始めることができます。

スペインでこうした動きが、出て来るまでには、まだもう少し時間が必要です。

必ずいい方向へ動き出しますから、長い目で見守りたいと思います。

一方で、とても期待を寄せたくなる、記事がありました。

ツイッターCEOのジャック・ドーシー氏が、アメリカの15都市の市長が作る団体、メイヤーズ・フォー・ア・ギャランティード・インカムに、300万ドル(約3億2100万円)を提供すると発表したそうです。

この市長たちは、ベーシックインカムを導入して、人々を貧困から救い、コロナウイルスによる経済的打撃や、失業の影響を和らげるという、実証実験を計画しています。

ジャック・ドーシー氏は、この計画に資金を提供したわけです。

これはとても素晴らしいことです。

特にアメリカで、このような動きがあったことや、動きを起こしているのが、多くの市長やツイッターCEOであることが、驚きでもあり、期待感を持たせてくれます。

連邦議員の中にも、ベーシックインカムに、賛同している方がいるそうです。

ツイッターCEOが協力することで、アメリカにいる多くの大富豪が、セレブとしての価値を、その品格に求めるようになるでしょう。

そして、自分たちは世界を変える力を、持っているという事に、気づくのです。

そうなれば、ベーシックインカムへの資金は、急速に膨らんで行きます。

資本主義の象徴であるアメリカで、ベーシックインカムを、推し進める動きが広がれば、その影響は、世界中へと広がるでしょう。

また、アメリカのように裕福ではないスペインでも、ベーシックインカムが成功すれば、国が裕福かどうかにかかわらず、ベーシックインカムは広がって行くと思います。

資金が足らない国には、資金がある国が、見返りを求めずに援助するでしょう。

その時には、国境線は意味を持たなくなり、人々は地球人としての、自覚を持つことになるのです。

地球に暮らす人類の意識は、確実に変わりつつあります。

初めは時間がかかるように、見えるでしょう。

しかし、ある程度の広がりを見せた後、新しい価値観は一気に、世界中の古い価値観と、入れ替わると思います。

未来を作るのはあなた

 ※ルックデザインさんによる写真ACからの画像です。

今日、九州北部と中国地方、そして四国が梅雨明けしました。

いつもと比べると、かなり長い梅雨でしたが、ようやく夏の始まりです。

とは言っても、すぐにお盆になります。

お盆が過ぎると、もう夏も終わり。
梅雨が長かった分、今年の夏は短いですね。

その上、コロナが再び広がりを、見せていますから、外に遊びに出ることも、はばかられます。

それに子供たちは、コロナ騒ぎで授業が受けられなかった分、夏休みが短縮されるそうです。

これでは、ますます夏を感じる期間が、短くなるでしょう。

それにしても、去年の今頃、一年後に日本や世界が、このような状態になると、誰が予想できたでしょうか。

本来であれば今頃、世界は東京オリンピックに沸き、日本は大勢の外国人客で、賑わっていたはずです。

それが、オリンピックは一年延期。

外国の訪日客のほとんどは、入国が制限されて、日本から外国人観光客の姿が消えました。

コロナウィルスの勢いは止まらず、収束しそうに見えた国でも、再びコロナが広がり始めています。

以前のように、外国人観光客や外国人労働者が、訪日できるようになる日は、まだまだ先のようですし、恐らくオリンピックも中止になるでしょう。

しかし、一年後の今頃、訪日客が戻らずオリンピックが中止、というだけで済むとは思えません。

去年、コロナ騒ぎが予想できなかったのと同じく、来年の世界は、誰も予想できないような状況に、陥っていると思います。

 ※=sasa=さんによる写真ACからの画像です。

昨日、台湾の李登輝元総統が亡くなりました。
97歳だったそうです。

親日家の元総統は、台湾を民主化させた方です。

この人がいなければ、今の台湾はなかったと言っても、過言ではないでしょう。

その死は多くの人に、悲しみを与えたことと思います。

でもこの事は、一つの時代の終わりを象徴すると同時に、今後は自分たちの力で、未来を勝ち取るようにという、元総統のメッセージのようにも思われます。

そして、このメッセージは台湾の人々だけでなく、私たち日本人、そして世界の人々に向けても、発せられたように感じられます。

誰かの指示を待ったり、誰かの力を当てにするのではなく、自分たちで考え、自分たちで未来を作る。

それが、これからの世界に、求められている事なのでしょう。

そのためには、何がいい事で、何が悪い事なのか、見極める目を育てる必要があります。

コロナウィルスによる混乱が続けば、世界規模で経済活動は、停滞してしまいます。

いろいろ自粛や制限が、求められるでしょう。

しかし、際限なく耐え忍ぶという事は、できるわけがありません。

コロナだけでも、苦しい状況が続きます。

そこへ自然災害や人種差別、貧富の差などによる騒動、米中関係を中心とした、国家間の争いなど、今も目にする多くの問題が、幾重にも重なるわけです。

抑圧された人々の怒りが、いつ大爆発しても、不思議ではありません。

国民の怒りが爆発することで、どこかの国で政権が崩壊するような事態が、起こることも考えられます。

それも、もしかしたら複数の国で、起こるかも知れません。

どの国の政権も、国民の怒りをそらせようと、問題を他国のせいにしたり、戦争寸前の衝突をしようとする事も考えられます。

その時に、国民が政権の言い分に乗せられてしまうと、世界は危機的状況を迎えるでしょう。

しかし、国民が問題の本質を見逃さず、そのような政権を、打倒する方向へ動けば、世界は見せかけの平和とは全く異なる、真の平和を求めるようになると思います。

具体的な事は、何もわかりません。

でも、どんな事が起こったとしても、国民の意識がしっかりしていれば、決して悪い方向には、行かないでしょう。

国や世界が、どの方向へ向かうのかは、私たち一人一人の意識にかかっているのです。

何かが起きてから、どうしようかと慌てて考えるのでは、間に合いません。

今のうちから、世の中をいい方向へ変えるために、どうするのかという事を、政治家や学者たちに任せずに、自分で考えておく事が肝要だと思います。

驚きの黒い雨訴訟

 ※はなちょこさんによる写真ACからの画像です。

広島に原子爆弾が投下された後、放射性物質を含んだ黒い雨が、広島県内に降りました。

その雨を浴びたり、雨に汚染された水や、野菜を口にしたことで、被爆した人たちが、被爆者手帳の交付を、求めて起こした訴訟が、黒い雨訴訟と呼ばれるものです。

その訴訟の広島地裁判決が、今日下されました。

訴えていたのは、70~90代の男女84人(うち9人は死亡)だそうです。

国は黒い雨が降った範囲の内、大雨が降った地域を選定しました。

そして、その地域内で、黒い雨を浴びた住民については、無料で健康診断を行いました。

その中で、癌や白内障などの、国が指定した疾病と診断された者には、被爆者健康手帳を交付しました。

被爆者健康手帳を交付されると、医療費が原則無料となります。

しかし、大雨地域と認定された所以外で、黒い雨に濡れた者は、別扱いされたそうです。

被爆によるものと思われる症状が出たり、病気になっても、被爆者として認定されず、被爆者健康手帳を、交付されなかったと言います。

この方たちが具合が悪くなっても、医療費は無料になりません。

境界線のこちらと、向こうにいるというだけで、一方は医療費が無料とされ、もう一方は自己負担を求められるのです。

この理不尽に、耐えきれなくなった方たちが、2015~18年に提訴して、この訴訟を起こしました。

原爆が投下された1945年から、実に70年が経ってからのことです。

それまでこの方たちは、ずっと我慢を強いられて来たのです。

そして、初めの提訴から5年目の今日、ようやく地裁の判決が出ました。

結果は、訴えが全面的に認められた、原告の勝利です。

よかったよかったと思って、話を聴いていた私は、被告が誰なのかを知って驚きました。

当然、被告は国だと思っていたのです。
しかし、被告になっていたのは、広島県と広島市でした。

そこで、この訴訟について書かれた記事を、詳しく調べてみました。

すると、被爆者健康手帳の交付対象となる、地域を決めたのは国でした。

広島県と広島市は、国からの法定受託事務として、実務を担わされていたようです。

つまり、国が決めた規定に基づいて、手帳の交付という事務作業を、広島県と広島市が、執り行っていたわけです。

そして広島県と広島市は、国の規定に基づき、大雨地域にいなかった者の、手帳交付の申請を却下していたわけです。

一方で、広島市は大雨地域が決められてから、このエリアを拡大するよう、国に働きかけて来たと言います。

それは大雨地域以外にも、被爆者がいると認識していたからです。

それなのに、その人たちが手帳の交付を申請すると、それを拒んだわけですね。

そこのところが、私はどうも合点が行きません。

市の言い分としては、自分たちは市民の立場に、寄り添って来たつもりだけれど、市の立場上、国が決めた基準に基づいて、動くしかないという事なのでしょう。

県が手帳の交付を、受け付けなかったのも、同じ理由なのだと思います。

ただ県は市のように、手帳交付の対象地域の拡大を、国に求めてはいなかったようなので、市ほどは被爆住民の立場に、寄り添ってはいなかった、と言えるでしょう。

それにしても、矛盾を感じてしまうのは、私だけではないと思います。

 ※写真提供:広島県

県も市も対外的に、原爆で被爆した事をアピールして、その悲惨さを二度と繰り返さないようにと、訴え続けていたはずです。

それなのに、自分たちは被爆に苦しむ、住民の訴えに対して、耳を塞いでいるわけです。

こういう姿を見せられると、毎年8月に行われる、あのイベントは何なのだろう、と考えてしまいます。

本気で原爆の悲惨さを、訴えていたわけではなく、そうする事で単に広島の名前を、世界に知ってもらおうと、していただけなのかと疑いたくなります。

でも、もちろん戦争の愚かさ、原爆の悲惨さを、本気で世に訴えている人々は、いるわけです。

実際に、つらく苦しい体験をしながら、生き延びて来た方たちや、その方たちの実情を知って、自分たちも力になりたいと、心から願った人たちがいるのです。

その人たちの想いを考えると、広島県と広島市が、被爆者たちに取って来た態度というのは、裏切り以外の何物でもないでしょう。

手帳交付地域の拡大を、国に訴えなかった広島県は、話になりません。

しかし、訴えを続けて来た広島市も、被爆者への具体的な救いの手を、差し伸べなかった点では同罪です。

だからこそ県のみならず、市までもが被告にされてしまったのだと思います。

 ※Sasin TipchaiさんによるPixabayからの画像 です。

自分に子供が二人いたとしましょう。
そのどちらもが、国の政策が原因で、不治の病になったと考えて下さい。

国は一人の子供については、保証をすると言います。

でも、もう一人の子供については、国に責任があるとは言えないとして、何の保証もしません。

あなたは、どうしますか。

一応、国に文句は言ったけれど、国が一つも動いてくれない。
だから、お前は諦めてくれと、保証をされない子供に言いますか。

私ならば、国を動かす努力は続けながら、保証をされない子供の力になります。

保証をされないがために、生活に困るのであれば、躊躇なく生活支援をします。

親であれば、家族であれば、当然だと思います。

県や市が、住民を家族のように考えているのならば、住民に代わって、国に対する訴訟を起こすべきでしょう。

また、国が被害者健康手帳の交付を認めないため、交付ができないと言うのであれば、その分の保障を、県や市が独自に行うべきだと思います。

大切なのは、苦しむ人たちの立場に、立つということです。

被爆で身体を壊すのもつらいことですが、自分たちがのけ者にされていると思わされるのも、とても悲しくつらいことです。

きっと、被爆で苦しむ以上に、つらい思いをされたのだと思います。

戦争が終わって何十年も経つ内に、被爆地域の行政に関わる人々さえもが、被爆を他人事のように、受け止めるようになったということでしょうか。

 ※Inushitaさんによる写真ACからの画像です。

それにしても、いつものことながら、腹が立つのが、国の姿勢です。

国民を何だと思っているのでしょうか。

税金さえむしり取ってしまえば、死のうが苦しもうが、関係ないという事なのでしょうか。

恐らく、そうなのだろうという事は、今のコロナ騒ぎにおける、政府の動きを見ていると、よくわかります。

国民の立場に立った政策など、何一つありません。

一応体裁だけ整えたような、政策ばかりです。

強調するのは、どれだけ多くのお金を、使ったかという事だけです。

どれだけ国民の気持ちに添った、政策をしたかという事は、一つも言えません。

しかも、じゃぶじゃぶ無駄に使うお金は、全て国民の血税です。

今は各都道府県の知事の、聡明さが求められています。

国には何も期待できないと、ほとんどの国民が、考えているでしょう。

実際、優秀な知事は、県内外から称賛されています。

広島の知事や市長も、反核を訴えるパフォーマンスもいいですが、もっと違う所で人々から称賛されるような、リーダーシップを取って欲しいと思います。

私という存在 その3

 ※Stefan KellerさんによるPixabayからの画像 です。

私たちは物質世界に暮らし、この世界が唯一の現実世界だと、そう信じて生きています。

もし、この世界とは別の世界があるとすると、こちらの世界を基準にして、もう一方の世界を理解しようとします。

人は何かを理解しようとする時、自分を基準にして考えます。

私は今、四国の松山で暮らしていますから、北海道と言われると、松山から飛行機で、どのくらいだろうかとか、松山と比べて、どれほど寒いのだろうか、などと考えます。

それと同じで、別の世界を想定した時、私たちは自分が存在している、こちらの世界を基準にして考えます。

でも、それは当然のことと、言えるでしょう。

しかし、よく考えてみると、自分という存在は、肉体ではなく心なのです。

その心は精神エネルギーであって、物質エネルギーではありません。

物質エネルギーによって創られた、この世界に属しているのではないのです。

私という存在は、精神エネルギーであり、物質エネルギーで創られた、この世界とは別の世界に、属しているわけです。

普段、私たちはこちらの世界の、情報の中で暮らしています。

ですから、自分が物質世界に属していると、考えてしまうのですが、そうではないのです。

私たちが本当に属しているのは、精神エネルギーの世界なのです。

何かを理解する時に、自分を基準にするのは、既に述べたとおりです。

世界について考える時、私たちの立ち位置が基準になります。

そして、私たちが存在しているのは、こちらの世界ではなく、もう一方の世界なわけです。

それは、いわゆる、あの世と呼ばれる世界のことです。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像 です。

私たち生きている人間の心は、肉体という物質世界との、接点を持っています。

死んだ人というのは、その接点を失った者たちのことです。

生きていようと死んでいようと、私たちは心の存在として、同じ世界に属しています。

だから、死んだ人の声が聞こえたとしても、少しも不思議ではありません。

ただ、肉体的に覚醒している間は、意識はこの世界の情報に、集中しています。

ですから、横から死んだ人が話しかけたところで、普通は何も聞こえないでしょう。


生きている私たちも、実はあの世という世界に、属していると想定してみて下さい。

そう考えると、世界について考える時の立ち位置を、この世からあの世へと、移す必要があります。

私たちはあの世にいて、まず、この世との接点を見つけるのです。
それが、この世界における誕生です。

自分の身体を得た私たちは、その身体を通して、この世を知り、体験します。
それでも私たち自身は、あの世に留まったままです。

言ってみれば、ゲーム機でバーチャル世界を、体験しているようなものです。

 ※Jazna RossiさんによるPixabayからの画像 です。

バーチャル世界のゲームをしている時、その世界の一つのキャラクターが、私であり、あなたなのです。

その場合、そのキャラクターの中に、あなたが宿っているとか、存在しているとは、考えませんよね。

あなたはゲームをしながら、自分がこちらの世界にいることを、認識しています。

それと同じで、私たちの心は脳に宿っているのではなく、脳を通して物質世界を体験しているだけです。

私たちが存在しているのは、精神エネルギーの世界なのです。

映画の「マトリックス」の世界だと思えば、わかりやすいでしょう。

「マトリックス」では、現実だと思っていた世界の正体が、夢のようなイメージということになっています。

本当の自分は、物質世界に存在していて、眠った状態にあるのです。

これは物質世界こそが現実世界であるという、固定観念からの発想でしょう。

あなたが本当に存在しているのは、その逆なのです。
あなたが存在しているのは、物質世界ではなく精神エネルギーの世界です。

では、その精神エネルギーの世界とは、どんな所なのでしょうか。

物質世界では、自分の身体というものがあるので、自分と自分でないものを、区別できます。

しかし、身体がなければ、その区別が出来ません。
つまり、精神エネルギーの世界では、自分という存在が、曖昧になるのだと思います。

複数の人格があっても、実は全員が同じ存在、つまり自分なのかも知れません。

もう、考えるのも嫌になりそうですね。

 ※Gerhard G.さんによるPixabayからの画像です。

この続きは、また別の機会に。

私という存在 その2

自分という存在は、自分と他の存在を区別することで、成立しています。
その区別をするための基準になるのが、自分の身体です。

この身体は自分で、身体以外は自分じゃない。

これが当たり前の感覚ですね。
でも、身体が自分だと考えるのは間違いです。

 ※Gitti LohrさんによるPixabayからの画像 です。

私たちは身体のことを、自分の身体と表現します。

でも、これは身体イコール自分、という意味ではありません。
この身体は、自分に属しているという意味です。

普段、私たちは自分の身体を、自分自身のように考えています。

では意識は、どこにあるのかと問われると、頭だと答えるでしょう。

そう、頭には意識と深く関わっている、脳があります。

意識が頭にあるというのは、意識が脳にあるという意味です。

多くの学者も、脳に意識があると考えています。
でも、それは正しくありません。

確かに脳は、意識の活動と関係しています。
だからと言って、脳と意識を同じものと、考えるのは間違っています。

脳は物質でできています。
しかし、意識は精神エネルギーであって、物質エネルギーではありません。

この二つのエネルギーは、互いに影響を及ぼしあっているようですが、同じものではありません。

つまり、自分という存在は、脳と関連はあるけれど、脳が自分というわけではないのです。

では、自分という存在は、どこにいるのでしょうか。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

今の科学では、精神場と呼ぶべき、宇宙の精神エネルギーは、想定されていません。

心そのものを、未だに物質的に説明しようとする、研究者が多いためだと思います。

一般的には、人には魂があって、肉体が死を迎えた後、魂はあの世へ行くと考えます。

イメージしやすく、わかりやすいこの考えは、普通の人々に受け入れやすいものです。

それに、心としての自分の存在が、消えるわけではないと、保証されているのも、受け入れられる理由の一つだと思います。

そこで、あの世という世界に相当するのが、宇宙に満ちた精神エネルギー、あるいは精神場だと考えて下さい。

肉体が滅んでも、精神場に属する心は、消滅することなく存在し続けるのです。

自分の心を、魂としてとらえる見方では、肉体が生きている間、魂はその肉体の中に、宿っていると考えられます。

肉体の中に宿ると言っても、正確に言えば、脳の中に宿っている、という感じでしょうか。

この場合、魂は脳とは別の存在です。

魂という表現には、宗教的なイメージが入り込んでいます。

ですから、私はできるだけ魂という言葉は、使いたくありません。

それでも、心がどこにあるのかと考えた時、この魂というとらえ方が、うまく表現されたもののように思えます。

ただ、私が考える心は、脳に宿る魂とは、少しニュアンスが異なります。

と言うのは、脳に魂が宿るという考え方は、その視点が物質エネルギーの側にあるからです。

精神場の側にいる魂から見れば、物質世界の脳にアクセスする、という表現になると思います。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

昆虫の一生

 ※dokintaさんによる写真ACからの画像です。

今朝は、たくさんのクマゼミが、シャワシャワと元気に鳴いていました。

すぐ近くの木から、賑やかな鳴き声が聞こえるので、どこにいるのだろうと探しました。
しかし、なかなか見つかりません。

それでも、どこかにいるはずだと、木の幹や枝をじっくり見ていくと、いましたいました。
お尻を振りながら、鳴いています。

何だか、宝箱でも見つけたみたいな、満足感に浸りながら、しばらくクマゼミを眺めていました。

子供の頃に、よく見かけたセミは、アブラゼミやミンミンゼミです。

クマゼミは図鑑などで見るだけで、本物は見たことが、ありませんでした。

でも大人になり、愛媛で暮らすようになってから、クマゼミをよく見かけるようになりました。

そして、どうしてここでは、よくクマゼミを見かけるのだろう、と考えました。

それで気がついたのですが、クマゼミが鳴くのは、どうも午前中だけのようなのです。

シャワシャワという、バルタン星人のようなセミの声は、お昼を過ぎると、ジーっというアブラゼミの鳴き声に、変わっていたのです。

子供の頃に、虫取りに出かけたのは、いつもお昼だったように思います。

それでアブラゼミしか、目にしなかったのかと、50年も経った今頃になって、ようやく納得できました。

ところで、セミは何年も地中で暮らし、それから地上に出て来ると、1ヶ月ほどで死んでしまうと言います。

ちなみに、クマゼミが地中で暮らす期間は、5~6年だそうです。

アメリカには、ジュウシチネンゼミというセミがいると聞きました。
このセミは名前どおり、17年ごとに一斉に、土から出て来るそうです。

17年というのは、セミの幼虫が土の中で、暮らす期間という意味だけでありません。
セミの成虫が、17年ごとにしか現れない、ということでもあるのです。

17年に一度しか、見ることができない、とても珍しく興味深いセミなのです。

このセミも地上に現れたら、数週間しか生きられません。

そのわずかな間にする事とは、交尾をして子孫を増やすことです。

セミの一生はほとんどが土の中で、生存期間の大半を過ごします。
地上にいるのは、ほんのわずかな間だけです。

 ※白紙のノートさんによる写真ACからの画像です。

人間はセミを見て、地中にいる間を幼虫、地上に出て来て、飛べる形になったら成虫と、呼び分けています。

人間で言えば、幼虫は未熟な子供で、成虫は成熟した大人ということになります。

でも、これは人間の勝手な解釈で、実は幼虫と呼ばれる形態こそが、セミの本来の姿なのではないかと思うのです。

蝶や蛾なども、芋虫と呼ばれる幼虫時代を過ごした後、サナギになって、それから羽の生えた成虫となります。

羽が生えた姿になるのは、子孫を残すために、交尾相手と巡り会わねばならないからでしょう。

また、幼虫が食い散らかした所とは、別の場所に移動して、卵を産む必要があるのだと思うのです。

成虫は大人と言うより、子孫を作るための特殊形態と、考えた方がいいかも知れません。

セミや蝶たちが、人生ならぬ虫生を謳歌しているのは、幼虫と呼ばれている時期なのではないかと、思えて仕方がありません。

人間とは全然違う生き物ですが、セミたちは生きるという事を、黙々と実行している存在だとわかります。

自分は何のために生きているのか、なんてことは、考えていないでしょうね。

人は人生の目的というものを、考えたくなります。

それを考える事は、悪い事ではありません。
目的が見えれば、それは素晴らしい事だと思います。

でも一方で、人生の目的を考えてもわからないと、悩んだり投げやりになったりする人も、いるかも知れません。

そんな時は、セミたちの幼虫のように、とりあえずは黙々と命を謳歌してみるのも、いいのではないでしょうか。

考え過ぎて生きる事自体を、疎かにしてしまうより、まずは懸命に生きる事が、大切だと思います。

懸命に生きていると、きっと、人として生きるという事が、見えて来ます。

それが見えれば、自分らしい生き方や人生の目的が、わかるでしょう。

自然の猛威

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

世界的に、新型コロナウィルスの勢いは、まだ衰えていません。

地域的には、衰えたように見える所もあます。
しかし、人々の日常生活を元に戻せば、すぐにまた感染は増えるでしょう。

日本でも東京を中心に、各都市で感染者数が激増しています。
そして、そこから周辺地域へ、着実に感染は広がっています。

それでも国は安易に、緊急事態宣言は出せないでしょう。

出したところで、ウィルスを撲滅できるわけではありません。

それに、国民やお店の経営者へ、経済支援をする余裕もないようです。

できればお金を出したくないでしょうから、宣言はしたくないのです。

しかし国や県の指示を、待っている暇はありません。

結局は一人一人が、自分で考えて行動するよりないのです。

 ※Peggy und Marco Lachmann-AnkeさんによるPixabayからの画像です。

我が身は自分で守りながら、困っている者がいれば、手を差し伸べる。
自分の行動によって、他の人に迷惑がかからないかを、常に考える。

コロナウィルスに限ったことではありませんが、これが基本だと思います。

コロナ騒ぎが終息したとしても、すぐにまた、次の新たなウィルスが登場するでしょう。

人間への感染能力を持った、コロナウィルスが現れたのは、偶然ではありません。

動物から人へ感染する機会が増えたから、今の状況になったのです。

現に中国では、人に感染する能力を持った、新型インフルエンザウィルスが、豚から発見されています。

中国当局は問題視していないようですが、新型コロナウィルスの時も、医療現場からの警告は無視されていたのです。

他にも、人に感染して死に至らしめる、新たなウィルスの出現の可能性は、常にあると考えねばなりません。

新型コロナウィルスが、特別であるはずがないのです。

コロナウィルス自体が、今後どのように変異するかは、わかりません。

今より感染率・致死率が高くなることも、考えられます。

また、別の新たなウィルスは、若い人でも重篤になるかも知れません。

そういうことは想定できることです。

現在のコロナウィルスで、軽症者が多いからと高をくくっていると、あとで手ひどい目に遭わされるでしょう。

私たちは新型コロナウィルスの広がりで、右往左往しています。

でも、これは今後必ず起こるであろう、もっと強力なウィルスの拡散に備えた、予行演習だと考えるべきだと思います。

動物から人に感染する、ウィルスの出現について、人間による環境破壊が、原因だという考えがあります。

森林を伐採し、開拓をすることで、自然の動物が暮らす領域は、狭められます。

そこへ、最近の異常気象が追い打ちをかけ、動物たちは餌を求めて、人里へ現れるようになります。

 ※Capri23autoさんによるPixabayからの画像です。

人間と動物が接触する機会が、増えているのは確かです。

それが動物から人への、ウィルス感染が起こる理由だという考えは、間違いではないと思います。

しかし、私はそれだけが理由ではないと、考えています。

人間が動物に及ぼしている悪影響は、異常気象だけではありません。

大気汚染や電磁波、酸性雨による土壌や水の汚染。

こういうものも自然の生き物たちに、影響を与えているのではないかと思うのです。

それは、すぐにバタバタ死ぬような、悪影響ではないでしょう。

でも、動物たちの体力を蝕み、免疫力の低下を招いていることは、十分に考えられます。

それによって、ウィルスに感染する個体が増えます。

そうなると、動物を食する人たちに、そのウィルスが感染する機会も増えるのです。

動物の間でウィルスが広まったとしても、ウィルスの毒性が強くなければ、その動物が死ぬことはありません。

人間で言えば、多くの若い人が、あまり症状を感じない、というのと同じです。

しかし、その動物が人間に捕まり、ウィルスが人間に感染すると、そのウィルスが強い毒性を示すことがあるのです。

動物と人間との接触が、ウィルス感染の原因だとすれば、今後の感染を防ぐ根本的な対策は、両者が接触しないような、環境を作ることでしょう。

短期的対策としては、自然の動物を食べたり、飼育するのを禁止することです。

長期的には、動物たちが人里へ来ないよう、生息するための領域を、確保してやることです。

とにかくお金を稼ぐために、むやみに自然環境を破壊することを、やめなければなりません。

 ※Jody DavisさんによるPixabayからの画像です。

コロナウィルスに限らず、温暖化による気候変動、それに伴う水害や干魃、巨大台風やハリケーン、猛暑や冷害あるいは冷夏や暖冬など、多くの自然災害が猛威を振るっています。

日本も毎年のように、水害に襲われています。

世界中で洪水が起こり、中国の長江流域も、大洪水に見舞われています。

他にも、大量のバッタなどの虫害、海面上昇による高潮、山火事、大地震などがあります。

その結果、食糧難や飢餓、怪我や病気、あるいは死亡と、多くの被害が出ています。

しかし、これらのうち地震以外は全て、人間の勝手な振る舞いが、影響していると考えられるのです。

同じような勝手な振る舞いは、人間社会の中でも見られます。

自分さえよければいいという、自分勝手な考えは、多くの国々に蔓延しています。

コロナ騒ぎは、そう言った人間社会の、醜い部分を露わにしました。

今の世界は、権力を握る人々の大半が、自分勝手な考えを、持っているように見えます。

国民に対しても、都合のよい者を優遇し、そうでない者は死んでも構わない、という姿勢です。

自国民の扱いがそんな感じですから、他国の人間に対しては、もっと冷酷です。

ましてや人間ではない、自然の生き物や環境に対して、気遣いを見せるなど、到底無理でしょう。

 ※Arek SochaさんによるPixabayからの画像です。

何か行動を見せるとしても、それは損得勘定で動くだけです。

他の人々や、自然の生き物を思いやる気持ちで、動くわけではありません。

ですから、これは損をするぞと思うと、手のひらを返したように、行動するのをやめてしまいます。

世界を動かせる地位にいるのに、そのために必要な知性も思いやりも、持ち合わせていないのです。

そして、その結果が、今の世界の状況なのです。

今の地球の環境を見て、自然が人間に牙をむいたと、受け止める人もいるでしょう。

しかし、自然はそんなことはしません。

向けられた力に対して、それに応じた反応を、示しているだけです。

別に自然が人間を嫌ったり、人間を排除しようと、しているわけではありません。

人間の方が自然に対し、勝手に喧嘩を売って、勝手に怪我をしているのです。

ちょうど、大きな壁に思いきり投げつけた球が、跳ね返って自分に当たったような感じです。

 ※Gordon JohnsonさんによるPixabayからの画像です。

人はせっかくの知性を、もっとうまく活用しないといけません。

知性を使って、物事の道理が理解できれば、自分が思いやれる対象が広がります。

みんな仲間であり、みんなの助けがあるから、自分は生きていられるのだと、理解することが必要なのです。

知性の欠片もない指導者たちに、人生の舵取りを、任せるべきではありません。

指導者には知性のある者を、選ぶべきです。

同時に、個人個人も知性に基づいた、暮らし方を模索するのです。

そうすれば、人間社会の問題も、自然の猛威も、全て解決するでしょう。

安楽死

 ※Zahid H JavaliさんによるPixabayからの画像です。

筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性患者が、病苦から死を望み、その希望に添う形で、この女性患者に薬物を投与して殺害した、医師二人が逮捕されました。

この事に対して、安楽死の権利についての意見が、いろいろとネット上に出ています。

日本では薬剤を投与して、積極的に患者を安楽死させることは、法律で禁止されています。

禁止されている明確な理由は、わかりません。

恐らく安楽死を望むことが、通常の自殺願望と同等に、見られているからだと思います。

病気によって、将来への希望を失い、痛みや苦しみの日々を送ること。

それは、救いが来ない拷問を、毎日受けているようなものなのでしょう。

希望もなく、いずれは死ぬのであれば、苦しみながら死を待つよりも、今すぐに苦しみから逃れられる方がいい。

安楽死を望む人は、こう考えるのだと思います。

では、健康な身体を持っている方の、自殺願望については、どうでしょうか。

肉体的には病気がなくても、自殺を望む人は、精神的には追い詰められて、病んだ状態です。

端から元気に見えたとしても、本人にすれば、苦痛の毎日が続いているのです。

その苦しみから、逃れられるのであれば、辛抱のしようもあるでしょう。

でも、どうしようもなければ、死ぬことで苦しみから、逃れたくなるのです。

彼らは、苦しみたくて死ぬわけではありません。

苦しみから逃れたくて、死のうとするのです。

ですから、死ぬ方法を一人で悩みながら、いろいろ考えるのだと思います。

もし、苦しんだり痛みを感じずに、死ねる方法があるのなら、その方法に迷わず飛びつくことでしょう。

安楽死を望むのは、身体的な病気を、抱えている人だけではないのです。

 ※Mandy FontanaさんによるPixabayからの画像 です。

大好きな人が、自殺をしたいと言ったら、みなさんはどうしますか。

必死になって、止めるのではありませんか。

どうして死にたいと思うのか、その理由を聞くでしょう?

そして、その人が死にたいと思わなくて済むように、いろいろ考えたり、協力したりするのではないでしょうか。

ところが、慢性疾患の方が死にたいと言ったら、本人の死ぬ権利の話になってしまいます。

そこに、私は違和感を覚えます。

本当に苦しむだけで、何一つ希望も楽しみも、提供してあげられない。

そんな方が、自らの人生に、終止符を打ちたいと考えた時、その意思を尊重してあげるべきか、関係者の間での、真剣な検討が必要です。

もちろん、現行の法律とは、別の話です。

でも、何か一つでも楽しみを、与えることができるのであれば、そちらを優先するべきだと思います。

ただ、家族や現場の人間だけで、患者さんの楽しみを見つけられるのか、提供できるのかと言うと、限界があります。

本当は何か、アイデアがあるかも知れないのに、そこにいる人たちでは、それがわからないということは、有り得ます。

 ※acworksさんによる写真ACからの写真 です。

たとえば、今の科学技術を使えば、寝たきりのはずの人を、動かすこともできるかも知れません。

あるいは、その人を動かせないとしても、その人の代わりに動いてくれる、ロボットを作ることは、できます。

そのロボットを通して得た情報を使い、その人がバーチャル世界を体験するように、外の世界を堪能できるということも、考えられるでしょう。

そうすれば寝たきりの人が、実際に外の世界を、歩き回っているような、体験ができるのです。

問題があるとすれば、費用でしょう。

これをするとなれば、かなりの金額が、必要となると思います。
余程の大金持ちでない限り、とても患者さんや家族の方に、支払えるとは思えません。

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

では、誰が支払うのか。

それは決まっています。
税金です。

こういう患者さんたちの苦悩を理解し、何とかしてあげたいと思うなら、税金でロボットを作ることに、誰も反対しようとは、思わないでしょう。

反対するのは、他人の苦痛など気に留めない、利己的な人だけです。

ロボット以外にも、意識さえしっかりしているのであれば、その人の目の動きや、脳波をとらえることによって、その人が楽しめる装置を、いくつでも考案できると思います。

そんなことを考えるのが、大好きな人は、世の中にいくらでもいます。

そういう人たちの力を、遠慮なく借りればいいのです。

そうなれば、今、死にたいと考えている人も、死ぬのはもう少し後で構わないと、思い直すのではないでしょうか。

今回亡くなった方と、同じ病気の方が言っておられました。

本当は生きていたいと思っていても、自分が生き続けることで、家族や周りの人たちに、迷惑をかけてしまう。

だから、死にたいと考えてしまうのですと。

本当は生きていたい。

それが本音なのに、周りに遠慮をして、死を望むだなんて、せつな過ぎると思いませんか。

こういうこともありますから、国も安楽死というものを、安易に認めるわけにはいかないのでしょう。

それに、今回の事件のように、安楽死を商売にする者も現れます。

これでは自殺サイトで、自殺願望のある人を集めて、死なせてあげるのと同じです。

慢性疾患の方の安楽死の問題を、死ぬ権利という言葉を使うことで、曖昧にしてはいけません。

何故、その人が死を望むのか、そこをよく確かめるべきでしょう。

そして、少しでもその人が快適に過ごせるよう、できる努力を全てしたのかと、社会は考える必要があると思います。

 ※Zhivko DimitrovさんによるPixabayからの画像 です。

最後に死しか選べない、という状況は確かにあります。

でも、他に選択肢がある状況の方が、遥かに多いでしょう。

ただ残念ながら、他に選択肢があるのに、それに気がつかなかったり、誰にも提供してもらえないというケースが、ほとんどなのだと思います。

今回の事件で、尊厳死というものについて、議論が続くかも知れません。

それは、それで構いません。
議論が必要なことは、議論すればいいのです。

でも、本当に議論すべきなのは、尊厳死の話ではありません。

どうすれば、この方が死を望まずに済んだのかと、いうことだと思います。

人生の岐路

 ※Snap_itさんによるPixabayからの画像です。

右へ進むか、左へ行くか。
人生には分岐点が、いくつもあります。

進学するのか、就職するのか。
進学先をどこにするのか、あるいは就職先をどこにするのか。
行きたい所をとことん狙うのか、それとも適当なところで妥協するのか。

好きな人に告白するのか、黙ったままにしておくのか。
二人好きな人がいた場合、どっちの相手を選ぶのか。
あるいは、どっちも選ばないのか(どちらにも、選ばれない場合もあります)。

都会で暮らすのか、田舎で暮らすのか。
便利な暮らしを選ぶのか、不便さを楽しむのか。
人が多いのが安心なのか、静かで落ち着くのがいいのか。

言い出したら、きりがありませんね。
とにかく、いろんな分岐点があるのです。

人生の分岐点は、本人の意思とか好みとは関係なく、突然現れることもあります。

災害で家が壊されたり、仕事を失ったり、大病や大怪我などで、動けなくなったりと、それまで歩んでいた道から、強制的に別の道へ、移動させられる場合です。

分岐点で一方の道を選ぶと、もう一方の道は見えません。

そちらへ進んでいたら、こうだっただろうかと推測はできますが、直接確かめる術はありません。

自分の意志に関係なく、思いも寄らない道を、進むことになると、その道がどこへ続くのかなんて、考える余裕などありません。

不安な気持ちから、見えなくなった、もう一方の道へ、思いを馳せ続けることでしょう。

しかし、いつまでもそんなことはできません。

いつかは、渋々ながら自分が進む方向に、目を向けることになります。

その時に、かつての自分であれば、気がつかなかったような、大切なものを見つけることがあります。

すると、その道がどんなにつらい道だったとしても、そこに喜びを見い出せるのです。

ただ、みんながみんな、大切なことに気づいたり、喜びを見つけられるわけではありません。

こんなはずではなかったと、悔やみ続ける人もいます。

どうなるかは人それぞれで、その人次第です。

普段の自分の気持ちが、どこを向いているのか。

それがはっきりしていれば、分岐点が訪れた時に、右往左往することはありません。

それは分岐点が、突然現れたとしても、同じことです。

違う道へ行こうかと思っても、まだ迷っていて、自分一人では決めかねる。

そういうことはあると思います。

今の道に特別不満があるわけでもない場合、なかなか思いきったことはできません。

下手に動いて、失敗する人の姿を見たら、なおさら動こうかとは、思わないでしょう。

 ※Kranich17さんによるPixabayからの画像 です。

どっちつかずの状態で、気持ちはフワフワと、あちらこちらへ向かいます。

しかし、今の道を進めなくなると、その状況が背中を押す形になって、前からやってみたかったというものに、チャレンジする気持ちが動きます。

そこに喜びを見つけられたら、そちらへ進もうという気持ちが、ますます強くなります。

今の道を進めなくなるというのは、災害や失業、大病や大怪我などに、限ったことではありません。

何となく、今していることに、気が乗らなくなった。
今の職場へ行くのが億劫で、行こうとすると具合が悪くなる。
何か他のことをしたいと、いうわけではないけれど、少なくとも、今の仕事はしたくない。

こんな風に、心が今の道を拒む時には、人生の分岐点が、迫っているサインです。

ただ、分かれ道が二本だけとは限りません。
三本以上の道が、あるかも知れないのです。

冒頭の分岐する川の写真のように、分かれる道には、それぞれの色があると考えて下さい。

分岐点の手前の、まだ川が一本の所でも、色はすでに、二つに分離を始めているのです。

このように、自分がどの色なのかによって、分岐する方向は決まっていると、言うことができます。

自分で進む道を選んだ、と考えることは可能です。

でもそれは、その時すでに、自分の色が確定していた、ということなのです。

 ※davide villaさんによるPixabayからの画像 です。

どう進めばいいのかわからないと言って、流れに流されたままの、木の葉のような人がいます。

実は、こういう人たちにも、自分の色があって、その色の流れに流されているのです。

他人の目からみて、その流れがいいとか悪いとかは、言えません。

それが言えるのは、その流れを進む本人だけです。

もし、その流れが居心地が悪くて、こんな流れは嫌だと思うのであれば、自分の色を変えればいいのです。

そうすれば、再び分岐点が現れて、新たな色に応じた方向へ、進むことになるでしょう。

自分の色を変えない限り、こんなのは嫌だと愚痴りながら、ずっとその流れを進むのです。

今の仕事や、自分が置かれた環境に、疑問を感じている時は、自分の色を確かめましょう。

それはつまり、自分が何をしたいのか、どんなことに喜びを感じるのか、ということです。

先に述べましたように、自分の色がわからないと嘆く人にも、ちゃんと色があります。

嘆いているうちは、ずっとその色の流れに乗って、進んで行くのです。

でも焦ることも、心配することもありません。

その方向が、自分に合わなければ、必ず居心地が悪くなります。

そうすれば、何で居心地が悪いのか、と考えます。

すると、そこから自分が、何を求めているのかが、次第に見えて来るのです。、

そうか、自分はこういうことを求めていたのか、とわかれば、しめたものです。

自分の色がはっきりすれば、その人はその色の道を、進むようになるでしょう。

 ※Syaibatul HamdiさんによるPixabayからの画像 です。

やりたいこと やらねばならないこと2

 ※juliusz gronkiewiczさんによるPixabayからの画像です。

やりたいことが、やらねばならないことに変わっている時、その人は誰かの理想という枠に、自分を無理矢理、はめこもうとしています。

その枠は、誰の理想なのでしょうか。

それは、周囲の人たちの期待かも知れません。

あるいは、その人自身が創り上げた、完璧な人物という、幻影のこともあるでしょう。

誰かが喜んでくれる、誰かが感動してくれる。

そんな誰かの反応が、自分の行動の、モチベーションになるのは当然です。

その人たちが励まし、期待してくれることは、嬉しいことであり、決して悪いことではありません。

それでも、その人たちの期待が作る枠組みに、自分をはめこもうとするのは、間違いです。

こうあるべきだ、こうでなければならないんだ、と自分で考えた枠組みに、自分をはめこむのも問題です。

目標を設定して、それに向かって努力をするのは、いいことだと思います。

しかし、それによって、自分のスタイルを固定してしまうと、それは自分自身ではなくなります。

いろいろやっているうちに、自分のスタイルはこんなものだと、見えて来ることはあるでしょう。

でも、先にスタイルを決めて、そこに自分をはめようとするのは、いいことではありません。

何かを好きでやっている時、自分がどんなスタイルなのか、決めつけてはいないと思います。

自分が思ったようにするだけであって、そこにはいろんなスタイルの、可能性があるのです。

自分が好きでやっていることが、人に注目されたら、嬉しいと思います。

でも、好きでやることの、本来の目的は、そこではないはずです。

好きなことをするというのは、自分を表現することだからです。

ところが、多くの人に注目され、期待されると、その人たちの気持ちに、応えようという気持ちが生じます。

人気が出ることで、思いがけない収入が手に入ると、贅沢な暮らしが、できるようになります。

そうなると、その暮らしを維持したい、もっと稼いでもっと贅沢をしたい、と思うかも知れません。

しかし、そんな思いを目的すると、好きでやっていたはずのことが、やらねばならない義務になってしまいます。

以前のように、素直に自分の想いを、表現するようなことは、できなくなるのです。

 ※Candelario Gomez LopezさんによるPixabayからの画像 です。

親や子供など、家族の世話をすることについても、同じことが言えます。

家族を想う気持ちから行動する場合、それは自分がやりたいことです。

でも、他に世話する人がいなくて、仕方なくするのであれば、それはやらねばならないことです。

やりたいことであれば、肉体的に疲れることはあっても、やめようとは思いません。

やらねばならないことならば、大して疲れていなくても、嫌で嫌で仕方なくなります。

他の家族の協力がなかったり、家族の世話のために、自分の時間が取れなくなったりすると、やりたくて始めたことが、義務的になることがあります。

相手を想ってやっていたはずが、相手に対して、いら立ちを覚えるようになります。

 ※maggyonaさんによるPixabayからの画像です。

何で自分だけが、こんな思いをしないといけないのか。
誰も褒めてくれないのに、いつまでこんなことを続けるのか。

そんな気持ちが出るようになったら、一度世話をする相手のそばを離れ、気持ちを落ち着けましょう。

そして、自分自身に問いかけて下さい。

自分は褒めてもらいたくて、こうすることを決めたのか。
自分は義務で、家族の世話をしているのか。

答がイエスであるのなら、他の人と変わってもらうか、手伝ってもらうように、工夫をしましょう。

答がノーであるのなら、自分が愛する家族の世話をできることに、喜びを感じて下さい。

自分にできることと、できないことは、ちゃんと分けて考えましょう。

できないことを、無理にしようとしてはいけません。

できない場合は、誰かの力を借りるか、あるいは手を抜いても問題がないかを、確かめるのです。

何でも一人でしなければならない、という価値観があるのなら、その価値観を手放しましょう。

自分の想いを大切にしながら、知らない間に義務で動いていないか、自分を枠にはめようとしていないかを確かめて、自分がやりたいことを、続けることが大切です。

やりたいことを続けると言うと、ずっと活動を続けるように、受け止めたくなるかも知れません。

でも、この言葉の中には、時には立ち止まって休息を取るという、意味も含まれています。

休息することで、新たな力を養う。

止まっているように見えても、これも前進するために必要な、戦略的行為でもあるのです。

何か違うなと感じた時、それはちょっと立ち止まるようにと言う、心のサインなのです。

そのサインを、どうぞお見逃しなく。

 ※Free-PhotosさんによるPixabayからの画像 です。